第96話 side:ジロー
ディアさんの夢を見ていたようで、ハッと目が覚めた直後自分がどこにいるのか一瞬分からなくなって混乱してしまった。
(ああ……井戸、直している途中だったか……)
懐かしい夢を見た。
あの湖で見たディアさんの笑顔を夢の中でもう一度見られて、ちょっと得した気分だ。
とはいえ、随分と昼寝が過ぎてしまった。傾いた太陽が頬に当たるから、多分もう夕方になっている。
井戸を直している途中、部品が足りないことに気が付いて、今日中の修理は無理だと分かって嫌になった俺は、井戸の横の長椅子に寝っ転がったらそのまま日が暮れてしまった。
……過去を思い出して感傷に浸るとか、いいオッサンが気持ち悪いな。
ぼんやりしていると頭に浮かんでくるのはディアさんのことばかりだ。
だからと言って、もう一度会いたいとは思っていない。心を入れ替えて、人生をやり直して、彼女に結婚を申し込むとか、そんな青臭いことを考えられるほど若くない。
人生はいつだってやり直せるとか、そんなことが言えるのはやっぱり若い時だけだ。もうこの年になると、昔の楽しかった思い出を飴玉みたいにしゃぶってダラダラと余生を生きるくらいがちょうどいい。
あの湖には、一人になってからも何度も足を運んでいるが、ディアさんと行った時のような光景は見られていない。いつ行っても、普通の湖の姿だ。俺じゃあ精霊様とやらはもう出てきてくれないんだろう。
『精霊や神様がどこかで見ているから』とディアさんに言った言葉は、ある意味自分に向けて行った言葉だ。
ハクトのことで、軍警察から追手がかかることもなかったし、数年後にあの町をもう一度訪れたが、手配人に俺の名も見つからなかった。だから誰にも俺のやったことはバレていないが、見ている人はちゃんと見ている。俺のした罪が消えてなくなったわけじゃない。誰に言われなくとも、そのことは自分が一番よく分かっている。
俺は罪人だ。そのことを一生忘れるつもりはない。
次の日、村長が用事で隣町に行くというので、ついでに井戸の部品を買ってきてくれるように頼んだ。
村長は出かけている間の仕事をいくつも俺に言いつけてきたが、どれも急ぎのものではなかった。だから今日は休みでいいということだと理解した俺は、今日は一日ダラダラして過ごそうと決めた。
天気がいいので久しぶりにあの湖へ行きたくなった。
あの頃のように、パンと茶を荷物に詰めて出かける。出かける前にちゃんとシャツも洗ったものに着替えた。ディアさんが事あるごとに『ちゃんと着替えて!』と言っていたから、あれからもきちんと洗濯をして着替えている。
ディアさんが仕立ててくれたシャツは、もったいなくてずっと飾ったまま袖を通せずにいる。
湖に着いたが、そこはいつも通り何の変哲もない普通の光景だった。
水辺に腰かけて、手近にあった石をポイと投げてみるが、小さな水しぶきをあげただけで水の中に消えて行った。
ディアさんは案外強肩だったなァ……。
ディアさんが投げた石が綺麗な放物線を描いて、水しぶきがはじけるのと一緒に光が跳ねていた。
水切りを見て、すごい!面白い!と笑っていたディアさんは子どもみたいだった。あの子は普通の子供らしい幼少期を過ごしていないから、時々小さな子どものような反応をしていた。
もう一回、あの顔が見たいなと一瞬思ってしまうが、頭を振ってその考えを振り払う。
あの子はもう誰か大切な人が出来た頃だろう。子どもだってできたかもしれない。自分だけの家族があの子にはきっと必要だった。
深く傷ついた時にそばに俺がいたから、自分には俺しかいないと思い込んでしまった。そうさせたのは俺自身だ。
孤独を埋める道具に彼女を利用しようとした俺に、もう一度あの子に会う資格はない。
「元気かな~~~……ディアさん」
独り言をつぶやきながら、もう一度無造作に石を投げ込む。
ぽちゃんと音を立てて水に落ちた瞬間、パッと光の粒が跳ねた。
