最後のメダリスト

ななおくちゃん

最後のメダリスト




 ブブゼラかと思ったら咳だった。約五万人を収容する客席を埋め尽くす、大勢の観客による乾いた咳と苦悶の声は、まだ新築の香りが残る巨大な競技場内にけたたましく鳴り響き、汗だくの男の鼓膜を震わせている。

 まるで地獄の穴に耳を傾けているかのような状況は、平時の人間なら気が触れそうなものだったが、今の男にはどこか遠くのことのように思えていた。


 雲ひとつない快晴のスポーツ日和。正午の最高気温は39度に達していた。


 四年に一度行われる国際的なスポーツの祭典『インターナショナル・スポーツ大会』。世界中のアスリート達が一堂に会し、しのぎを削り合うこの大規模なイベントの開催地が日本の首都・東京に決まって以降、様々な問題を孕みながらも政府や自治体は一丸となって開催に向け準備を進めてきた。


 時は流れ、さあついに開催の年だとなった矢先、人類をとある新種のウイルスが襲いかかった。ウイルスは猛スピードで世界中に感染を広げ、多くの死者を出し、国の経済を破壊し、生活を脅かした。人々は健康不安に怯え、娯楽や外出を自粛しながら先の見えない日々を過ごしていた。

 無論日本も例外ではなく、政府の後手後手で的はずれな対応も重なって、ウイルスの収束も全く見えない中での開催へと踏み切ったものの、それは中止や延期を求める大半の世論や専門家の意見を無視して強行されたものだった。


 政府としてはウイルス拡大の中で大会を強行するにも理由があり、ひとつはウイルスを乗り越えながら大会を成功させて国民を感動させることにより、一種の国威発揚にも似た効果を与えるためである。もうひとつは、困難な状況下で大会を成功させることで、世界に向けて本邦の存在感をアピールすること。さらに、この大会が毎回開催地にもたらす多大な経済効果を期待してのものだった。

 しかし、海外からの入国規制やイベント、サービス業に課された様々な制限によってすでに大きな打撃を受けた経済に、期待しているほどの効果がもたらされるかといえば難しく、それよりも大会に噛んでいる人間に潤いを与える部分が目立ち、それもまた開催に後ろ向きな世論を集める要因になっていた。

 何よりも、万が一これでさらに感染が爆発した場合、ただでさえ逼迫している医療現場はどうなるのか。開催強行は、医療従事者のこれまでの努力や功績を踏みにじるような、愚劣とも言える判断だった。

 

 とはいえ、ワクチンの摂取もようやくではあるが進み始め、公表された数字上ではあるが感染者数も減り始め、開催の意志を全く譲る気配のない政府にくみし抱かれるように「どうせやるなら……」という半ば諦めに似た声も国民の中で広がり、開会式を目前に控えた矢先、事態は最悪の方向へと転がりだした。


(今、何周目なんだろう……)


 日に焼けて熱を発するトラックの上をヨタヨタと男は走っていた。一週間ほど前から、どうも体調がすぐれない。乾いた咳が止まらず、頭は朦朧とし、肺に時折刺すような痛みを感じていた。選手村ーー開催期間中、選手達が生活する区画で体温を測ったとき、体温は40度を超えていた。

 間違いない、俺は陽性だ。嫌でも確信した。開会式の一ヶ月前には、すでにワクチンを二回摂取しており、完全じゃないとはいえある程度、ウイルスに対する耐性はできていたはずだった。しかし、今となってはそれも無意味なものとなった。


 視界の端で、大きな音を立てて黒い物体が落ちた。TVカメラだ。クレーンを操縦していたカメラマンが倒れている。一直線にしか向いていなかった視線を広げると、会場のあらゆるところで人々が倒れている。しかし、それを救護にくる者はいなかった。開催直前になり、多くの医療ボランティアが辞退を申告し、残り僅かな従事者も倒れてしまっていた。照りつける太陽が、気絶した者達の躯を焼いていく。


 数週間前、この国でウイルスが変異を起こした。どういうわけかその変異種は、感染力やその症状の強力さがこれまでのものとは段違いの代物であり、現状のワクチンも有効性を持たなかった。変異というより超進化に近いそれは猛スピードで国内外に広がり、潜在的な例も含め、今や日本国民の七割が罹患者となってしまい、国の機能は事実上停止していた。


(っていうか、今何位だろう。あとどれくらい走れば良いんだっけ……)


 暑さと頭痛が意識を朦朧とさせる。ただ、人並み外れた体力と条件反射だけで、機械的に動く足が男を前へと進めていた。

 長距離走ーー1万メートル走の日本代表に選ばれたとき、大会の強行に思うところもあったが、やはり嬉しかった。メダルを取る自信はあった。自分が結果を出せば、不安な日常を過ごす国民の心に、少しでも明るさを取り戻すことができるだろうと思った。今でもその気持ちは変わっていない。

