密閉容器
増田朋美
密閉容器
密閉容器
今日も影浦医院では、沢山の患者さんたちが待っている。午前中だというのに、この病院が繁盛しているのは、やっぱり世のなかがおかしくなっているということだろう。学校の事、会社の事、家庭のこと、みんな色んな悩みを抱えて、この病院にやってくるのである。
「次の方どうぞ。」
看護師に言われて入ってきたのは、まだ、高校生と思われる女性と、その母親だった。
「えーと、森美登江さんでしたね。今日も、こちらへ来てくださりありがとうございます。」
と、医師の影浦千代吉は、女性に向って、そういうことを言った。実はこの女性、扱いに手を焼いていた母親が、無理やりここに連れてきたという経緯がある。そういうやり方は、しないでもらいたいなと影浦は思うのであるが、其れができるという家族は意外に多くないもので、大体の家族が、こうして無理やり連れてきたり、だまして連れて来たりするものである。そして、患者である若い人たちの主張を聞いてみると、医学的な援助はほとんど必要なくて、学校を変わるとか、そういう事で解決できてしまいそうな、問題ばかりである。
「こちらこそありがとうございます。影浦先生。」
森美登江さんと言われた女性は、にこやかに笑って頭を下げた。
「どうですか、調子は。又、人が怖いとか、そういう症状はありますか?」
影浦は医者らしく、にこやかに笑って言った。
「ええ。大丈夫です。長年の望みがかなって、新しい学校に行かせてもらうことになったんです。」
美登江さんも、笑顔を返した。
「新しい学校ですか?」
と影浦が言うと、
「はい。やっと私の希望がかなって、新しい高校に行かせて貰うことになりました。富士宮市なのでちょっと遠いですが、でも、今度は毎日通う必要もないし、自分のペースで勉強もできるので、とても嬉しく思っております。」
と美登江さんは言った。それに続いて母親が、
「教学者学園に通うことになりました。ちょっと、電車の本数が少ないので、一本逃したら遅刻になってしまいますが、それでも本人がやっとやる気を出してくれました。」
と、嬉しそうに言った。大体、本人より親のほうがこういうことは喜ぶものである。其れも影浦は何人も見てきているから、あえて指摘しなかった。
「そうですか。教学者学園というと、富士宮の稲子駅の近くにある、通信制高校ですね。あんな山奥に高校なんか作って生徒が集まるのかと思いましたが、以外にも親身になって教育してくれるそうで、人気があるそうじゃないですか。」
とりあえず、影浦はそう言っておく。
「ええ、秘境駅の近くの高校ということで、かえって自然が豊かで勉強に集中できると思います。それで、先生、御願いがあるんですけど、私、月に一度通院しなくても良いですよね?もう新しい高校も決まったし、精神科に通う必要なんてあるのかなと思って。」
美登江さんは、影浦に言った。確かに彼女は、妄想があるとか、幻聴があるとか、そういう症状はほどんどない。ただ、人が怖いと母親に訴えていたので対処方法を知らなかった母親が影浦のところに連れてきただけなのだ。それに、患者が減るということは、影浦にとっても嬉しい事であった。
「ええ、大丈夫ですよ。新しい高校で、楽しい高校生活を満喫してください。正式に言えば、病名もつける必要はなかったんですから。なによりも、高校生活をたのしむことが、あなたにとって、何よりの薬になると思います。稲子駅は一時間に一本しか電車が走っていないですし、四時間ほどまったく走らない時間帯もあるそうなので、遅刻しないように、学校に行ってくださいよ。」
影浦はにこやかに笑った。
「分かりました。朝早く起きるのは苦手ですけれども、頑張って学校に通います。」
美登江さんは、本当に嬉しそうで、その顔がその気持ちを証明してくれていた。影浦も、何だかひとりの患者が立ち直ってくれるというのは、嬉しいものであった。
「じゃあ、この病院も卒業ということで、これからは新しい学校で楽しくやってください。それでは次の方どうぞ。」
「ありがとうございました。」
美登江さんと母親は、にこやかに笑って、診察室を出ていった。影浦も何だか嬉しくなって、二人が出ていくのを見送った。
「へえ、そんな山奥の秘境駅の近くに学校ができたのかあ。」
杉ちゃんは、お茶を飲みながらそういうことを言った。
「稲子駅と言えば、人なんてほとんど利用しない駅だと思っていましたが、そんなところに教育施設を作れる時代になったんですね。」
ジョチさんも、感心そうに言った。
