19話  生きてくれ

灰塚はいづか れん



「くそ………!!」



心臓がドクンドクンと激しく鳴り出す。今、ふところの中にいるこの女の子が目の前で飛び降りようとしたのだ。

もし帰る途中にきびすを返さなかったら、ゆずりははきっと………きっと、死んだのだろう。

そのことを思うだけで、背筋がぞっとして体が震えてしまう。



「はい…………づか?」



ようやく状況を把握したのか、胸元で杠が少しうごめいたような気がした。

でも、俺は離さなかった。腕にありったけの力を込めて、縛るように彼女の全身を抱きしめた。



「は………いづか、いたい……」

「うるせぇ…!」

「………」

「おまっ………はぁ……はあぁ………」



とげとげしく言ってしまったけど仕方がなかった。あんな光景を目にしてしまったら、正気にはいられない。杠が死にかけたと思うたびに腕の力が増して行く。強く、強く抱きしめた。

残っている不安も、恐怖もすべて押しつぶすほどの強さで。

離れないように。死なないように。彼女の匂いが服に染みつくほど強く…強く。

それから、どれほど時間が経ったのだろう。

弾けそうな心臓が少しだけ落ち着きを取り戻した時、彼女はまた声をあげた。



「……はいづか、いたい……」



か細い声を聞いて、俺はようやく腕の力を抜いて上半身を起こす。

そして、まだぼうっとして俺にしがみついている杠の頬を両手で包んだ。生きていることを確認するように、何度も揉んで……目と目を合わせて。

彼女も呆けた表情のまま、唇を震わせながらも俺を見つめ返してくれた。



「…………なん……で」

「はぁ………はあああ……」



ようやく、俺は安堵あんどの息を漏らす。

なんとか助けられた。杠は生きている。今俺の目の前で、しっかりと生きている。

離れないように彼女の手を握ってから、俺は先ず窓を締めて杠の体を無理やりに起こした。そして、なるべく窓際から遠ざかるようにして彼女を教室の隅っこに引き寄せた。

それから俺はもう一度ため息を吐いて、振り向いた。



「…なにしてんだよ、お前」

「………」

「俺がほんのわずかでも遅れてたらな!お前は今頃――!」

「離して」



その瞬間、ふと我に帰ったように杠の声に力がこもり始める。

もちろん、俺は繋いだ手をほどかなかった。



「いや、離さない」

「……やだよ、離してよ。あんたに何が分かるっていうの!」

「…なにも分からなくたって構わない。俺は、絶対にお前を死なせない」

「はっ……ははは…なら、責任とってくれるの?」

「……は?」



杠はさっきとは全く違う、まるで燃え盛る炎のような目をして俺を睨んでくる。



「あんたには責任なんか取れないでしょ?責任も取れないくせになんで勝手に私の邪魔をするの?離して、離しなさい!何もわからなくてもお前を死なせない?善人ぶって私をいじめないで!!!」

「……なに、言ってんだ」



杠はぱっと腕に力を込めて俺を手を引き剝がそうとする。とっさにバランスが崩れかけて、体がふらついてしまった。

でも俺は結局、その手を最後まで離さなかった。

そして杠は血が出るほど唇を噛みしめて、今まで聞いたことのない甲高い声で叫び始めた。



「離してよ!!!!あんたには分からないじゃない!安っぽい同情で勝手に助けないで!あんたは知らない。私がどんな思いをしてきたのか、どんな人生を過ごしてきたのか、どれほど苦しかったのか、たった一つも知らない!!!だったら離してよ!!」

「……………」

「もう……もう疲れたの。もういや。私は…………いやなの。生きるのが、いや。もう楽にして…………お願いだからぁ……」



怒りの目は、徐々に涙を溜めて崩れて行った。



「……私は生きることが、耐えられないの。いつも周りの人に迷惑をかけて、母が死んで、家族が死んで、妹が死んで……なのに、喜んでたんだよ?泣き叫びながらも、笑ってたんだよ?わたし、そういう人間だよ?一人じゃ何にもできない落ちこぼれの疫病神やくびょうがみ。それが、それが私なの」

