第103話優しい檻(前編)
『ガチャリ』
外側から鍵が明けられる音がする。
レーラのいる部屋は中から鍵がかけられないのに、外側からは施錠できるようになっている。
扉に向かって何度も叫んだ言葉は、もう言っても無駄だと理解してからは言わなくなった。
〝ねえ? それっておかしいよね?〟
〝これって軟禁よね?〟
〝どうして家のなかを自由に出入りできないの?〟
〝ねえってば!〟
〝これって監禁なんじゃないの?〟
こんな言葉を何度繰り返しただろう。
何度も何度もレーラは自分を閉じ込めている男に訴えて、泣いて怒って出してくれと叫んで、文字通りくってかかって数えきれないほど暴れた。
けれど男は、レーラがどれだけ訴えても、男は駄々っ子に手を焼く親のような笑顔を浮かべて聞き流す。まるでレーラのほうが我儘を言って間違ったことをしているかのような言い方と扱いをされ、もう怒鳴るのにも疲れてしまった。
「ホント、なんなの……もう無理、気持ち悪い」
扉を開けて男が入ってくる。
「レーラ、ただいま。遅くなってごめんね、僕がいなくて寂しかった? うん、明日は休みだからずっと一緒にいられるよ。嬉しい? ここ最近忙しかったから僕もレーラと離れている間寂しくてしょうがなかったよ」
「……うん、ずっと独りだからつまんない。家にいてもなんにもすることないんだもん。わたし買い物に行きたい。お店で食事したい。ねえ、いいでしょ?」
怒鳴るより、甘えてお願いするほうがまだ話を聞いてくれると学習してからは、なるべく媚びる態度で接するようにしている。
案の定、レーラが上目遣いで甘えた声を出すと男は蕩けそうな顔で見つめ返してくる。けれどお願い事に対しては、きっぱりと首を横に振り拒否してくる。
「ダメだよお。レーラはもう中心部へは行けないよ。だってみんな君の悪口を言うんだ。ひどいよね、僕の可愛い奥さんなのに、あんな悪女と結婚するなんどうかしているって、僕に早く目を覚ませって言ってくるんだ」
「なにそれ……悪いのは父さんで、わたしは利用されていただけなのに、なんで悪女とか言われなくちゃなんないの? 信じらんない。ねえ、ちゃんと誤解だって言ってよ。ううん、わたしが自分でみんなに説明する。ねえ、だから……」
「だめだよお。人が多いところは危険だよ。レーラはみんなに嫌われているんだから、顔を見せたら袋叩きにされちゃうよー」
「なんでよ! わたし悪くないのに! 悪いのは父さんなんだから、わたしは関係ないもん! もうやだ! なんでわたしがこんな目に遭わなきゃいけないのよ!」
「しょうがないよお。みんながそう言っているんだから」
可愛く縋って見せたのに、少しも譲歩してくれない男に怒りがこみ上げて、レーラはまた激高して大声で男を罵ってしまう。
ずっと薄笑いを浮かべる男が気持ち悪くてしょうがない。
どんな暴言を吐かれてもニコニコしているのも、ねっとりした喋り方も、妙に長い指でレーラの頬を撫でる仕草も気持ち悪くて大嫌いだ。
話が通じないのに、好きだの愛しているだのと言ってくるのも心底気持ち悪い。
なによりも……レーラを見る目が笑っているのに笑っていなくて不気味なのだ。
「ああ、レーラ。お腹が空いているんだね。ごめんね、今食事にするからいい子にして待っていてね」
「ねえそんな話してないでしょ! いっつもそう。ジェイさんてなんで人の話をきかないのよ……ほんと気持ち悪い……」
パタン、と再び扉が閉じられる。もうすぐ暗くなるのに、ランプもつけてもらえない。灯りがほしいと扉を叩いても、返事はない。
レーラが男の言うことを聞かなかったり暴れたりした時はいつもこうやって扉を閉めてしばらく放置される。絶対聞こえているはずなのに、返事もしてくれない。
怖くなって泣きだすと、男が何事もなかったかのように入ってきて、わざとらしく慰める。
ここに連れて来られてから何度も繰り返したからもう分かっている。
言葉は優しいくせにやっていることは最低だ。
せめてランプを部屋に置いてくれと頼み込んだが、一人の時に点けて火事になったら心配だともっともらしいことを言って渡してくれない。
きっとあの男は、扉の向こうでレーラが泣いて懇願するのをニタニタしながら聞いて楽しんでいる。
「ねえ、開けてよ……もうヤダ……」
どうしてこんなことになってしまったのかと、己の不運を呪いながらレーラは閉じられた扉をじっと見つめていた。
***
自分がニコニコと愛想よく笑いかけて甘えれば、大抵のことは周りがなんとかしてくれると自覚したのはいつの頃だったか。少なくとも、物心ついた時にはもう笑顔と涙を、周りを動かすための道具として無意識に使い分けていた。
面倒なことは誰かにやってもらえばいい。わざわざ苦労して自分でやったって上手くいかないのだから、最初からできる人にやらせたほうが効率的。
