第3話:さようなら、苦しいほど愛した人
翌日、私は彼女の勤めるバーへ向かった。
「……定休日」
定休日を調べることを、すっかり忘れていた。今日は、週に一度の定休日にたまたま当たってしまっていたらしい。帰ろうと振り返ると、正面からあの女が歩いてくるのが見えた。目が合う。
「海……」
「……人違いでーす」
「待って、海」
すれ違って、そのまま去っていこうとする彼女の腕を掴む。
「……もう二度顔見せないでって言ってたくせに。どういう風の吹き回し?マジで抱かれに来たの?言っておくけどあれ、冗談だからね?」
振り向かないまま、彼女は言う。少し苛立っているような声だった。
「……話をしに来たの」
「……話ねぇ。一方的に僕を責めに来たの間違いじゃない?」
「違う。ちゃんと、会話をしに来た。……もう、一方的に酷いこと言ったりしないから……聞いて」
「……はぁ……分かったよ。料金割増ね」
ため息を吐き、彼女は店の裏から私を案内した。電気をつけて、入り口のシャッターは閉めたまま、私をカウンター席に座らせてカウンターの中に入り、水を入れて私の前に置いた。
「……あんたの報告って、結局なんだったの」
彼女の顔は見ないように下を向いて、質問を投げかける。
「帆波と月子への報告のこと?」
「……そう」
「法律改正の件と、あと、娘の結婚報告」
「……ふぅん」
二人が亡くなったのは、海が結婚する少し前だった。子供が出来る前。
もうそんなに経ったのだなと、改めて時の流れを感じる。
「……子供、いくつ?」
「二十五。上が二十八。今回結婚するのは下の方。上は息子」
「……ふぅん」
スッ……と、私の視界に、スマホが差し出される。そこには黒いウェディングドレスを着た二人の女性が写っていた。片方の髪の長い女性は、海によく似ていた。似ているなんてもんじゃない。生き写しだった。
「これはまだ法が改正されていない頃、パートナーシップを結んだ記念の式の写真」
「……」
「……娘も僕と同じ。恋愛対象は女性だけ」
「……あんたは違うじゃない」
「……そうだね。夫を愛してしまった僕は、本当は、レズビアンだと言い張るべきじゃないのかもしれない」
「何で頑なにバイセクシャルだって言わないわけ?」
「……一度、そう言った時に、男性客に言われたんだ。『へぇ。じゃあ男でもイケるんだ』って。それが、凄く、不快だった。気持ち悪かった。君にも分かるだろう?男性から性的な目で見られる不快さが」
「……それは……」
確かにそれは、分からなくはない。海は魔性の女だった。その魔性の魅力は、女だけではなく男も惹き寄せた。だから彼女はカミングアウトをしたと言っていた。男性から言い寄られることも、女性から『女同士なのにおかしいかもしれないけど』という前置きと共に恋心を告白されることも嫌だったからと。
そんな彼女から男性と結婚すると聞いた時は嘘だと思った。偽装結婚だと、今の今まで疑っていた。だけど、彼女に生き写しの、このウェディングドレスの女は、誰がどう見たって彼女の子だ。彼女の兄弟は兄しかいないし、彼女本人にしては若すぎる。
「何度も言うけど、僕は男性は恋愛対象外なんだよ。彼が——彼だけが、例外なんだ。男でもイケるとか、思ってほしくない。思ってほしくないから、どうしても、自分をバイセクシャルだと言いたくない」
「……」
「……賛否あるのは分かるよ。同性愛者に対して『異性を知らないだけ』とか言う輩は少なからずいるから、僕がレズビアンだと言い張ることでそういう奴らの偏見を助長させてしまうかもしれない。そんなことは、僕も理解してる。けど……それでも僕は……女性しか愛せないけど、彼だけは例外だったとしか言いようがないんだ。……きっと、同じ経験をした人にしか理解出来ないだろうけど」
淡々と、彼女は語る。今どういう顔をしているのか。見られない。見るのが怖くて、見ないまま、水を煽る。
沈黙の中、カランと、氷の音だけが一つ鳴る。
「……私も、結婚するの」
「それはもう聞いた。相手は女なんだろう」
「……そうよ。女の人と結婚するの。この国で。五十手前にして、ようやく。結婚適齢期なんてとっくに過ぎて、ほうれい線や白髪が目立ち始めて……きっともう、ウェディングドレスは似合わない。それでも、私はウェディングドレスを着る。憧れだったから。愛する女性とウエディングドレスを着て並んで、教会で、神の前で愛を誓い合うのが。ずっと、ずっと夢だった」
「……おめでとう」
「……あんたも、同じ夢を見ていたくせに」
「……あの頃の僕の夢は、もうすぐ娘や君が叶えてくれる」
「……一緒に、叶えたかった」
「まだ好きなの?僕のこと」