「………………」

「毎晩ね、眠ることさえ怖くて怖くて仕方がないの妹が夢に現れて私の首を締めて、母が全部私のせいだとガラス瓶を投げてくるの。あなたは、あなたはこんな状態でも生きたいと思うかもしれないけど………私は、できない。イヤ。死にたい。死にたいよ……もう……もう楽になりたい…………!」

「………ゆずりは」

「お願い、離して……あなたのせいじゃない。噂のせいでもない。ただ、私という人間がもうダメだから。取り返しがつかないから。とっくに自殺で終わるはずの人生が、少し先延ばしにされただけだから。私は、死ぬべき人間なの。だから灰塚、あなたのせいじゃない。むしろあなたには感謝しているくらいだから…………だからね、あなたはただこの手を離して………ここから立ち去ればいいの」

「…………………」

杠叶愛ゆずりはかなという人間を、存在しなかったことにして頭から消してしまえばいいの。私はそれで満足だから。あなたが責任を感じる必要はないから。優しいあなたなら、きっと理解してくれるよね?だから………お願い」

「…………」

「…もう、私を楽にして?」



涙で歪んだ彼女の笑顔を見据えながら、俺は背筋を震わせる。

ここまでとは、思わなかった。

辛い過去があるのは知っていた。俺に何かを隠してずっと一人で悶えてたことも、なんとなく察していた。

でも、これほど苦しんでいるとは思わなかった。

こんなにも涙でぐちゃぐちゃになって、死にたいと切実に願うほどだったなんて、思いもしなかった。

杠のお見舞いに行った時のことを思い出す。あの時、ごめんなさいと何度も謝罪しながら涙を流していた杠を。

そしてもう何もかも諦めたように微笑みながら、涙を流している今の杠。



「…………………………」



果たして、正しいのだろうか。

こんなにも悩んで、苦しんでわずらっている彼女を生かしておくのは、果たして正しいことなんだろうか。

わけが分からなくなってくる。彼女は切実だ。心から死を願っている。楽になりたいって叫んでいる。俺には彼女を救える資格があるのか?

本当に、これが正しいのか?

手の力が緩められ、頭で響く自分の声。あの女を消してしまえ。

お前には責任が取れない。めんどくさくて重い女だ。この女を生かしておくと、必ず人生のどこかでバグが生じて歯車が嚙み合わなくなる。

杠叶愛を消せば、いま手をほどいて背を向ければ、お前も楽になれる。

お前に、彼女を助ける力なんてありゃしないから。



「…………」

「…………はいづか」



自然にして、杠の腕がするりと俺の手から離れていく。

その場面をしっかり目に焼き付けているのに。杠が笑う表情さえも、ちゃんと目で捉えているのに。

手が、手が動かなかった。動いてくれなかった。



「…ありがとう」

「…………」

「さようなら。あなたは優しいから、きっと私なんかいなくなったって幸せになれるよ。あなたの幸せを……願ってる。こんなこと言うの、本当に最低だと思うけど………幸せに、なってね」

「…………………」

「…さようなら」



そして、彼女は俺に背を向けて窓際に向かって歩き出す。

俺はその背中を見つめて、項垂れて、自分の手を見下ろした。

そうだ。俺に杠は救えない。あいつの苦痛のたった一かけらも肩代わりすることができない。あいつは死を願っている。あいつが疲れているのは目に見えるほどだ。これは仕方のないことなのだ。

