5話  誘い

ゆずりは 叶愛かな



カバンから本を取り出そうとした時、ちょうど隣で五十嵐いがらし君と灰塚はいづかの話し声が聞こえてくる。彼らが話してるところを見ると、友達じゃなくて年の差のある兄弟に見える時があった。

まぁ、五十嵐君って顔立ちは整っているけど、少し庇護欲ひごよくを刺激するところがあるから。だからいつも無愛想な灰塚と相性がいいのかもしれない。



「おはよう~叶愛ちゃん!灰塚君も!」



そんなことを考えていると、後ろから明るい声が聞こえてくる。

振り返ると、真っ先にサラサラな茶色の髪が目に入ってきた。胸元まで伸びている髪とすっと伸びた高い鼻と薄い唇、赤ちゃんみたいにつやつやな白い肌。

満面の笑みをたたえて挨拶しているのこの女の子は、正にクラスのアイドル的な存在だった。私にとっては、中学からの付き合いである数少ない女友達。

朝日向結あさひなゆい



「おはよう、結」

「うん!五十嵐君もおはよう」

「お……お、おはよう。朝日向さん」



……照れてるな、五十嵐君。

申し訳ないけど、彼の反応を見ているとつい微笑ましい気分になってしまう。好きという感情がそのまま顔に出てるから。

でも結はまだ気づいていないのか、もしくは単に気づいてないふりをしてるのか。どちらかは分からないけど、いつも五十嵐君に平然と接していた。



「そうだ。今朝五十嵐君の動画見たよ!どうやってあの短時間で作ったの?アルバム出てからまだ二日も経ってないのに」

「あ……慣れたからね。曲の歌詞だって他の人がほぼネットにアップロードしてくれるし、僕はただそれを翻訳しただけだよ」

「ううん、絶対すごいと思う。動画見て感心しちゃった」

「…ありがとう」



五十嵐君は見る見るうちに顔を赤らめて俯いてしまった。まぁ、好きな相手に絶賛されて照れるのは普通だけど…でも五十嵐君は少し純粋すぎるんじゃないかな。そんなところが、彼の魅力かもしれないけど。

その一方、結は私の前の席に座っていた灰塚に視線を向けた。



「灰塚君も、バリアのアルバムずいぶん聞いたんじゃない?」

「それが…実はまだ聞いてないんだよ。週末に色々あったから」

「えっ、意外だね。灰塚君ならてっきり一日中聞くと思ってたのに」

「別に響也じゃないから」

「ちょっと、連…!」



慌てる五十嵐君を見て結は楽しそうにしている。いつも通りの穏やかな空気だった。

でも私は、彼が言ったことが気になって少し顔をくもらせていた。

好きなアーティストの新曲を聞かなかった理由………それは、私のせいなの?

この前あんなことをしてしまったから……頭がごちゃごちゃになって、それどころじゃなかったから?



「………………」

「………………」



どれだけ見つめても、彼の笑顔からはなにも読み取れない。

彼は、今日初めて会った時からたった一度も私に視線をよこさなかった。改めてそれを自覚して、心臓がぎゅっと掴まれたような不快感を覚えてしまう。

……あなたはこの前の出来事を、なかったことにしたいわけ?