「へっ?!」
あれ?今光った気が……。いやいや、それこそ気のせい……。
「わあ、懐かしいですね、この湖」
聞こえるはずのない声が後ろから聞こえてきて、俺はついに妄想が具現化できるほどこじらせてしまったのかとゾッとした。
まさかと思いながら恐る恐る後ろを振り返ると、そこには会いたくて仕方なかったディアさんが立っていた。
……あり得ない。ディアさんがこんなとこにいるはずがない。てことは、これは俺も妄想が作り上げた幻か。
目をこすってもう一度見るが、幻は霞むことなくはっきりとディアさんがそこにいるように見える。
(……こんなにはっきり幻が見えるようになっちまったんじゃもう終わりだ。貧民街でよく見かけた訳の分からないことをずっと呟いていている浮浪者みたいに俺もなるんだ)
俺が頭を抱えていると、ディアさんの幻はサクサクと草を小さく踏み鳴らし、ゆっくりとこちらに近づいてきて、記憶にあるより大人びた顔でニコリと笑いかけた。
「私、今日村に着いたんですけど、ジローさん家にも役場にも居ないからひょっとしてと思ってここに来たら当たりでした。お久しぶりです……お元気にしていましたか?ちょっと痩せました?」
幻が話しかけてきた。
イヤ、これ幻じゃねえわ。本物だ。本物のディアさんが俺の目の前にいる。故郷に帰ったはずの彼女がなぜここに?
まさか俺に会いに?という考えが一瞬頭をよぎるが、すぐに違う可能性に行きつく。
女性ひとりでこの村まで来られるはずがない。絶対に信頼できる男の同行者がいる。クラトか、もしくは町で出会って親密になった奴か……。
ああ、わざわざここまで来るのだから、俺に結婚報告とかをしに来たのかもしれない。ディアさんは律儀だからな。
俺が黙ったままでいるとディアさんはちょっと困ったようにまゆを下げたが、構わず言葉を続けた。
「ずっと帰りたいって思っていたんですけど、色々あって時間がかかってしまいました。ジローさん、お久しぶりです。どうしているかすごく心配だったんですけど、ちゃんと洗ったシャツを着ているジローさんを見てなんか感動しちゃいました」
「着替えろっていつもディアさんに言われていたからよ……って、まじで本物のディアさんなのか……なんでこんなとこに居るんだよ」
シャツのことを言われ、気まずい思いで返事をする。二年振りの会話が、洗ったシャツを着ているなんてしまらない話だ。
「なんでって……あなたに会いに来たんです。それ以外にないですよ」
「いや、だってさァ、ディアさんこんなとこに来てる場合じゃないだろ?……あのな、以前にも言ったが、ディアさんのためにも俺との繋がりは絶つべきなんだ。結婚報告かなにか知らんが、何があってももう俺に知らせてこなくていいんだよ」
動揺していたせいで随分と冷たい物言いになってしまったと内心後悔する。また傷つけたと申し訳なく思いながらディアさんの顔を見るが、さっきと変わらず少し困った顔をしているだけで、怒っても悲しんでもいない様子だった。
「……私があなたを好きだと言ったのを、まだ覚えてくれていますか?あの時、あなたに拒絶されて、あの時の私には『錯覚だ』という言葉に反論できるだけのものを持ち合わせていなかった。
だから、あなたから離れて故郷の町で自分を見つめ直したんです。それでようやくジローさんが私に言った言葉の意味を理解できました。あの時の私は、振られても仕方がなかった」
「だったら……」
「最後まで聞いてください。私、故郷に戻ってから、いろんな人と出会って、今まで見えていなかったこととか、知らなかった気持ちとか、たくさん知りました。
そう、ジローさんの言う『まともな相手』と言える男の人に求婚されたんです。そのことはちゃんと相手の気持ちに向き合って、そのうえで私は、ジローさんのことをどう思っているのかもう一度よく考えたんです。
