30話 分からない
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「あ……」
目を擦りながら体を起こして、ふうっと深いため息をつく。
「トイレ……」
まだ真っ暗な夜中だった。
俺は、立ち上がってからすぐトイレに向かった。間もなくして用を済ませて、軽く手洗いをしてから部屋に戻ってくる。冷たい水のせいで少し眠気が去っていくような気がした。
立ったままぼんやりとベッドを見下ろすと、杠の整った顔立ちが見えてくる。
「………」
まぁ……今日は大丈夫そうだし、いいっか。
そうしてまた布団に
「う……ぐっ……」
「…………?」
「はあっ……はっ……あ、あああ……」
「……ゆずりは?」
「あ……かあっ…あ、あああ………」
「ゆずりは」
息を絶え絶えにして
これは、あの時の声だ。泣き叫びながら許しを
杠の家にお見舞いに行った時に聞いた、彼女の悪夢の象徴。
「は……はぁ……ああ……」
「ゆずりは、おい」
「あっ……かはっ………」
さっきまで眠っていたはずの彼女は、いつの間にか額に汗を滲ませて必死で呼吸をしようとしていた。銀色の髪が乱れて汗に濡れ始める。
その姿を見て、一瞬にして頭が白に飛んでいった。
「ゆずりは、ゆずりは!起きろ、ゆずりは!!」
「ああ……あっ…はっ!」
幸いに肩を強く掴まれた杠は、気が付いたようにぱっと目を見開いて俺を見上げてくる。恐怖に満ちている、普段なら絶対に見せない顔だった。
目が覚めたというのにまだ怯えているのか、彼女は唇をぶるぶる震わせていた。
………俺は。
「…大丈夫か?」
「………はい、づか?」
「ああ、ちゃんとここにいる」
手を握ぎりしめて、杠の額に浮かんだ汗を拭く。
そしてなるべく不安を感じさせないよう、俺は目に力を込めて彼女と視線を合わせた。
「……はい、づか」
「うん」
「…はいづか」
「うん?」
「…………ううん、なんでもない」
…杠が何を言い出そうとしたのか、俺には分からないけど。
だけど手に伝わってくるか弱い力を感じながら、俺はなるべく優しい声色で語りかけた。
「眠るまでずっと、手つないでいてあげるから」
「………」
「だから、安心して寝てもいいよ。悪い夢を見たら、俺がまたすぐに起こすから」
俺は、正しかったのか。
こんなに怯えている、苦しんでいる杠を自分勝手な理由で助けて、この世に縛っておいて。
そんな彼女の命を救った俺の行動を、俺ははたして正しいと言い切れるのか。
……いや。
「…うん」
「おやすみ、杠」
「………うん」
……俺は、
あの時、杠を手放すという選択肢が俺にはなかった。
今ならはっきりとそれが分かる。過去にうなされて自殺まで考えていた少女だ。なのに俺は彼女を助けて、この世に縛っておいた。
自分から湧き出る感情は誰かの命を救ったという
誰かの人生を振り回した
だから俺は、いつまでも杠の傍にいなければならない。
彼女が生きている限り、ずっと………
幸い、あの後杠はすぐに眠ってくれたので、俺も思ったより早く寝ることができた。
珍しく昼の11時まで寝坊をして、夢うつつな状態で布団を敷いてクローゼットの中に入れて……リビングに出ると、ちょうどサラダを作っている杠と目が合って、先に挨拶をされた。
「おはよう」
「…おはよう。起こしてくれてもよかったのに」
「別に起こす必要もないからね。学校にも行かないし」
「それはそうだな…今日もカレー?」
「お昼ご飯はね。ラザニアは夕方に作ってあげる」
「それは楽しみだな……まぁ」
…気になるから、聞いても損はないだろう。
「ゆずりは」
「うん?」
「あの後、よく眠れたか?」
またうなされたと言われたら、さすがの俺もちょっとショックを受けるかもしれない。俺を自分勝手に振り回している相手だとしても、俺は……杠が苦しむ姿なんて、絶対に見たくなかった。