「嫌いよ……あんたなんて、大嫌い」
「そりゃ良かった。いつまでも執着されても困るからね」
彼女の手が、茶色い液体の入ったグラスに伸びる。
グラスが視界の上に消え、ごくごくと、彼女の喉が鳴る。視界に戻ってきてことんとテーブルに置かれたグラスの中身は、ほとんど氷だけになっていた。
「……今の恋人は、凄く素敵な人なの。あんたみたいに他の女と遊ばないで私だけを見てくれるし、タバコも吸わない」
彼女の顔を視界に入れないまま続ける。
「そう。それは良かったね」
「……」
メモ帳を取り出して、LINKのアカウントを書いてカウンターに叩きつける。
「……何?」
「登録しなさい。式の日程が決まったら連絡するから」
「えっ。行かないけど」
「来なさい。招待するから」
「どういう風の吹き回し?」
「彼女が、見せつけてやりたいんだって。あんたに。私と一緒に未来を歩もうとする姿を」
「えぇ……なにそれ。性格悪っ。結局今の女もクソなんじゃん」
「あんたほどじゃない」
「ははっ。違いねぇわ」
自嘲するように——だけどどこか明るく笑って、彼女はまたグラスに茶色い液体を注いだ。そして一気に飲み干してから、メモを手に取り、カウンターに置かれたスマホを回収した。私のスマホが鳴る。友達欄に、ミントとライムで彩られた爽やかな、透明な液体が入ったグラスの写真がアイコンになっている『鈴木(安藤)海』という名前のアカウントが追加された。
私の慣れ親しんだ苗字は、カッコ書きにされている方だ。
「……鈴木って。平凡な苗字。ダサッ」
「うるさいな。仕方ないだろ。苗字なんて自分で決められないんだから。美夜は変わるの?苗字」
「……私は別姓」
同性婚が認められる少し前、選択的夫婦別姓も認められた。
彼女の苗字は
「みやみや……ふっ……ふふっ……猫みたいだな……あぁネコだったな」
「あんたねぇ……」
「ふふふ」
こんなご機嫌な笑い声を聞いたのはいつぶりだろう。付き合っていた頃でさえ、そんな笑い方はしなかった。
顔を上げる。
そこにはもう、私の知る死んだ目をしたクソ女は居なかった。代わりに、あいつと同じ顔をした、優しい表情をした女性がいた。
「……あんたのそんな顔、初めて見た」
「それは言い過ぎだろ」
「そんなことない。……変わったね。海」
「……何年経ってると思ってんの。時が経てば変わるよ。人の考えも、顔つきも。そして常識も、時代に合わせて変わっていく。……随分と時間はかかっちゃったけどね」
「……式、来るの?」
「娘と、この店の常連と、娘の友達と……その他何組かの結婚式があるから……それと被らなければ」
「はぁ? な、何? あんたの周りなんでそんな結婚ラッシュなのよ」
「……そりゃあね。みんな待ってたから。結婚できるようになる日を」
「……あぁ……そういうこと……。……じゃあ、全部日程教えて。調整する」
「ははっ。やだ」
「は?」
「好きな日に挙げなよ。一つも被らなかったら行ってあげる」
「来ない気でしょ」
「そりゃ行きたくないに決まってんだろ。元カノの結婚式とか誰が好き好んでいくんだよ。……散々罵っておきながら祝えとか、勝手過ぎんだろ」
悪態を吐くが、表情は優しい。
「なら、動画送るわね」
「あ?動画って何?まさかハメ撮り?趣味悪っ」
「水ぶっかけるわよ」
「浴びるなら酒がいいな。なんか頼んでよ。せっかく割増してるんだから」
「……じゃあ、私をイメージしたカクテルを」
「それ、バーテンダーが一番困るやつなんですけどー」
「困るって分かってるから頼んでるんじゃない」
「性格悪いなぁ……スピリタスのストレートでいい?」
スピリタスというと、世界一強いことで有名な酒だ。
「……殺す気?」
「冗談だよ。で? 何が良いの?」
「……店の名前になってるモヒートって、カクテルよね」
「そうだよ」
「どんなカクテルなの」
「ラムベースの、ライムとミントを使った爽やかなロングカクテルだよ。僕がLINKのアイコンにしてるやつ」
「あぁ、あれね。じゃあそれちょうだい」
「ソーダ水で作るのが普通なんだけど……君は確か、炭酸苦手だったよね」
「……は? 何で覚えてんの。キモっ」
「覚えてるよ。好き嫌いも、誕生日も、使ってた香水も、記念日も、何もかも。他の女の子のことはいちいち覚えちゃいないけど、君との思い出だけは心に残してあるんだ。……君のことだけは、忘れちゃいけないと思って」
本当に、ずるい女だ。今更私だけが特別だったみたいな言い方をして。
いや、当時もそうだった。ずっと言っていた。『君は他の子達とは違う』と。そう言うくせに、遊び歩くことはやめなかった。君だけでは満たされないからと。そういうところが嫌いだった。
