第14話 人間の価値
鏡の前で、毛むくじゃらの顔をまじまじと見つめ、アントンは「伸びすぎたなあ……」と溜め息をついた。
思えばジェイクの店に就職してから忙しくて前髪と眉毛ぐらいしかカットしていなかった。そのため、アントンの顔はまるで放置されたヨークシャーテリアのように毛が伸び放題だった。ただでさえホルモン異常で毛の伸びが早いアントンは、一カ月も放置すると大変なことになってしまう。それが早三カ月が経とうとしていた。
「さすがに伸びすぎだよなあ。散髪に行こう……給料ももらったし」
そしてアントンはジェイクに休暇を申請し、散髪屋に行くことにした。
散髪屋といっても、この街に引っ越してきてから散髪屋に行くのは初めてだ。アントンはジェイクにお勧めの散髪屋を紹介してもらい、そこに行ってみることにした。
「あの……今日開いてますか?散髪してほしいんですが……」
「いらっしゃ……あ……」
散髪屋のミスターバーバーパパは絶句した。ヨークシャーテリアを放置したような毛むくじゃらの人間が現れたのだ。犬族に見えるが、さすがにいくら犬族でもこんなに毛深い人を見たことがない。
「あー……犬族の方?顔と頭のカットでいいかな?」
「すみません。これでも猿族なんです」
「さ、さるぅ?!」
ミスターバーバーパパは長毛の犬族だったので、長毛犬族の客のカットなら絶対の自信があった。だが、目の前の客は猿族だという。本来綺麗につるっとした猿族の顔とは似ても似つかない。
「多毛症って、ご存じですか?」
「ああ、多毛症……。学生時代にちょっと聞いたことがある」
「それです。僕、多毛症の猿族で、生まれた時からこの顔なんです。…………気持ち悪いですか……?」
バーバーパパはさすがに本物の多毛症の症例を目の前にして、正直怖気が走った。無理もない。人間は異質なものを見ると多少気持ち悪さを感じてしまうのは避けられない。だが、せっかくの客に、そんな失礼な態度はとれない。バーバーパパはにこっと作り笑いをして、
「とんでもない。散髪し甲斐があって嬉しいですよ」
と心にもない世辞を言った。
施術椅子にアントンを座らせると、バーバーパパはアントンの顔を詳しく観察した。目の縁ギリギリまでびっしり髪の毛と同じ毛質の毛が生えている。鼻の頭にも毛。額も毛だらけだが、髪の毛の生え際とは毛流れが異なっていて、辛うじて額と前髪の区別ができる。頬も毛だらけ、髭も伸び放題。顎の下まで毛だらけだ。これは難しい。だが、毛を搔き分けると顔かたちは悪くないことが分かった。これは、顔の毛を全部剃れば相当な美形になりそうだ。バーバーパパは提案した。
「お客様。顔の毛は全剃りでよろしいですか?」
それを聞いてアントンはゾッとした。顔の毛全剃りはトラウマである。
「いえ!顔の毛はカットして残してください!」
「なぜです?顔の毛を綺麗にしたら、お客様結構美形ですよ」
「いえ……昔、自分で顔の全剃りをしたことがあるのですが……」
アントンは幼い頃、いじめを苦に顔の毛を気にして、自分で父親の髭剃りを使って顔の毛を全剃りしたことがあった。しかし、幼いアントンは髭剃りクリームの存在を知らなかったため、剃刀負けどころか顔中を傷だらけにしてしまい、血だらけの顔を母親に見つかって大目玉を食らったのだ。
鏡に映った血に染まった自分の顔は今も忘れられない。以来、アントンは顔の毛はカットにとどめて全剃りは一度もしていないのであった。
「……ということがあってですね、顔の全剃りはあれから一度もしていないのです」
それを聞いて、あれほどアントンのことを気持ち悪いと感じていたバーバーパパの心に火が付いた。ならば、このバーバーパパの剃刀技術で、この青年の顔を綺麗に仕上げて見せようではないか。
「わかりました。いやあ、それを聞いて燃えてきましたよ。是非私に顔の全剃りをやらせてください。大丈夫、綺麗に生まれ変わらせてあげますよ!」
「え、ええええええええ?!」
斯くしてアントンは施術椅子を倒され、恐怖に息をひそめながら顔の全剃り手術を施されることになった。
「できましたよアントンさん。次は髪のカットです」
アントンはいつの間にか眠っていた。どれほど時間が経ったのかわからないが、結構眠った気がする。
ふと、アントンの顔をそよ風が撫ぜた。新鮮な感触だった。これまで感じたことのない、冷涼感。
椅子を起こされ、目を開けると、鏡には見たこともない美青年が座っていた。
「これが……僕?」
「想像通りのイケメンでしょう?さあ、後ろ髪からカットしますね」
アントンは不思議な気分だった。毛のない自分はこんな顔をしていたのか。それは実に新鮮な気分だった。この顔ならば、その辺に普通にいそうな顔ではないか。今まで掛けられた罵詈雑言の数々を思い返して、不思議と涙が出てきた。もっと早く、バーバーパパのような顔剃り名人に出会いたかった。
髪をカットされると、アントンはすっかり爽やかな好青年になっていた。バーバーパパは自分の仕事に大きな達成感があった。
「お代は、いくらですか?高いんじゃないですか?」
アントンが財布の中身を心配していると、
「いえ、今回は私も勉強になりました。特別に三十ファルスでいいですよ」
「三十ファルス?!ほぼ髪のカット代じゃないですか!」
「いいんです。勉強させてもらいましたから」
と、散髪代以外のお代を拒否した。
アントンは散髪代を負けてもらった上にすっかり綺麗にしてもらって、「次もまた来ます」と、再来店を約束して店を後にした。
店から出ると、道行く女性が小さく悲鳴を上げた。アントンを凝視している。
(う、何で見られてるんだろう。そんなに変な顔じゃないよな?もう大丈夫になったはずだよな?)