やっぱり、何度考えても、私はジローさんが好きだという答えしか出てきませんでした。私はそれを伝えに来たんです」
真っ直ぐ俺を見て言うディアさんは、以前の不安そうな色は少しもなかった。
あの頃より少し大人びた顔に、時間の流れを感じる。同じ二年でも、俺とこの子では意味が全然違う。それでもこの二年の間、俺みたいなのを想ってくれていたのかと思うと涙が出そうになった。
一瞬揺れそうになるが、最低な生き方をしてきた俺に、もうこれは過分な幸せだ。今でも忘れずにいてくれたことだけで俺は満足だ。
「……ありがとうなァ。おいちゃんこんな可愛い子に好きって言われたんだぜぇって、その自慢だけで残りの人生幸せに生きていけるわ。
でもな、ディアさんはもう今日で忘れたほうがいい。俺じゃあディアさんを幸せにしてやれないんだよ。俺はディアさんを不幸にしたくない。今からでもその……求婚してきたっていう奴との未来を考えたほうがいい」
「その方にはもうお断りしました。ねえ、ジローさん……私って、その方から見ると、強くて優しくて、魅力的な人なんですって。ビックリですよね。
私がどんな人間だったか、ジローさんは良く知っていると思いますけど、嫉妬深くて承認欲求が強くて、いきなり家に火をつけようとするようなメチャクチャ最低で面倒くさい人だっていうのに、その方は『あなたはそんなひとじゃない』っていうんです。
嘘じゃなく、本気でその方には私はそういう風に見えていたんですよ。なんでだか分かりますか?」
「そりゃ、その男の言う通りだからだ。ディアさんは自分の価値を分かっていなかっただけで、事実はそうなんだってだけの話だろ?」
「違います。私は、元々は最低な人間だったんですよ。でも変わった。どん底だった私を、ジローさんが拾い上げてくれて、辛い気持ちを癒してくれて、楽しい時間をたくさんくれた。だから私は変われた。今の私が魅力的だっていうのなら、それはジローさんが私をそういう人にしてくれたんですよ。
だから、その方が見ている『私』は、ジローさんがもたらしてくれたものなんです。それが分かってから、自分の気持ちもはっきりしました。
私は……あなたが好きです。多分それはずっと変わらない気持ちです」
ディアさんの言葉に思わず泣きそうになる。
こんな俺と過ごした時間に、意味を見出してくれた彼女の優しさに胸を打たれる。
でも、だからこそ、もういい加減な言葉でごまかしてはいけない。そう決意して、今まで言うのを避けていた事をはっきりと伝えることにした。
「たとえ……そうだとしても、君は俺のそばにいるべきじゃない。あのなァ……ずっと黙っていたが、俺は人を殺した過去があるんだ。
殺した相手は、元は俺の親友だった男で……クラトの兄貴だ。俺がしたことだとばれていないから、罪人となった記録はないが、罪は消えない。これを言ったらディアさんがどんな顔をするかと思うと怖くて、どうしても言えなかった。
分かったか?俺ァそういう卑怯で汚い罪人なんだよ。分かったらもう帰ってくれ。もう俺にかかわらないほうがいいって言葉の意味が理解できただろ?」
いくら好意を持っていてくれても、人殺しだと分かればディアさんだって俺を軽蔑するだろう。彼女に嫌悪のまなざしを向けられたら、きっと耐えられない。
だからこのことは黙ったまま、彼女から離れていくようにしたかった。言いたくなかったんだ。少しでも、いい人として彼女の記憶に残りたかった。
これを聞いたディアさんがどんな表情を浮かべているのかと恐る恐るそちらを見上げてみると、なぜか彼女は不思議そうな顔をして首をかしげていた。
「あの……ディアさん……?」
「クラトさんのお兄さん?っておっしゃいました?あの、クラトさんのお兄さんだったら生きてますけど……」
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