「そこに、影浦先生の患者さんが入学したのか。」
杉ちゃんが言うと、
「ええ、そうなんですよ。若い人ってのは、回転が早いですね。もう居場所が決まってしまえば、どんどん回復してくれる。彼女は医療機関にお世話になる必要はなかったんです。お母さんが何とかしてくれと言って、連れてきただけの事で。まあ確かに、初めて来たときは、化粧も派手だったし、服装も派手でしたが、今はもう普通の女の子という感じですよ。ちなみに教学者高校には、制服はありませんので、服装は自由ですが。」
と、影浦先生は処方箋を書きながら言った。
「そうか。そうなると、稲子駅が最寄駅ということは、一時間に一本しか電車が走ってないんだし、一本のがしたら、大遅刻になっちまうぞ。それで先生に廊下に立ってろなんて、言われたりしない?」
と、杉ちゃんが面白半分に言った。
「杉ちゃん、今の学校では、生徒を廊下にたたせることは、決してありませんよ。そういうことは違法になってますから。」
とジョチさんが言った。
「でも、何だかかわいそうですね。」
不意に布団に寝たままの水穂さんがそういうことをいう。
「どういう意味だ?」
杉ちゃんが聞くと、
「いえ、ただ、一時間に一本しか電車が走ってないですし、あの駅は四時間近く電車が走らない時間帯もありますから、早退したりした生徒がいた場合、帰るのに不自由なんじゃないかなと思って。」
と、水穂さんは言った。
「そういう見方もありますね。」
とりあえずジョチさんがそう返しておく。
「でも、良い方を考えようよ。あの秘境駅のそばに学校がたって、普通の全日制高校では面倒を見切れなかった子が、親身になって、授業をしてもらえるという空間ができたんだからさ。きっとその学校に救われた生徒さんはいっぱいるはずだよ。」
杉ちゃんは明るくそういうことを言うが、水穂さんも影浦も、そのような解釈もできるなあと心配そうな顔になった。
「大丈夫だよ。そういうところは、ちゃんと、生徒さんを親身になって見てくれるから、そういう秘境駅のそばに学校を作ったんだと思うし。教育に自信がなければ、人里離れた場所には作らないよ。」
杉ちゃんだけニコニコしていた。
それから、一か月ほどたったけど、影浦のもとに、森美登江さんから連絡は入らなかった。それでは、彼女はきっと、新しい学校で楽しくやっているんだろうなと影浦は思っていた。でも、その日、影浦が、影浦医院での仕事を終えて、十徳を脱ごうとしたところ、先生お電話ですと、看護師が受話器を持ってやってきた。
「はい、お電話代わりました、影浦です。」
と、いつもと変わらず、影浦が電話に出ると、
「あの、影浦先生ですか。すぐ来てください。美登江が、自殺未遂を起しました。」
母親がそういうことを言っている声が聞こえる。
「はあ、美登江さんはどうされたんですか?」
影浦が聞くと、
「とにかく、富士の中央病院に来てもらえませんか。今、飛び降りた時の怪我の治療でそこにいるんです。幸い、飛び降りたところが芝生だったので、それで助かったんですけど。」
と、母親はそういうことを言っている。
「私に、なにがあったのかも話してくれません。それで、影浦先生なら話をするというので、ぜひ先生に来てもらいたいと思いまして。」
時折、こういう依頼も舞い降りてくるから、影浦は慣れていた。分かりました、わかりましたよ、と言ってすぐに行きますからと母親に言って、一度電話を切る。そして、医者の制服でもある白い十徳を着なおして、急いで中央病院までタクシーを回してもらった。バスはもうこの時間だと、本数が少なくなっている。
影浦が、中央病院の正面入り口から中に入ると、先生、先生と言って、森美登江さんの母親が駆け寄ってきた。
「一体どういういきさつで、美登江さんが飛び降りたのか、教えてもらえないでしょうか。」
影浦は廊下を歩きながら、母親に聞いたが、母親は正確な事はわからないといった。
「ただ、学校でお友達がなくなったそうで、それに絶望してしまったようです。」
「はあ、お友達が?」
母親は、はいと頷いた。
「どんな、お友達だったか、聞いても良いですか?」
と聞くと、
「ええ、なんでも、ひどく反抗的で、先生にも反抗ばかりしていたようで、よく叱られていたようです。そんな子を、うちの子がなんで仲良くなったのかよくわからないですけど、美登江とは、仲が良かったようで。」
と、母親は答えた。
「そうですか。もしかしたら、反抗的だったのは、表面的なもので、本来は、すごく良い子だったのかもしれませんよ。」