「あの曲めっちゃよかった!フィーチャリングした歌手さんもメロディーもすごく好みで、もう何回も聞いちゃったよ」

「そ…そうだよね!まだ二日しか経ってないけど、現地の反応もすごいよ。また新しい傑作を作り上げたと評論サイトでも絶賛されてたし」



五十嵐君と結が好きな歌手をネタにして話を盛り上げている中、私は露骨に灰塚を凝視ぎょうしする。

何でこんな感情が浮かぶのかは、知らなかった。ただ無性に腹が立った。彼の立場から見ると、むしろ当たり前の行動かもしれないのに。

とにかく彼もそれ以上は無視できなかったのか、ついに首を回して私と視線を絡めてきた。



「…どうした?」

「……」



…ここで話すのは、無理かな。もう教室に人がいっぱいいるし。

だから、私はポケットからスマホを取り出して、彼にしか見れないような角度でこっそりスマホを指さした。



「………ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」

「うん、行ってらっしゃい~」



行動の意味を察したのか、彼は直ちに立ち上がってトイレに向かった。手を振りながら彼を見送った結は、また五十嵐君と話を盛り上げる。

私は適当に相槌あいづちを打ちながら、周りから見えないようにしてスマホでメッセージアプリを起動した。

…さて、どんな内容を送ればいいのかな。



「………」



いつも通り、とあの時の私は言っていたけど。

でもつくづく痛感してしまう。私たちはもう元の関係には戻れない。

友達でも、恋人でも、かといってただのクラスメイトでもないあの曖昧な関係性は、もう戻ってこない。

残された選択肢はこのまま赤の他人になるか、それとも他人には言えない秘密の関係になるか、その二択のみ。

何度も思い悩んで、何度もメッセージを打って消して……結局、私は大きく深呼吸をしてから、短めなメッセージを送った。



『放課後に、教室で待ってる』



もちろん、あの空き教室を指しているということくらい、彼ならすぐに分かるだろう。

心臓がバクバク高鳴る。スマホをポケットにしまって、私はもう一度深呼吸をする。

さっきまでメッセージを打っていた手先は、まるで氷のように冷え切っていた。







帰りのHRが終わってから、私は見向きもせずに階段を駆け登って例の空き教室に入る。

単純に、灰塚の顔を見るのが怖かったのだ。

メッセージに既読がついた後も、トイレから帰ってきた後も灰塚はいつも通りだったから。授業を真面目に受けて、お昼休みは五十嵐君とだべりながらイヤホンで音楽を聴いて、午後にはまた勉強して。

来るかもしれないという淡い期待だけを抱いて、私はいつもの席で本を読み始める。5分が経った。それから10分。15分。20分……

それでも、どれくらい時間が経っても、教室の扉は開かなかった。



「…………」



…まぁ。

仕方ないよね。知っていたじゃない。

苦笑したまま、私は天井を仰いで溜めた息を吐く。

知っていた。ここ数ヶ月がおかしかったのだ。彼は私と住む世界が違うから。彼は学年一位の秀才で聞いた話によると家柄もよく、そこそこ人気もあるのだ。私なんかとは大違いだ。

彼が自ら泥沼の入るような選択をするはずがない。分かっていた。でも……

……なんだろう、これ。告白して振られたわけでもないのに。

なんでわたし今、こんなに惨めなんだろう。



「本当…バカみたい」



本当に、このまま生きていてもいいのかな…なんてバカな考えを巡らせながら、私は再び息を吐く。

そして、本を閉じてもう帰ろうとしたその時に―

ガラリ、と引き戸がぶつかる音がした。



「…………」

「…なんだよ、自分で呼んでおいてその顔」

「いや………」



数十秒経って、ようやく口が動いてくれた。



「……来ないと、思ってたから」

「……」



魂が抜けたようにぼうっとしている私を横切って、彼は私の隣の席に腰かける。

教室でも同じである、私の左側の席に。



「……お前が言ったんだろ?なにも変わらないって」

「………」

「じゃ、いつも通りにやるだけだよ」



図々しいとさえ思われるその言い草に、私は言葉に詰まってしまう。

……変わったんじゃないの?

私の勘違い?意識しているのは私だけ?それは……それは……

………ずるいよ。

ダメ。認めない。心の中で色んな感情が混ざりあって黒になっていく。濁りをたくさん含んだまま、どんどん沈んで。



「…ねぇ」

「…なんだ?」

「ごめん。わたしウソついてた」

「………………」

「セックスって、それくらいのことじゃない?ものすごい力があるから。簡単に何かを変えて、何かを壊す力が………あるじゃない」



灰塚はようやく私を見てくれる。彼の瞳は、今まで見たことがないほど揺らいでいた。

そこで私は安心する。ああ、同じなんだと気づく。彼も意識しているのが分かって、嬉しさがせり上がってきた。

そりゃ、仕方がないよね。まだ幼い私たちにとって、あの行為は刺激が強すぎるもんね。

あんなに激しかった瞬間、忘れられるはずがないから。



「変わったよ?私たち」

「…………何が言いたいの?」

「そうね……」



露骨に投げかけた言葉に、彼は一瞬びくっとしてまるで吸い込むように私を見据える。何か言いたげなのに必死で我慢しているような、複雑な表情だった。

そこに釘を差すように、私は言う。



「来週の土曜日、時間空いてる?」



これは、やはりというべきか分からないけど。

彼は、首を横には振らなかった。

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