10話 色彩
<灰塚 連>
杠に泊まると言った後、俺はさっそく家を出てマンションの廊下で父にどう説明するべきか悩んでいた。
普通に友達が体調を崩しているからとありのまま言うのは、さすがに納得してくれない気がした。頑固で疑い深いあの人のことだ。たぶん遊ぶための口実だとか言って信じてくれないのだろう。
……だったら、器用にウソを付くしかいないか。ウソを付くのは下手だけど……
「………まぁ、仕方ないっか」
そして案の定というべきか、間もなくして電話の向うからとんでもない怒声が飛んできた。
『お前なに言ってんだ。早く帰って来い!』
「だから、友達と勉強するって何度も……」
『勉強といってもどうせやりたい放題に遊ぶんだろう?お前にそんな時間はない。家に帰って来い。予備校に通わせない条件で俺と約束してたこと、まさか忘れてはいないんだろうな』
「だから、俺は……」
『うるさい!帰って来いと言ってるじゃないか!』
………ウザいなぁ。
父と電話すると、時々何もかも投げ出してぶち壊したい気分になる。
「約束通り、ちゃんと一位守ってるだろ?テストまではあと一ヶ月もあるし、今日は…」
『お前はそんなところがいけないんだ。お前はいつかこの病院を引き継ぐ男。遊びたいという欲求は自然ではあるが、今は勉学に励むべきだ。自分を制して未来を考えろ。お前は、俺なんかよりもっとすごいやつだからー』
「………あんな病院、俺は要らない」
言ったそばからしくじったと気づく。しばらく重たい沈黙が流れた。
俺は、聞こえないよう小さく
ああ…スイッチを入れてしまったかも……
普段なら適当に聞き流す小言だけど、さすがにたった一日の外泊も許してくれない父親に対しては少しイラッとしてしまう。
勉強を強要して、さも当然のように俺に病院を引き継がせようとするその高圧的な態度。こんな風に生きろと命令されるような不愉快な感覚。
すべてがおぞましかった。虫唾が走る。時々、俺は父に息子としてではなく機械として見られているんじゃないかと思う時があった。
『お前、今なに言ってー』
「……明日の昼頃には帰るから、話はそれからにして」
『おい!連!」
礼儀がないと分かっていながらも、俺は即座に電話を切って電源を落とした。どうせうるさく言われるなら、今日よりは明日の方がいい。
極端な真似をしてしまったという自覚はあった。己に非があるということもちゃんと分かっている。
でも、どうしても耐えきれなかったのだ。一体なにが気に食わないと言うのか。望まれている成績までちゃんと上げてるというのに、いちいち俺の行動に干渉して……本当、何をしているんだか。
……父は何を言っても、自分を変えたりはしない人間なのに。
あんな人にどれだけ反抗しても結局、自分が先に疲れ果ててしまうのがオチだと、知っているのではないか。
「はあぁ……」
これ以上くよくよしても仕方がないので、俺は再び大きな息を吐いて心を落ち着かせようとする。
……それより、さっきの杠は。
『あ……あああああああああああ!!』
『………ゆずりは?』
『ごめんなさい、ごめんなさい……あ、あああ………あっ…かっ……かっ!』
『ゆ………ずりは?』
……アレは確実に、尋常ではなかったな。
泣き叫びながら誰かに許しを
……彼女の儚げな雰囲気は、俺には想像もできないくらいの不幸に基づいているのかもしれないと、一瞬そういった考えが脳裏ををよぎる。なんとなく、幸せで平和な家庭で育てられた風には見えなかったけど………
「…………」
かわいそうという単語が自然と頭に浮かんだ。それは間違いなく同情心。
たぶん、杠が絶対に求めていないはずの感情。
そして俺が杠に、絶対に抱いてはいけない感情。
お互いのために、俺はもう一度平静を取り戻そうとする。杠に惨めな思いをさせたくはない。俺から何かを
あくまで、俺たちは俺たちだ。
ちょっとズレているけど、決して悪くはない関係。
……やっぱり今日はこの家に来て、よかったと心底思った。
「……ふうう」
明日どれだけ父に
それ以上に意味のあることをしたんだと、俺は確信した。
「…帰って。本当にもう大丈夫だから」
「もう手遅れだ。家に泊まるって言ってきたから」
「なんでそんな
熱のせいなのか杠の顔はずいぶんと上気して赤くなっていた。いや、もしくは羞恥心のせいかもしれない。
まぁ、別にどっちでも構わないけど。
「安心しろ。明日の朝に起きたらすぐ帰るし、夜中に襲ったりもしないから。約束する」
「…情けをかけるつもりなんでしょ?何度も言うけど、私はー」
「……純粋に心配なだけだって、さっきも言ったけどな」
言葉を遮って、俺はちょっとだけ頭を垂れて口角を上げる。
さっきまで浴びていた恨むような目線は、徐々に驚きへと変わって行った。
その激しい表情の変化がなんか
「距離を詰めるための点数稼ぎでも、同情心でもない。もちろん早くせっ…あの行為がしたくているわけでもない。信じようが信じまいがは自由だけど、俺はただ純粋に杠のことが心配だから、泊まろうとしているだけだよ」
「……………」
「もっとも、俺は誰かに同情心を施すほどの幸せ者でもないけどね」
家は
でも、今まで幸せだと感じたことは、一度もなかった。
親が進路のことでうるさく言ってきた中学生の頃から、俺の感情は徐々に薄れて行った。自分は呼吸をしているだけの
でも、今は違う。
杠の傍で、面倒を見てあげたいと思う自分がいる。これは俺の意志だ。屍にはできない自発的な考えだ。
灰に埋め尽くされた世界で、自分で見つけた数少ない色彩だ。
「…風邪、移るかもしれない」
「寝る時はこの部屋じゃなくてリビングで寝るから気にしなくてもいいぞ。病人は早く治ることだけ考えろ」
「……正直に言って」
「は?」
「私と早くしたいから、お見舞いに来たんしょ?」
「お前………何度も言ったけど、俺はー」
続いて言おうとした瞬間、不意に彼女の顔が目に映ってきた。
何かを訴えかけているような、必死でいながらも怯えているような複雑な顔色。それを見たら、なんとなく自分が言おうとしたことを言ってはならない気がしてきた。
何故かは分からないけど、自分の本音を伝るのはいけない気がした。
…彼女は、傷だらけの子供だから。
だから俺は、彼女に合わせることにする。
「………全くないとは、言い切れないかもな」
「………」
……そういったものの、あながち嘘でもなかった。彼女とのセックスはそれなりに……気持ちいいから。
時々、彼女があえいでいる姿を思い浮かんだりしてるから。いつの間にか、毎週の土曜日を意識してしまう時だってある。
……さすがに病人の前で、その気にはならないけど。
「分かった」
何を分かったのか。彼女はそれ以上何も言わず目を伏せるだけだった。
…なんか間違ってたのかな。でも、彼女にどんな言葉をかければいいのか、俺にはまだ見当もつかない。
俺はただ、彼女の傍にいながら苦笑をするしかなかった。
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