と、影浦は母親の話を聞いてそう言った。同時に、森美登江さんがいる病室の前に来た。もう意識もしっかりしているし、怪我も大した事はないので、一般病棟で良いという。
「美登江ちゃん、影浦先生がいらしたわよ。」
母親が、そう言って彼女の病室に入ると、影浦も病室に入らせてもらった。
「美登江さん。一体どうしたのか聞きたいところですが、まだあなたには、全部を話すのは無理でしょうね。今日はご挨拶に伺いました。これから、定期的にこちらへ来ますから、怪我が治ったら、また影浦医院にも来てくださいね。」
と、影浦はそういうが、美登江さんは返事も返さなかった。母親が、ほら、すぐに返事をしないと、影浦先生に失礼よ、というが、
「いえ、今日は仕方ありません。あとでゆっくり彼女の話を聞かせてもらうことにして、とりあえず今日は彼女のそばにいてやってください。」
と、影浦は言った。
その次の日から、夕方になって影浦医院を終了させると、影浦は美登江さんのいる富士市中央病院に言って、彼女の話を聞くことを試みたが、全く彼女は口を聞かなかった。とりあえず、怪我のほうは、そこの医師のおかげで順調に回復しているのだが、その事に対して御礼もしない。意図的に口を聞かないのか、それとも、口を聞く能力を失ったのか不明だが、いずれにしても、彼女は黙っているのだった。
やがて、彼女の怪我も回復して、もう中央病院にいる必要もなくなったが、彼女はいまだに口を聞こうとしなかった。こうなると、母親も困ってしまったというかあきれてしまって、もう美登江を救う手立ては何もないのか、と愚痴をこぼすようになった。とりあえず、彼女は自宅に帰ることになったが、また自殺を図ってしまう可能性が十分にあるので、誰かが見ていなければならなかった。でも、母親も父親も、仕事が忙しくて、彼女のそばにいてやれない。誰か手伝い人でも雇ったらどうかと影浦は提案してみたが、世間体が悪いとして、却下されてしまった。
「そういうことなら、この施設に通ってみてはいかがですか。稲子の高校とは全然違う施設ですけど、すくなくともこわい人はいないし、会員さんたちも、皆優しい方々ですから。」
と、影浦は、病院の出口を出ながら、美登江さんに言ってみる。
「それは、何処にある施設なんですか?」
と母親が聞いたので、影浦は、大渕というところにあると答えた。
「そこにも、傷ついた人たちがいて、勉強したり、仕事をしたりしています。学校じゃないから、先生はいないですけど、先輩方に勉強を教えてもらうことはできるでしょう。すくなくとも、家にいるよりはずっと楽しいと思いますよ。」
「そうですか。じゃあ、そこでお世話になっても良いですか?」
母親がそういうので、影浦はじゃあ、明日僕と一緒に行ってみましょうかと答えた。明日の九時に、迎えに行きますと言って、とりあえず、美登江さんとは別れた。
翌日、美登江さんの家に影浦はタクシーを回してもらった。やっぱり悲しそうな顔をして、だれとも口を聞こうとしない美登江さんを連れて、影浦は、製鉄所に向かった。母親は同行しなかったが、影浦はそのほうが返って良いと思った。親があまりに過干渉だと、彼女の意思も傷ついてしまう可能性があるからだ。
しばらく道路を走って、影浦たちは製鉄所の玄関前でタクシーを降りた。彼女はその日本風の建物に興味があるような様子だった。
「教学者高校とは、全然違う建物だったんでしょうかね。」
と、影浦はちょっとつぶやいた。こんにちはと言って、玄関のドアを開けると、同時に聞こえてきたのは、せき込んでいる音。そして、あ、水穂さんがまたやっているという杉ちゃんのデカい声であった。
同時に、美登江さんは、何か放っておけないと思ったのだろうか、何も言わないまま、いきなり靴を脱いで製鉄所の建物に上がり込み、急いで四畳半に走っていってしまった。四畳半では、杉ちゃんの言う通り、水穂さんがせき込んでいた。美登江さんは急いで水穂さんを横向きに寝かせ、背中をさすったり、口もとを拭いたりしてあげている。
「お前さんが、新人会員か?」
と、杉ちゃんがデカい声でいうと、美登江さんは、
「はい。そうです。」
と一言だけ言った。それはもしかしたら、何日ぶりにだした言葉なのかもしれなかった。
「あの、すみません。止血用の薬とかそういうものはありませんか。」
ちょっと訛った口調ではあるが、ちゃんとそういう言葉を美登江さんは言った。