 だけど今、俺の走りを誰が観てくれているだろう。俺の功績を誰が伝えるのだろう。男は急に不安になり、わずかな余力を使って観客席を見渡した。

 五万人近い観客達は、誰も彼も苦悶の表情を浮かべていた。老人から子供まで、気を失っているか、止まらぬ咳に苦しんでいるか、熱にうなされているか、もしかしたら息絶えた者もいるかもしれない。

 よく見ると、一般観客席や自治体の要請で観戦にきた者達ーー主に小中学校の生徒達ーーは椅子に拘束されていた。政府及び大会関係者が、彼等に、彼女等に、最後まで『観客』であることを強いていたからである。ウイルスと太陽光が織りなす死の坩堝から逃げ出すこともできず、地獄の釜はその温度を上げていった。


 政府や都、そして開催委員会は当初、無観客での開催を喧伝しており、国民の大勢も、開催するならばそうなるだろうと信じていた。しかし、『観客がいなければ利益が見込めず、体裁的にもよろしくない』という首相の考えもあり、どうせなら開会式に一万人、大会やスポンサーの関係者も含めて二万人ぐらいは収容する方向へと『転換』した。それはなし崩し的に三万人、四万人と増やされ続け、すでに変異種が猛威をふるい始めた頃には、開催中の全期間にわたり、競技場の限界収容数まで収容しようということになっていた。すでに反対の声を上げるものはいなくなっていた。ウイルスの力が物理的にねじ伏せたのである。


 緩やかに毒が侵蝕するように、ずるずると、そしてガバガバになった観客の規制。これにより、利益が見込めると判断した政府や開催委員会はさらなる利益を求め、インターナショナル・スポーツ大会担当大臣ーー通称『大会相』はスポンサーへの手厚い配慮を始めた。これが、歯車をさらに狂わせることになる。


 まず、大会スポンサーであるユウヒビール社の意向を汲んで、開催期間中の酒類の提供が解禁された。観客や大会関係者、選手に限り量に制限を設けないアルコールの提供がなされた。

 飲食店経営者に酒類の提供自粛を呼びかけておきながら矛盾するのではないか、とのマスコミからの質問に対し、大会相は「ステークホルダーとの兼ね合いもある。安全安心を心がける」と答えた。

 これにより、観客席どころか選手村、関係者ブースまで泥酔者であふれかえる事態となった。また、かねてよりアルコールの抑圧を受けていた民衆はこの不公平に声をあげ、溜まりに溜まっていた不満を爆発させた。路上で酒を飲んで暴れまわる者が加速度的に増加し、一種の暴動へと発展した。酒類提供の自粛呼びかけが実質的に効力を持たなくなり、律儀に守る経営者がいなくなったことも、暴動の拡大に拍車をかけた。飲酒運転による事故も多発し、死傷者が多発した。連日連鎖する大規模な交通機関の麻痺は経済と生活に致命的なダメージを与えた。

 

 次に、同じくスポンサーであるコラコラコーク社の意向を汲んで、期間中の大麻の提供が解禁された。関係者及び選手に限り、それも会場内にのみ許された特例の措置だった。

 先の暴動からの流れもあって、国民の間に広く大麻が浸透した。大麻が解禁されている諸外国のそれとは異なり、質や使用目的、量などが法的に整備された結果の浸透ではなかったため、大麻の効果によって暴動をさらに加速させる事態をもたらし、国内の治安は修羅の様相を見せた。『ブリブリジャパン』というフレーズがTwitterのトレンド1位になった。

 ドーピングテストに引っかかるのではないかというマスコミからの質問に対し、大会相は「前総理婦人との兼ね合いもある。安全安心を心がける」と答えた。


 続いて、ブチギレバイオレンス社の意向を汲んで、期間中の暴力の提供が解禁された。選手及び関係者全員に竹槍が配布され、会場内に限り全ての暴力が無罪放免となった。感染した者、感染を疑われた者に対して容赦のない攻撃が繰り返され、会場内は血に染まった。

 暴動に及ぼした影響は言わずもがなであった。東京に足を踏み入れると二度と生きては帰れぬと囁かれ、感染拡大防止のため東京から逃げることも許されず、首都は魔境と化し、いわゆる「東京差別」が加速した。

 大会相は「大きな敵に対抗するための伝統的な日本の武器。安全安心を心がける」と答えた。


 最後に、バンメ社の意向を汲んで、期間中の奴隷売買が解禁された。大会相は回答を差し控えた。

 これらのスポンサーへの配慮、そこから派生した暴動が、ウイルスの感染拡大に影響をもたらしたことは論を俟たない。

 「体温が38度以上あった場合は競技に参加できない」と定められていた大会規定はやがて「39度までなら大丈夫」「40度でもOK」「最悪死ななければ」と広がっていった。


