8話  恋愛観

灰塚はいづか れん



「…まぁ、さすがに今日はいないか」



放課後にいつも顔を合わせる空き教室の中に、今日は珍しく先客がいなかった。ゆずりははすでに帰っている。

もちろん、理由は分かっていた。今日見せてくれた彼女の青白い顔色から察するに、たぶん風邪をひいてしまったのだろう。心配になって一度大丈夫かと聞いて見ようと思ったけど、結局行動には移せなかった。

……それはたぶん、彼女にあんなことを言われたから。



『優しくしないで』

『…は?』

『セフレなんでしょ。優しくするくらいならいっそのこと物扱いしてよ。そんな気遣い、私は要らないから』



きっと、彼女なりに線を引くための言葉。

ここ数ヶ月の間、一緒にいて自然と気付いたことがある。杠叶愛ゆずりはかなという少女は、そういう類の線にとても敏感だ。普通の人は人と慣れ合うことにつれて自然と心の防壁を崩していく。でも彼女は違う。

彼女の壁は、たぶん俺が測り知れないくらいに固くて、高いのだ。



「………」



過去に、何があったのだろうか。

彼女の普通は、俺の普通とは全然違う。彼女には何らかのトラウマがあって、そのトラウマにずっと取りつかれているような気がした。単に俺の大げさかもしれないけど………



「…帰るか」



どうであれ、彼女がいない教室に入り浸る理由はない。俺はさっそく教室を出て下駄箱で靴を履き替え、校門へ向かった。

そしてスマホをいじりながら、今日はどんな曲を聞こうかなとイヤホンを手に取っていた時。

ふと、後ろから馴染みのある声が聞こえてきた。



「あれ、灰塚君?」



振り向くとそこにはわが校のアイドル、朝日向結あさひなゆいが立っていた。少しだけ目が丸くなってしまう。

もう授業が終わってからずいぶんと時間が経ったというのに、彼女と鉢合わせるなんて。幸い気まずい相手ではなかったので、俺は持っていたイヤホンをポケットに入れて軽く挨拶をした。



「よう、今帰り?」

「うん、灰塚君も?ちょっと帰るの遅くない?」

「朝日向がそれを言うのか…先生に何か頼まれたの?」

「ううん、そうではない…けど」



だいぶ言いよどんでていたけど、朝日向はすぐに何でもないと言い加えてからちょっとぎこちない笑みを浮かべる。どうやら、これ以上聞くのは失礼なようだった。

なので深追いすることなく、俺は自然と彼女の横に立って歩き出した。



「……優しいね、灰塚君」

「…普通だろ、別に」

「その普通ができない人だっていっぱいいるの。そっか、だから叶愛ちゃんが骨抜きにされたのか~」

「…冗談でもそんなこと言うなよ」



一瞬、ギクッとしてしまったじゃねぇか……。朝日向が、俺たちの間にどんなことがあったか知るよしもないというのに。



「あら、残念」



当の本人も冗談のつもりだったのか、それ以上探りを入れることなくへらへら笑うだけだった。



「でも脈ありだと思うけどね。灰塚君と叶愛ちゃん」

「どこが?まぁ、そこそこ気が合うのは否定しないけど」

「否定しないんだ。へぇ~」

「なんだよ……」



あれか。女子高生はいつも恋バナに飢えているというヤツなのか、これ。



「でも、叶愛ちゃんが一番気を許している存在は灰塚君だよ?これは推測じゃなくて、確信」

「…どうして?朝日向だっているじゃんか」

「私は…まぁ、中学からの付き合いだから、ある程度は親しいけどね。でも叶愛ちゃんはあまり本心を見せてくれないと言うか…距離を置かれている気がして。叶愛ちゃんが普段なに考えているのか、私はよく分からないし」

「……そうか」

「それに、クラスで叶愛ちゃんと一番仲がいいのも灰塚君だし」

「それほどではないと思うけど。他の奴らともちょくちょく話してるだろう?」

「でも、本気で笑うのは灰塚君の前だけだよ?」

「は?」

「作り笑いじゃなくて本音を出すのは、灰塚君の前だけ。これは、女同士だから分かることなんだけど」



……杠が、俺に?本当の笑顔?そんなこと……

どう考えても理解できなかった。あの杠が?



「女の子はね。心を許した人といると、他人には見せないような笑顔をしちゃうものなの。個人差はあるけど、大抵の女の子は男の子より何倍もそれが表に出るから」

「…つまり、杠が俺に心を許していると?」

「うん。少なくとも男の子の中では一番だと思うよ?これは私だけじゃなくて、クラスのみんなだってそう思うんじゃないかな」

「勘弁してよ…クラスのやつらにそんな目で見られたくない」

「ふふっ。灰塚君も叶愛ちゃんも、とにかく目を引いてしまうからね~」



朝日向さんはクスクス笑みをこぼしながら愉快な口調で言った。さっき見た時は何だか困っているような顔をしていたが、あれはただの気のせいなんだろうか。



「うん、ちょっと気分が楽になったかも」

「…よかったな」

「ええ~本当、灰塚君ってドライなんだから。なんにも聞いてこないし」

「……なんだ、聞いて欲しいのか?」

「…どうかな」



ずいぶんと予想外の答えだったから、俺は思わず目を見開いてしまった。振り向いた朝日向は、最初に見た時と同じくほろ苦い表情をしていて。

俺は少し間合いを取ってから、できる限り平坦な口調で尋ねた。



「何かあったの?」

「うん…まぁ、灰塚君なら別にいいかな。他人に言いふらしたりしないだろうし」



そんな言葉を吐いてから、彼女は一度ため息をついて言った。



「さっき、3年の先輩にコクられたんだ」

「……そうか」

「うん。…それで断ったらね、なんで自分じゃダメなのかって聞かれて、色々話したの。私の恋愛観っていうか、付き合えない理由をね」



…朝日向に告白か。

まぁ、当たり前だと思う。彼女は本当の意味でいい人だから。いつも明るくて気が利いて、相手が負担を感じないよう自然に話を合わせる器用さもあるし。そして、どうしても目立ってしまうこの清楚な雰囲気と可愛さ。