「おう、この吸い飲みの中身だよ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「わかりました。」
美登江さんはそれをとって、水穂さんに中身を飲ませた。これでやっと水穂さんのせき込むのは止まってくれた。
「よかった。まあ、これで畳を汚さずに済んだぜ。お前さんのおかげだよ。ありがとうな。」
と、杉ちゃんが美登江さんに頭を下げると、
「いえ、もう、私の目の前で亡くなる人は見たくなかったんです。」
と、杉ちゃんに彼女は言った。
「はあ、それはどういうことなんだろうかな。何か、どっかで何かあったのか?」
と、杉ちゃんが聞き返すと、美登江さんは、言えなさそうな顔をした。
「いいえ、美登江さん、自分の中で閉じ込めてちゃだめです。あなた自身の為でもあり、それ以外の日のためでもあり、あなたは、こういうことができる人なんですから、あなたの事を、心にとどめておくのはいけないことです。」
四畳半に入りながら、影浦がそういうことを言った。
「何が在ったのか、ちゃんと話してもらえますか?」
「ええ。」
美登江さんは、小さな声で、こう話し始めた。
「事の起こりは、私の不正行為だったんです。私、悪気はありません。ただ、どうしても良い点数をとらないと、学校から追い出されると脅かされていて、それでどうしようもなくてつい、、、。」
美登江さんは涙を流して泣き出した。
「つまり、カンニングをしたわけね。まあ、学生ならよくある事だわな。」
と、杉ちゃんは言う。影浦は話をつづけるように言った。
「それが、担任の先生にみつかってしまって、私は罰として、学校の庭を掃く仕事を言いつけられたんです。」
「昔の学校なら、よくある話だよな。ほら、便所掃除を強いられるとかあったじゃないか。」
杉ちゃんは、彼女の話にそう割って入った。
「そうしたら、加藤君が、私の代わりに掃除をするからと言ってくれたんです。私は、優等生として期待されてましたけど、加藤君は何もとりえのないダメな生徒だと、学校の先生によく言われた生徒で。それで私、そうしてくれるならありがたいと思って加藤君に御願いしてしまったんです。」
と、彼女はしゃくりあげながら言った。
「その日は、外で作業をするにはものすごい暑い日でした。いくら待っても加藤君が次の授業に来ないので、どうしたのか身にいったところ、加藤君は炎天下の下で作業をし続けたせいで、熱射病で倒れていました。すぐに搬送されたけど、富士宮の病院に連れていくにも遠すぎるところですから、加藤君は、搬送している間に。」
「そうなのね。やっぱり一時間に電車が一本しか走ってないと、そういうところが不利になるんだな。それより、お前さんはなんで、カンニングをするほど、試験で良い点数をとりたかったの?行きたい大学でもあったのか。」
と、杉ちゃんが言うと、彼女は違います、そんな事はありません、と急いで言った。
「ただ、担任の先生が、私たちの事を、捨てられた奴だと言っていたんです。もう親にも、社会にも捨てられた奴は、ここで面倒を見てもらうしかないんだって。返り咲きたかったら、いうことを聞かなければダメだって。」
「なるほどね。学校というと、本当に密閉された弁当箱みたいな空間だよな。秘境駅の近くに学校を作っても、教育内容がよくなければ、何の意味もないということだね。」
と、杉ちゃんは大きなため息をついた。
「そうですね。ある意味、隔離された宗教団体に近いものだったかもしれませんね。そんな事を体験したなんて、あなたもすごいことを経験したものですね。今は立ち直ることは無理だと思うけど、何かに生かして、また生きていけると良いですね。」
影浦は、優しく言った。
「そうですね。だから私、苦しんでいる人をみて、放っておけなかったんですよ。加藤君のことが在ってから、すぐに手が出せる優しい人になろうって、決めたんです。」
若い人らしい考え方だと思われるが、彼女はそう言っていた。これは、若さというものが無いとできない事だと影浦は思った。
「そうかそうか、お前さんはそういうところから判断すると、看護師に向いているよ。すぐに手が出せるって、誰でもできることじゃない。それを忘れないでくれ。密閉容器から脱出できて本当によかったねえ。」
杉ちゃんはカラカラと笑っていた。同時に水穂さんが、薬を飲んだおかげで静かに眠っている音が聞こえてきた。
密閉容器 増田朋美 @masubuchi4996
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