俺には彼女を止める資格も、名分も、理由も…………

………俺、には…………



「……………いや」



……………でも。

でも、これは違う。違う。違う。

どう考えたって、これは違う。



「ダメだ……」

「………え?」

「待って!!」



どうしても、俺にはできなかった。

俺はどうしてもこの小さな女の子が、生きていて欲しかった。



「はい………づか?」



手首を握られて戸惑っている杠が、ぶるぶるしながら俺を見上げてくる。

頭が真っ白になった俺は、ただ感情だけを漏らし続けた。



「………生きて」

「え?」

「生きてくれ」



その瞬間、杠の動きが止まった。

もう耐えきれなくなって、俺は押しとどめていたすべての感情を彼女にぶちまけた。



「生きてくれよ。お願いだ、生きてくれ」

「………………」

「お前に生きる理由がないなら、俺のために生きてくれよ。お願いだから」



強い西日が差し込んで、教室の中のすべてを覆い始める。

彼女の手首を握っている俺の手も、彼女の見開いた目も、何もかもが日差しに飲み込まれていく。



「一生、うらんでくれてもいいから」

「………え?」

「お前を生かせた俺をにくんで、恨んで…耐えきれなくなった時には、俺を思いっきり殴ってくれても構わないから。悪い夢を見た日には、勝手に呼び出して好き放題にしてもいいから。感情を投げ出すゴミ箱みたいに使ってもいいから。俺の人生を…めちゃくちゃにしても、いいから」

「…………………」

「だからお願いだ。俺は、お前に生きて欲しいんだ。死ぬなよ、生きてくれよ。お願いだから」



もう彼女は何とも言えない顔をして、再び体を震わせた。



「………な、んで?」

「え?」

「なんで……そこまでするの?なんで?理解できない。私たちは、ただのセフレだから、そんなこと——」

「……関係ない」



その言葉をさえぎって、俺は声を上げた。



「体とか、恋とか、愛とか、同情とか、セフレとか……そんなものすべて関係ない。ただ……ただお前が必要なんだ。本当に、ただそれだけだよ」

「…………」

「……悪い。本当にごめん。お前の邪魔をしてしまって、また苦しめて…ごめん」

「………………」

「でも、俺にはできないんだよ」



そして俺は震える唇をぐっと結んで、言い放つ。



「どうしても俺は、お前を死なせない」

「………………」



瞳が揺らぐ。

怯えているかのように彼女は全身を震わせて手首を見下ろして、また俺に目を向けて。

徐々に、涙ぐみ始めた。



「…………うっ」

「…………」

「はっ………はぁ……あぁ………ううっ……」



彼女はうつむいて、涙を抑えるために精一杯息を整えようとする。

そして、消え入りそうな声で訴えかけてきた。



「……出て行って」

「……言っただろ。俺はお前を—」

「死なないから……」



その小さな声を聞いて、俺はとっさに動きを止めた。



「飛び降りたりしないから……あなたの人生を………めちゃくちゃにするまで、絶対に、死んで…くれないからぁ……」

「…………」

「だからお願い。今は出て行って………約束するから……」

「………………」



ああ。

ああ………ああ。



「………分かった」



ようやく、俺はほんの少しだけ笑えることができた。

そして、ポケットの中にあるハンカチ広げて彼女の頭の上に乗せてから、言う。



「……使っていいよ」

「うっ………あ……あうっ………」

「泣き止むまで、廊下で待ってるから」

「ううっ……ううう……」



教室を出た直後、静寂を突き破るような大きな泣き声が廊下に響いた。



「………………ふぅ」



必死でこらえている姿が目に見えてたけど、結局台無し。

彼女はまた泣いて、また叫ぶ。その間、俺はずっと廊下の白い壁にもたれかかっていた。

…とんでもないことをしてしまったな。

生まれて初めての無茶ぶりだった。セフレを通り越して、自分自身に呪いをかけて……俺らしくないことを、やらかしてしまった。



「…………はっ」



でも、不思議とこんな自分がイヤにはならなかった。

廊下に差し込んでくる夕焼けが、杠の泣き声が、彼女が生きていると安心する自分の気持ちが合わさって何かを生み出す。これは幻想なのかもしれない。

……それでも、今だけはどうでもよかった。

未来のことは、未来に立ち向かえばいいのだ。

ただ俺は、今教室の中で泣き叫んでいるあのか弱い女の子が…

幸せになれたらいいなと、ただ心からそう願うだけだった。

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