「……ふっ。何? 惚れ直し——」
軽口を叩こうとする彼女に、水をぶっかける。濡れたせいで、色気が増した。水も滴る良い男とはよく言ったものだ。女だけど。
「……うわぁ……マジでかけるとは思わなかった」
濡れた髪をかき上げる仕草が妙に色っぽくてムカつく。
「かけてほしかったんでしょ。お望み通りかけてあげたわよ。……早く作って。モヒート」
「……っくしゅっ」
「飛沫飛ばさないでよ。汚い」
「君はほんと勝手だな……」
ため息を吐きながらも、犬みたいにぷるぷると頭を振って、私の方に水滴を飛ばしてから、濡れた身体を乾かしもせずに、グラスにライムと砂糖を入れてすり潰し始めた。飛んできた水滴を払いながら、問いかける。
「何でモヒートなの」
「店の名前?」
「そう」
「……モヒートには『心の渇きを癒やして』ってカクテル言葉があるんだ。……この店が、誰かの心のオアシスになるようにって気持ちを込めて」
「うわっ。キモっ」
「……口コミ見た?結構、僕に救われてる人居るんだよ」
「あんたに傷つけられた人の方が圧倒的に多いでしょ」
「……どうだろうね」
「罪滅ぼしでもしてるつもり?そんなことしたって、一生かかったって償えないわよ」
「……そんなこと、君に言われなくとも分かっているよ。はい。モヒート」
彼女達LINKのアイコンと同じ飲み物が目の前に置かれる。見た目も味も、爽やかだ。暑い夏に相応しい飲み物だが、今はもう秋だ。
「……女好きだったあんたを狂わせた男って、どんな奴なの?」
「一言で言うなら……犬」
「何よそれ。猫派のくせに」
「君も猫だしね。色んな意味で」
「……うるさい」
「君の恋人はどんな人?」
「あんたとは正反対よ。何もかも」
「ふぅん。ま、たしかに僕は、恋人の元カノに寝取られ気分を味合わせてやりたいとか言いだす変態ではないけど」
「……そんなこと一言も言ってないんだけど」
「要するにそういうことだろ。何か間違ったこと言った?」
彼女はため息を吐き、ウイスキーを煽った。
それからしばらく、酒を飲みながら他愛も無い話をした。好き勝手言い合って、意見をぶつけ合った。付き合っていた頃でさえ、こんなにも本音をぶつけ合ったことはなかった気がする。
「……さぁ、そろそろ店を閉めるよ。帰りな」
「……送って行って」
「持ち帰られても文句言わないなら送って行ってあげるけど」
「……彼女に迎えに来てもらう」
「そうした方が良い」
酒が回って上手く働かない頭で、恋人に電話をかける。
「みゃーちゃん、話終わった?」
「……うん。迎えにきて。お店にいる」
「分かった。行くね」
それだけの短い会話を交わして、電話が切れる。
「海。お会計」
「定休日だから二割り増しね」
「……せっかくの休みの日に、ごめんなさい」
「相変わらず、酔うと素直だね」
「うるさい」
会計を済ませて、水を飲みながら彼女を待つ。
「みゃーちゃん」
「渚……」
「……みゃーちゃんって呼ばれてんだ。やっぱ猫じゃん」
「うるさい……クズ……」
立ち上がろうとすると、よろけてしまう。咄嗟に渚が支えてくれた。
「ありがとうございました」
「はぁい。……じゃあね、美夜。また今度」
「……海」
「ん。何」
「……今まで、ごめんなさい。……ありがとう」
「……ん。じゃあね」
恋人に支えられて、店を出て、車の助手席に乗せられる。
「渚」
「……吹っ切れた?」
「……うん。ごめんね」
「……ええよ。帰ろう」
私はもうすぐ、結婚する。苦しいほど憎んで、苦しいほど愛した元恋人とは似ても似つかない、ふっくらとして可愛らしい最愛の恋人と。
「なぎ」
「ん?」
「好きよ。愛してる」
「……なんかちょっと言い聞かせてるみたいに聞こえるなぁ」
「言い聞かせてなんかいない。本当よ」
「……冗談だよ。ごめんね。意地悪言うて」
「うん……」
「……うちもな、みゃーちゃんと同じこと考えたことあるばい。時代が違ったらきっと、みゃーちゃん以外の人と結ばれとったんやろうなって。……やけん、おあいこってことで」
「渚……」
「別に、みゃーちゃんで妥協したわけやなかよ。みゃーちゃんも、そうやろう?」
「うん……」
「なら、もう、それでよかばい」
「うん……」
私はもうすぐ、結婚する。五十年近く生きてきて、ようやく結婚出来る。
時代が違えば、きっと、相手も変わっていただろう。そのことを悔やんでいたのは、今日までの話。明日からはちゃんと、前を向く。向かなければならない。私を愛してくれる恋人に——もうすぐ妻となる彼女に、誠実でありたいから。
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