そんな彼女を、男が放っておくわけがないのだ。

…だからこそ、彼女なりの悩みもたくさんあるのだろう。



「私ね、これから知り合おう…なんて恋愛、あまり好きじゃないの。もちろん、そんな類のやり方があるのは知ってるけど」

「それは、相手のことをよく分かり合ってから付き合いたいとか?」

「うん。なるべく恋愛は大切にしたいから……途中ですれ違うのもいやで、軽いノリで付き合うのはどうしても腑に落ちないの。お互いのことをよく知って、その人ととの相性を色々考えてから付き合いたい。これを伝えたらね、重いと言われたの」

「……………」



自嘲するように、朝日向は苦笑いを浮かべていた。



「…その言葉、友達には前から散々言われてたけどね。でも告白してきた相手に言われるのは初めてで、ちょっとショックだった。友達に相談しても、一度は付き合ってみなさいと同じことを言ってくるから。もしかして私だけズレてるんじゃないかって、ふと思っちゃって」

「…そうか」

「…灰塚君はどう思う?私、重いかな?」



今まで見たことのない落ち込んだ姿が、彼女の悩みの重さを教えてくれる。俺はなんとも言えなくなって、しばし沈黙した。

でも、間もなくして俺は口を開く。ありのままの考えを伝えるために。



「いや、普通だと思うけど。少なくとも、俺は朝日向がズレているとは思わないかな」

「…え?」

「何で意外そうな顔してんだよ…本心だよ。普通の人なら誰しも、恋愛が長続きするのを願うもんだろ。朝日向の場合は、ただ他の人よりちょっと真面目なだけ。だから腑に落ちないなら、別に今のままでもいいんじゃない」

「………」

「いや、だからなんでそんな顔?」



ずいぶんと驚いた顔をしやがって。…俺、なんか変なこと言ったのか?



「…驚いた。灰塚君にそんなこと言われるなんて考えもしなかったから」

「なんでだよ…聞いたのそっちだろ?」

「あっ、ごめんね?皮肉を言うつもりじゃないの。本当に驚いただけ。灰塚君なら、もっと現実的でドライな反応するかと思ってたから」

「へぇ………そっか」

「うん。でも当たり前だよね。心から好きな人とはずっと一緒にいたいから。気を許せる、私を理解してくれる人と…」



もう吹っ切れたのか、朝日向はさっきよりずっと軽い表情で空を見上げていた。その横顔を見てると、自然に口角が上がる。

本当に、純粋で一途なんだなと感心してしまう。

彼女はきっと俺と杠とは真逆の、好きな人ときちんと愛し合う未来を描いて行くのだろう。それでいいと思った。彼女にはその資格があるから。

…次に響也きょうやに会ったら、こっそり教えてあげようかな。



「ありがとう、悩み解決!」

「よかったな」

「うん、灰塚君のおかげでちゃんと自信を持てた。本当にありがとう。さすがは、叶愛ちゃんを骨抜きにした男ね!」

「堂々とデマを流すな。あと俺と杠を絡むのもやめろ」

「ええ~なんでツンツンするのかな。本人も気が合うって認めたのにさ~」

「…………めんどくさい」

「ひどい~ふふっ」



とにかく、朝日向は完全に機嫌きげんを取り戻して、俺たちはその後5分くらい無駄話をしてから駅前で別れた。

そのあと家に向かう途中、俺はぼうっと空を見上げながら考える。

いじられるのは不本意だったけど、そこそこ楽しかった。朝日向ともっと親しくなったという事だけで、十分な意味のある時間だった。

それとは別に気づいたことがあるとするなら、やっぱり俺はズレているということだった。



「…一体なんだろうな、俺たち」



体の快楽だけを求めて成り立つ関係、セフレ。朝日向がこのことを知ったら、きっとろくなことにはならないだろう。

…それでも、俺はこの関係をまだ手放してはいなかった。

認めざるを得ない。俺はもうとっくに溺れているのだ。

杠叶愛という少女が与えてくれる快楽と自分自身の好奇心に、俺はもう窒息している。



「………」



体調は、大丈夫なのかな。

心配になってメッセージアプリを起動したけど、すぐにやめた。俺たちは別にそんなメールを交わす間柄でもないし、彼女がはっきりと引いた線を超える気にもならなかった。

もちろん、心配にはなるけど……



「ゆずりは…」



ぼそっと彼女の名前をつぶやいて、俺は素早く家に向かう。そして俺は、来日になっても杠と学校で会えなかった。

なぜなら風邪がさらに悪化したらしく、彼女が学校に欠席してしまったのだ。


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