第02話 喧騒の外れ

ベースが響き渡る80年代のジャズがスピーカーから聞こえてくる。今日も思い思いの音符を紡いでいる。カウンターの端に座りながら、テーブルの上にそびえ立つマティーニに視線を落とす。週に1度ここへ訪れることを一つの楽しみとしている。家でくつろぐ時間とは違った心の安らぎが、ここにある。


精密に作り上げた人間の音楽と、あてもなく地上に舞い降りる雨粒。音符と窓越しの雨音が微妙に行き違う。それでも一つの楽曲であるかのように耳元をすり抜ける。これもまた音楽の魔法。答え無き音楽は、どんな世界でも受け入れてくれる。この空間においても例外ではない。


車通りの少ない沿道にあり、少しだけ街の外れに店を構えるバー。雑誌やメディアが取り上げて当然とも言える雰囲気ではあるが、いかんせんマスターがそういった話には興味すら無いそうで、今日も隠れ家のようにひっそりとしている。別に頑固とか、そういった人間ではなく、自分のペースを守りたいだけなのだろう。


バーのマスターと言えば、銀色の光沢を塗られたシェイカーを振る姿が思い浮かぶ。今まさに私の前でシェイカーを振る姿がある。この動作の際、客に対し横向きになるのには理由があるという。万一シェイカーの中身がこぼれた場合、客に飛ぶことを防ぐためで、見た目の格好良さといった単純な理由ではないらしい。


やがて店内を彩っていたジャズは次の曲へ移りはしたが、豊潤なムードは変わらない。ランプの光はオレンジにも似た色を放ち私の元にも降り注ぐが、夕日をイメージしたものなのだろうか。"疑似マジックアワー"なる空間が、知らぬ間に私を時の迷路へ誘っていた。


その迷路に足を踏み入れても、左手首の腕時計を見れば"迷路の迷子"になどならないのだが、過ぎ去る時間を数えるよりも浸りたい思いが上回っていた。そもそも、それを楽しみでここへ来ているため、この迷子になっている瞬間、何とも言えない心地よさが、私の心にしばらく居座っていた。


迷子とは言ったが、頭の中で特別何か考えている訳ではなく、単に心地よさといった感覚を楽しんでいるに過ぎない。例えばシャワーを浴びた後にベッドに横になるあの瞬間に近いといえる。解放感と高揚感といった感覚だけが身を包む。抱く思いや感覚は違えど、あのような状態に浸れるというわけだ。


マティーニは姿を消し、目の前にはグラスだけがある。泥酔したいわけではなく、いつも2杯ほど注文し静かに口にする。会計を終えバーを後に。夜が深く、窓越しに歩みを進める人影が少なくなっていく。上着を片手に夜道を歩いていると、誰かの香水の香りが通り過ぎた。その妖艶、誰を誘う。

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