自分でも少し驚くくらいに、強くそう思っていた。
杠はしばしぼうっと俺を見やったあと、肯いてから微笑んでくれた。
「大丈夫、よく眠れたから」
「……よかったな」
「ありがとう。あの時、起こしてくれて」
「…いつも、見てるの?悪夢」
「さすがにいつもじゃないから……大丈夫だよ?最近は少し
「…………」
減ってよかったなという言葉が込み上がってくるのを、ぐっとこらえた。
お前にそんなことを言える資格があるのか。頭の中で
「できた。時間はちょっと早いけど食べましょうか」
「…そうだな」
そして余ったカレーを全部食べ終えて、いつの間に俺の役割となった皿洗いまでちょうど済ませた時、杠はソファーに体を預けて壁掛けのテレビを見ていた。
俺も何気なく彼女の隣に腰を下して、同じくテレビに目を移す。どうやら古い映画を見ているようだった。
ちょっとだけ離れている、でも少し手を伸ばせば簡単に触れ合える
「面白いの?」
「まだ分からない。私もたまたま目に入って見てるだけだから」
「そっか」
そのまま、俺たちはしばらく何も話さずまったりと映画
映画は、母の浮気のせいで異性を信じられなくなった男と、昔から彼に思いを寄せていた少女の物語を
「…………」
「…………」
時間が経つにつれて、物語もどんどん進んでいく。テレビには、主人公がヒロインの思いに気付き始めるシーンが映されていた。おそらく中盤くらいだろう。
「いいの?」
その時、突然にして横から質問が投げられてきた。
「なにが?」
「私といても」
「………は?」
咄嗟の質問に頭が追いつかなくなる。何を言ってるんだ、こいつは。
杠に目を向けると、彼女もまたすぐにでも消えそうな
「ずっと気になってたんだけどね。私のこと、嫌いにならないの?」
「……なんだよ今さら」
「だって、私だよ?」
お互いの視線が絡み合ったまま、少しの間だけ俺たちは沈黙を重ねる。
俺には、分からなかった。
杠が何を伝えたいのかが分からなかった。どうして今、こんなことを言い出すのかも理解できなかった。俺としては、あまりにもにわかすぎる。
「どう見てもヤバい女だよ?過去も重くて自殺願望もあって、あなたのことを勝手に振り回して遊んでるヒステリック女」
「……やめろ。いきなりどうしたんだよ」
「私はね、分からないの」
そして彼女はソファーに座ったまま、段々と距離を詰めてくる。
「なんであなたが私との距離を置かないのかが分からないの。あなたが私に優しく接してくれることも、手を繋いでくれることも、すべてが理解できない」
「…………」
「ねぇ、私はあなたにそれほどのメリットのある存在なの?」
「………やめろ、ゆずりは」
お互いの距離がなくなっていく。杠は逃げ場はないと
やめろと言われても、彼女はやめなかった。
「私にあるのは死んだ父が残してくれた
「やめろ」
「そこそこいいもんね。胸もそれなりにあるし、出るところはしっかり出てるし、自分で言ってはなんだけど顔も可愛い方だし。なのに、あなたはたった一度も自分からは私を襲わなかった」
「ゆずりは、俺は……」
「私にはね、分からないの」
手を握って指を絡ませて、杠は俺の膝の上に乗っかってくる。
そして消え入りそうな声で、彼女は呟いた。
「なんで、灰塚は私の傍にいてくれるの?」
「……………」
その根本的な質問に、すぐ答えられるはずもなく。
「……それとも、もう私の体に飽きたから?」
「…違う」
「じゃ、なんで私を襲わないの?」
「…………」
「あなたは私とセックス、したくないならないの?」
見るにも不安そうな顔で、目に涙まで浮かべてから彼女はそんなことを言ってくる。
その異質的な姿を目の前にして、俺は何も言い返せなかった。
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