道行く人の視線が痛い。アントンは結局今までと変わらず顔を伏せ、背中を丸めながら足早に歩いた。
「そういえば、モモさんのところで花を買わなくちゃならなかったんだっけ」
アントンがモモの花屋に行くと、モモは見知らぬ絶世の美形がやってきたと勘違いして、猫なで声で接客した。アントンはモモの態度の変わりように驚いたが、こちらをアントンだと気づいていないのだろうと思って知らないふりをして花を買った。
次にジェイクに頼まれていたお使いで、アントンは肉屋や八百屋をはしごした。すると今までにない歓待を受けた。
店主のおばさんがやたらとオマケをつけてくれる。
お代の端数はいらないと言って受け取らない。
色目を使ってくる。
やたらと手を絡めてくる。
投げキッスまでされた。
アントンは人生でこれまで受けたことがない接待を受けて、だんだん腹が立ってきた。
今までこんな経験を人生で一度も体験したことがない。顔を剃った。ただそれだけでこんなにも手のひらを返す世界。アントンは人間不信感が膨らんで鬼と化していた。
バァン!!
勢いよく玄関のドアを開けて閉めるアントン。ジェイクは入ってきた人物に思わずいらっしゃいと声をかけた。
「あんたまでそんなこと言うんですか!」
「え、ええ?!ひょっとしてお前、アントンか?!」
ジェイクは見違えるように美しくなったアントンに驚いた。だが、アントンは憤慨している。
「所詮顔か!!」
アントンは作業場のドアをガァン!と蹴破った。
「あああああああどいつもこいつも顔剃ったぐらいで手のひら返しやがって!!顔に毛があっただけであんなに気持ち悪がったくせに!!どいつもこいつもあああああ!!!そんなに顔が違うだけで偉いのかよ!!!」
アントンは作業台に買ってきた食材や花を叩きつけて、作業台の脚を蹴り台を殴った。これまで見たことのない荒れように、ジェイクはアントンを羽交い絞めにして制止した。
「おいおいアントン、落ち着けって。何があったんだ、一体?」
「あんたも僕の顔見て態度変えただろぉがあ!!」
「変えてねえよ。驚いたけど。何があった?」
アントンはジェイクの言葉に我に返り、はあはあと荒い息を整えるとようやく冷静さを取り戻した。アントンが落ち着いたのを見て、ジェイクも羽交い絞めをほどく。
「……二十年ぶりに顔剃りしてもらったんです。そしたら、街の人たちがみんな態度を変えて……。おまけをつけてくれたり、お代を受け取らなかったり、みんなが僕を見てきたり……。今まで、ゴミみたいな目で見てきた人たちが、みんな色目使ってきて……。所詮顔か、と……」
「よかったじゃねえか。オマケしてもらえて」
「何がいいもんですか!顔に毛があった時は僕は倍の料金払っていたのに!!不細工は損ばかりして、変な目でジロジロ見られてきたのに、顔を綺麗にしただけで180度態度を変えて!そんなに顔が大事ですか?!不細工に人権は無いんですか?!」
再びヒートアップしてきたアントンを、ジェイクは手で制した。気持ちは解る。
「アントン、お前の気持ちはよくわかる。俺も自分の顔にコンプレックスがあるからな。でもよ、こう考えたらいいんじゃねえか?お前は、ここぞというときに顔さえ剃れば美形になれるんだ。それもとびっきりの美形だ。だから、普段は毛を放置していいけどよ、ここぞというときに毛を剃れよ。猿族のマナーでは、髭を剃るのが身だしなみみたいだしな。お前の顔剃りも、猿族の身だしなみとして常識だったのかもしれねえ。お前はそれを今まで怠ってきたんだ」
アントンはハッとした。確かに、猿族の男子ならば顔を剃るのがマナーだ。アントンはそれを最初から諦め、怠っていたのだから、見下されるのは当然だったのかもしれない。
「お前はまだいいよ。毛があるんなら剃ればいいんだからな。俺なんか、毛が欲しいのに生えてこないんだぜ?毛むくじゃらの種族のくせに禿げてるほうがかっこわりいや。無いものは増やせないからな」
それを聞いて、アントンは深く反省した。確かに、ジェイクには失礼だったかもしれない。
「すみません……」
「でも、よかったじゃねえか。お前がこんな美形だったなんてびっくりだぜ。俺も惚れるかと思った」
それを聞いてアントンは顔を紅潮させた。
「え、ええええええ?!ジェイクが僕に?ほ、ほんとですか?!」
「たとえ話だよ、バーカ!本気にすんな!」
「本気にします!」
「馬鹿!」
この一件以降、アントンはここぞというときに顔を剃ろうと心に決めた。
(顔を剃ったら不細工だった、という結果よりは、マシだったかもなあ)
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