34話  過去

ゆずりは 叶愛かな



灰塚はいづかが来てからあっという間に時間が経って、目を開けたらいつの間にか木曜日になっていた。GWが終わるまではあと三日。

言い換えると、中間テストまでも3日しか残ってないということでもあった。

なので今日は一人で勉強するために、朝からずっと部屋に閉じこもっていたんだけど……正直、勉強はあまり進まなかった。



「……分からない」



見るにも簡単そうな問題が解けないから、悔しい。中学ではそこそこ成績もよかったのに、一年休んだだけでこんなに詰まるなんて……まぁ、自業自得だけれど。

とにかくもう一度気を取り直そうとした時、急にノックもなしに部屋のドアが開かれた。

そして、ラフな格好の灰塚が入ってくる。



「これ、差し入れ」



もうすっかりこの家に馴染んできた彼は、机の上に持っていた小皿とマグカップを置いた。差し入れは大福とコーヒーだった。



「…家に大福なんてなかった気がするけど。もしかしてわざわざ買ってきてくれたの?」

「さっきコンビニ行ってきたから。コーヒーは苦めのインスタントだけど、苦すぎたら砂糖とか持ってくるよ」

「……大丈夫。ありがとう」

「うん」



コーヒーを一口啜ってから、私はぼうっと彼の横顔に視線を固定する。

不思議で仕方がなかった。彼はいつも私の傍にいながら、私になにかを与えようとする。

それは彼の生まれ持った優しさのせいなのか、もしくは単に彼が言った責任感の発露はつろなのか…それは分からないけど。



「……ゆずりは?」



でもこうして彼と一緒にいるのだから、どうでもいいような気がした。

私は今、人生で一度も味わったことのない、涙が出るほどの甘い時間を過ごしているから。



「おい、杠?」

「……えっ、あ……ごめん。なんでもない。差し入れありがとう」

「ならいいけど。それにしても数学か…大変だな」

「……あんたに言われると皮肉にしか聞こえない」

「そんなつもりはなかったけどな。あ、そうだ」



灰塚は何かがひらめいたようににまっと笑ってから、私に顔を近づける。



「教えてあげよっか?数学」

「や……やだ」

「………お前な、前に勉強会した時もそうだったし、なんで断るんだよ」

「あんたこそ、なんでそんなに教えたがるのよ」

「特にやることないから」

「…じゃ、勉強でもしてれば?」

「絶賛家出中の不良が、勉強とかするはずがないじゃないか」

「辻褄が合ってない!」

「ここ、分からないんだろう?」



灰塚が指さしたところは、確かにちょうど私が詰まっている部分だった。

驚いてどうやって分かったのと言いかけたけど、彼はまるで私の質問を予想したかのように先に返事を言ってくる。



「ここだけ紙がよれよれになってるから」

「うっ……」

「どうしても教わるのが嫌なら、無理強いはしないけどさ」

「……生意気」

「俺、ずっと立っていたせいで足も痛いんだけど」



…なんなの、これ。こんなこずるい部分もあるの?