(どうせ誰も観てないし、もうゴールしてもいいよね……)


 男はすでに、自分が誰かに感動を与えるなんていう希望は抱いていなかった。ただ、この状況から解放されることだけを願うようになっていた。ただ、それはここで力尽きて倒れることではなく、誰よりも早くテープを切り、金色のメダルを首にかけることでしか達成されないのだった。

 先程からトラックには自分以外の選手達の屍が転がっている。皆、自国の想いを抱いてこの国の土を踏んだのだろうに、申し訳ないーーそう思いながらも、漁夫の利を得たりと、男は走り続ける。誰も観ていないレースに、もはやゴールなんてあってないようなものだ。適当なところで勝利を宣言し、メダルを見つけて自分の首にかければいい。


 そのときーー背後から足音が聞こえた。軽快に地面を蹴っている。

 振り返るのが怖かった。自分以外の選手がトラックに残っているのを、確かめるのが恐ろしかった。

 それでも、ゆっくりと振り返ってみると、自分と似たような体格の男が走っていた。どこの国の人間なのかはわからなかったが、口の端から血を垂れ流し、歯をギリギリと食いしばりながら、刺すような目でこちらを睨んでいることだけはわかった。


『おい日本人、メダルは俺がいただく。無理せずさっさと倒れるか病院に走るんだ』


 なにか言っていたが、日本語ではなかったため男にはわからなかった。


『俺は金メダルを取って帰らないと、家族もろとも国から消されるんだ。同情する気があるなら、俺にメダルを譲れ』


 伝えたいことはわからなかったが、金メダルを狙っていることだけはわかった。そうなると、先を譲るわけにはいかない。

 この勝負、誰が先に力尽きるかでメダルの行方が決まる。男は残った力を振り絞った。


                  ◆


 須賀山総理は溜まった執務もそのままに、テレビにかじりついていた。他に人の気配もなく、静けさが漂う首相官邸には、須賀山の唸るような声だけが小さく響いていた。


「なんだこの光景は……これじゃ誰も感動しないじゃないか!」


 リモコンを手に取り、チャンネルを次々と変えていく。公共放送から民放まで、放映権を持っている局は全て、大会の様子を映している。変異種の流行で新しい番組を作る余力がなく、どんなにマイナーな競技でも、大会を生放送で垂れ流す他にないからだ。どのチャンネルにも大きく共通しているのは、画面下部に常時大きなテロップが流れていることだった。


『きちんと感動していますか? 感動は国民の義務です』


 放送事業に太いパイプを持っている須賀山の要請で流させている。感動せざるもの、是非国民也。日本国民なら感動して当たり前。須賀山の思いは強かった。

 汗を流し、誇りを持って懸命に挑む選手達。声を上げ、力の限り応援する国民。深い感動に包まれて、勇気をもらった日本の心はひとつになる。須賀山の中ではこうなるはずだった。


 しかし、なんだこの光景は。いま行われている長距離走では、観客席もトラックも死屍累々。声援も歓声もなく、選手が二人、力なくよたよたと歩いているだけ。迫力も面白味もあったものじゃない。