レーラだって自分でやろうと頑張った時もある。学校の先生に『自分でやらなきゃ意味がない』って怒られた課題は、ちゃんとやろうと思ってひとりで取り組んでみたけど、全然分からなくってどうしようもなかった。
困っていたら、見かねた母が姉を呼びつけた。
「ディア、あなたがやれば簡単でしょう。代わりにやってあげなさい」
姉は口にはしないけど不服そうにじとっとした目でこちらを見返してくる。
その表情がダメなんだよね、とレーラは心の中で呆れた声を漏らす。
姉は整った顔をしているはずなのに、いつもブスっとして全然笑わない。
愛想の欠片もない喋り方が相手を不快にさせるって分からないのかな? せっかく顔の造形が良くったって、こんな不機嫌な表情をしていたら皆に嫌われるってどうして分からないのかなとレーラはいつも不思議でならない。
「母さん、でも先生に自分でやらないとダメって先生に怒られちゃったんだけど……」
バレた時にまた先生に怒られるとレーラが訴えると、母はニコニコと笑いながら大丈夫と首を振る。
「いいのよレーラ。ディアがやればすぐなんだから。あなたの時間を無駄にしてまでやる価値のないものよ。さ、今日はお芝居を見に行く約束だったでしょう? 早く準備しないと。ディア、課題はちゃんとレーラの字で書くのよ? 分かっているわね」
「でも……レーラのために先生が作ってくれた課題ですよ……?」
自分でやったほうがいいと姉が珍しく反論してきたため、母の表情が一気に険しくなる。
あーあ、怒らせた、と呆れてそっぽを向いた
「黙りなさい! あなた誰に向かって口をきいているの? 余計なことに気を回す暇があるならさっさと課題を終わらせなさい!」
怒鳴りながら課題の束を姉の顔に投げつける。それなりに量がある紙束が姉にぶつかって床にまき散らかされた。
「はい」
姉は顔色一つ変えず床にしゃがんで散らばった紙を集め始める。
「まあ、お姉ちゃんからしたら簡単でパパっとできちゃう課題だもんね。いいなあ、お姉ちゃんは頭が良くって」
「まあレーラ。ディアはお勉強ができるだけで他はレーラのほうがなんでも優れているわよ。だから自分を卑下してはダメよ」
母さんは苦手なことを無理してやるのは無駄なことだって言う。
レーラはレーラのいいところを伸ばしていけばいいだけだからって、面倒なことは全部ディアにやらせればいいと母は言う。
「わたしの優れているとこって、なに?」
「レーラは町で一番可愛い女の子よ。勉強や針仕事なんかして目を悪くしたらせっかくの美貌が損なわれちゃうわ。素敵な旦那様の元へ嫁ぐまで、あなたはいつも綺麗にしてなくちゃ」
母さんがいうには、見た目が可愛いだけじゃダメなんだって。ニコニコして幸せそうで男の人が一緒にいて楽しくなるような女性じゃなきゃ愛されないんだって。
だからお姉ちゃんはダメなんだって。
いっつも仏頂面で偉そうで生意気な態度だし、頭の良さをひけらかして、男の子を馬鹿にしているから嫌われるんだって。
「女は男を立てないとダメなのよ。ディアは女将さんに気に入られて嫁入り先が決まっているけど、あんな可愛げの欠片もない子じゃ夫と上手くいかないでしょうね。まあ、あの子は働き手として望まれただけだから、ラウ君は愛人でも囲うんじゃないかしら」
お姉ちゃんは勉強も仕事もできるけど、女としてダメだから価値がないんだって。
その点、レーラは理想の女性そのものなんだって。
「裁縫も料理もレーラは覚える必要ないわ。そんな雑事は使用人にやらせればいいんだもの。あなたは美しくいればいいの」
「ふうん。そうなんだ」
どんなに頭がよくったって、働き者だって、男の人に愛される女性でなくちゃ価値がない。実際、母は父に愛されて結婚したから今でも大切にされて、何不自由ない生活を送れて幸せそうだ。
母の言うことを素直に聞く子はいい子だと褒められて愛される。
レーラはいい子だから素直に頷く。
だって今まで両親の言うことで間違っていたことなんてなかった。時々他所の人にそんなんじゃダメだって説教されることがあるけど、両親に言えば余計なことを言った人にちゃんと注意しに行ってくれて、相手の間違いを正してくれていた。
だからレーラはこれで間違ってない。
いつか幸せな結婚をして、素敵な家で好きなことをして暮らすのだ。お金持ちの家に嫁げば働く必要もない。レーラはただ可愛く旦那様に愛される妻でいればいいのだ。
「……そう言っていたよね? 母さん……」
開く気配のない扉にもたれかかりながら、ここにいない母への文句を呟く。
暗い部屋でレーラの声に応えてくれる者はいない。
***
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