一体、あなたは私をどれだけもてあそべば気が済むのよ…



「……あなた、こういう性格だったの?」



羞恥心が交えた視線を向けると、彼はしばし目を丸くしてからぷっと吹き出した。



「さぁ?分からない」

「………生意気」



その笑顔に勝てない私は、ただ目を細めて呟くことしかできなかった。








結局リビングに連れ出された私は、灰塚と並んで座りながら分からないところを質問していた。



「それで、この数字が出るんでしょ?ここまでは理解できるけど、ここから先が分からないの」

「へぇ……」

「…何か言いたいことでも?」

「いや、別に。そうだな…これは応用力が必要だから、確かにちょっと厄介かもな」



そうは言うものの、彼は私が詰まっていた部分をすらすらと解説して行った。なるべく私が分かりやすいように丁寧に、基本的な過程まで全部ノートに書いてくれた。

でも、気がつけば私はノートの筆跡を辿たどるのではなく、彼の手と横顔をチラチラと見ていた。

少し血管が浮いて私よりずっと大きい手。むせかえるほど感じられる彼の匂い。すぐ間近で聞こえる穏やかな声色。

動悸どうきは収まるどころか、段々とその勢いを増して行く。



「………………」



……ほら。こんなことになるんだから、教わりたくなかったのに。

あなたがこんなに近くにいるのに、勉強とかに集中できるはずがないじゃない。



「それで、この答えが出てくるわけだが…理解した?」

「う、うん」

「…本当に?目が泳いでるけど」

「そ……そんなことない!ちゃんと分かったから…」

「まぁ、それならいいけど」



慌てる私に対して、灰塚はしらっとした顔で言った。



「杠ってさ、基本はちゃんとできてるんだよな。計算ミスも全くないし、解き方を見てもそこそこセンスを感じられるし」

「え?」

「この程度なら追試の心配より、成績を上げて……いや。さっきの言葉はナシで」

「…もっと高い所を目指せばどうかってこと?」

「………ごめん。さっきは言い間違えた」

「なんでいきなり謝るのかな…はぁ」



本当に、なんで謝るのかな。

前々から気付いてたけど、彼は私を割れやすいガラスのように扱うところがある。まぁ、実際にメンタルは弱いから何とも言えないけど。

でもこうして彼が私に気を遣ってくれるのは……素直に、嬉しかった。



「信じるか信じないかは自由だけど私、中学の時はけっこう勉強してたからね」

「…そうか」

「あれ?珍しく驚かないんだね」

「なんとなく…ていうか、じゃなんで今は勉強しないんだよ」

「…努力する理由がなくなったから」

「…………」

「今の私は、頑張る必要がないからね」



淡々たんたんとこぼしたその言葉に対して、灰塚はしばし悩んでから言ってくれた。



「…頑張らなくていいんだ」

「………」

「杠は、頑張りたい時だけ頑張ればいいと思う」

「……………」



………ああ、やっぱりダメだな、私。

こんな優しい言葉をもらったのに、何も返せないなんて。

もう17年も生きてきたというのに、私はいまだに恩の返し方の一つもろくに知らない。

その代わり、もろい私はその開いた空間を承認欲求で満たそうとする。私のすべてを知って欲しいという欲望だけが、湧き始める。

…こんなことを言える機会なんて、きっとこの先ないかもしれないから。

灰塚と一緒にいる時間は、目をつぶったらすぐに消えるはずだから。



「灰塚」

「うん?」

「……ちょっとだけ、私の話、聞いてくれない?」

「………重いヤツ?」

「うん」



唐突な発言に灰塚は少し驚いたようだったけど、すぐに首を縦に振ってくれた。



「うん。いいよ」



即答か。本当に、勝てる気がしないな…

私は、なるべくゆっくりと言葉をつむいでいった。

古びた箱を開けるように、昔の記憶を呼び起こしながら。



「……私はずいぶん、裕福ゆうふくな家庭で生まれたんだと思う。父は大企業の副社長で、母も元は実績のあるキャリアウーマンだったからね。でも私が5歳なった時に、うちの両親は離婚してしまったの」

「…そっか」

「離婚の理由、なんだと思う?」

「…普段から仲が悪かったとか?」

「ぷふっ、あながち間違ってはいないかも。でも外れ」



大きく深呼吸をしてから、私は言い放つ。



「父親の浮気がバレたんだ。私が赤ん坊だった頃からずっと、浮気してたんだって」

「………」

「前に妹がいたって言ったでしょ?あの子はね、その浮気相手との間でできた子供なんだ。それから母と離婚して、父はあの人と新しい家庭を築き上げたというわけ」



こうやって身の上話をするのは初めてなのに、思った以上にペラペラと言葉が出てきた。

でもその一方、灰塚は隣で完全に凍り付いていた。



「お母さんはね、たぶん……耐えきれなかったんだと思うの。愛する人に見捨てられて、助けを求められる親戚と両親もいなくなってて、プライドにもひびが入ってしまったから。だから離婚したその翌年に、お母さんは死んだの」

「…………それって」

「うん、自殺。まるで呪いでもかけるように、父が働いている建物の屋上で飛び降りたんだって。怖い話でしょ?それで行き先がなくなった私は、結局父に引き取られて、あの人たちと一緒に暮らすことになったわけ」



体が少しずつ冷えていくのが感じられた。記憶の中の光景がよみがえってくる。

涙でかすんで見える世界、母の葬式そうしき、私を見る父の顔。6歳の子供でも分かるくらいに冷酷だった、鬼の顔。

その軽蔑けいべつめいた視線を浴びた時、私の中で何かがパチンと砕け散ったことを、私は鮮明に覚えている。



「当たり前のようにうまくいかなかった。継母ままははにとって私は目の敵で、父にとっても私は自分の罪の象徴でしかなかったからね。なのに私は、中学の3年になるまでは何も知らないで生きていたの。お母さんに関するあらゆる情報から隔離かくりされてたんだからね。だから……なんで私はこんなに嫌われるのかなと、いつも思ってた」

「……虐待ぎゃくたい、されたのか?」

「……そうだね。食事は基本的に部屋で一人。直接的な暴力はなかったけど、時々すごくののしられてた。妹はいつも学年首席なのに、あんたはなぜそれができないのと散々言われてたね……いざ私が一位取った時には、完璧に無視したくせに」

「……………」

「……でも、妹はね。違ったの」



呟いて、私は妹の姿を思い出す。



「妹のユリは、いつも私に優しかったんだ」

「………そうか」

「うん。私にはあの子だけが頼りだったの。いつも私と一緒に遊んでくれるし、両親に怒られる時にはいつもユリがかばってくれたから。でも……親戚の方に事の顛末てんまつを聞いた後の私は、あの子のことが許せなくなったの」



息が途切れそうになって、必死に私を呼んでいた妹の顔を。



「……だからわたしは、あの子を殺そうとした」



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