「私が見た、1964年のときは、もっと感動と勇気に溢れていたのに……」


 そのとき、執務室の扉がゆっくりと開かれ、来訪者が姿を見せた。


「誰だ! ノックもせずに……」

「だって、警備員もみんな倒れてしまって今は官邸の警備はなにもありませんもの」

「あ、あなたは……大沼都知事!」


 緑色のスーツに傘のようなつばが付いた帽子をかぶってそこに立っていたのは、都知事の大沼だった。しかし、その身体は不安定にふらついており、今にも倒れそうである。


「たしか、今はウイルスにかかって入院中だと……」

「ええ、必死にここまで這いずってきたんです……総理、悪いことはいいません。今からでも大会の中止を決めてください」

「都知事、何を言ってるんですか。ここまできて、今さら退くわけにはいかないでしょう。撤退は日本の負けを意味するのです。それで後世に胸が張れますか!」

「しかし、事実上この国はもう機能不全。これ以上は……ゴホッ、ゴホッ! いたずらに被害を広げるのみで……」

「それじゃあ……せっかく、あくまで教育委員会の判断という名目で学徒動員までかけたのに、全部無駄になってしまうではありませんか!」


 須賀山はテレビを指差す。


「まだ誰も感動できていない。感動さえすれば、日本は勝てるのです!」


 須賀山の中で『ウイルスを乗り越えた先に感動が待っている』というお題目は、いつの間にか『感動すればウイルスを乗り越えられる』という形にすり替わっていた。


「都知事! 観客をさらに動員できませんか! ボランティアだ、観戦ボランティアを募集してください!」

「出来ませんよ。言ったって、従う人なんかもういるものですか!」


 睨み合い、互いに一歩も引かない須賀山と大沼。


「もうあと二千万、二千万の観客を出せば、日本は必ず、必ず感動できます!」

「そんなに出せるわけないでしょう! だいいち競技場に……ウッ!」


 うめき声を漏らして、大沼は倒れた。

 気を失った大沼を見て須賀山は舌打ちをすると、再び視線をテレビに移す。


「なんだあ……あれは日本の選手か? もうひとりはどこの選手だ……知らないけれど、この男が勝てば、日本に初の金メダルが渡るんだな?」


 これまでの競技で、日本はまだひとつもメダルを獲得できていなかった。というより、ウイルスの影響でノーコンテストになった競技ばかりだったのだ。

 初物の金メダル、これは画になる……須賀山はおもむろに引き出しをあさると、一本の注射器を持って部屋を飛び出した。

 公用車に乗り込むと、運転手に告げる。


「競技場まで飛ばしてくれ!」

「きょ、競技場ですか? しかし総理、競技場はいま感染危険区域で……」

「感染だろうが観戦だろうが知るか! さっさと飛ばせ!」


 公用車のリムジンが車道に出ると、そこには飲酒運転による事故でたくさんの車両と死体が転がっていた。やがてリムジンが競技場に到着すると、須賀山は矢も盾もたまらずに、太陽の下、トラックへと駆け出した。


                  ◆


 二人が走り出してすでに一時間が経過していた。規定の1万メートルはとっくに走りきっていたものの、一対一の勝負はもはや、どちらが先に音を上げるかへと変わっていた。

 抜きつ抜かれつの攻防ののち、二人は横一列で走っている。


「なあ、聞いてもいいか?」

『しゃべるな。体力を消耗するぞ』

「俺たち、何のために走ってるんだっけ?」

『……俺は絶対に負けないからな』


 互いに言葉は通じず、すでに脳も充分に回転していなかったが、二人の胸の中には、言い表せぬ高揚感が溢れていた。

 勝負は重要だ。勝ちを譲る気は決してない。だけどこうして二人で走っていると、メダル以上のものが手に入りそうな予感がして、走ることをやめたくなかった。


「参加することに意義がある、っていうのはよく言ったものだな」

『これがお互いに、最後のレースになるかもな』


 すると、なにかがこちらに向かって駆けてくる音が聞こえてきて、二人に悪寒が走った。

 まさか、他に選手がいるのか?


「おおーい! そこのやつー!!」


 男が振り向くと、テレビで飽きるほどよく見た人物が、鬼気迫る表情でこちらへと駆け寄ってきた。

 須賀山だ。総理がなぜ、こんなところに?


「お前に即効性のワクチンを届けにきたぞー!」

「ワクチン……ワクチンだって?」


 須賀山はその手に握られた注射器を男の首に突き刺そうとした。男は焦ってそれをかわす。


「なぜ避ける! ワクチンだって言っただろ!」

「嘘だ! ワクチンがそんな色してますか!」


 注射器の中は今までに見たことのない配色をしており、男が以前摂取したワクチンのそれとは異なっていた。


「大丈夫! ちょっとパンケーキのエキスが入ってるだけだから! これ打ちゃお前が勝てるんだよ!」

『おいお前! それまさかドーピングじゃないだろうな!」

「そのご指摘はあたらない」


 男と須賀山は取っ組み合いになって揉めた。


「嫌だ! ドーピングなんかしたくない! 正々堂々戦いたいんだ!」

「何を言ってるんだ! こんな状況でも開催したんだぞ! 金メダルくらい取らないと割に合わないだろ! お前は国を背負ってるんだぞ!」


 すでに疲労困憊だった男は須賀山に最後まで抗えず、注射器の太い針は無残にも、男の首に突き刺さった。


「うぐっ」

「ははは、勝てる! これで日本は勝てるぞ! ゴールに向かって神風特攻だ!」


 注射器の中身が、一滴残らず男の体内に投与される。

 すると、男の身体に異変が起こった。肉体が激しく痙攣し、その場に倒れ込んだのだ。

 男は事切れた。


「お、おい……お前、嘘だろ……」

『お前、なんてことをしてくれたんだ!』

「うるせえ!」


 須賀山は地面に落ちている竹槍を拾うと、一心不乱に突き刺した。

 最後の選手も倒れた。


「こうなったら、俺がメダルを取るしかない。俺が取れば、みんな感動してくれるはずだ。国民よ、この感動にむせび泣けええええ!!」


 須賀山はどちらにともわからず駆け出した。全てのテレビやラジオが放送を中断した。

 煌々と輝く日の丸だけが、須賀山の姿を追っていた。


 

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