第95話 side:ジロー

 *** 



 成り行きで始まったディアさんとの生活は、正直いって楽しかった。


 俺はダラダラと家の修繕をしてのんびり過ごして、ディアさんが作ってくれた美味い飯を食って、ディアさんの可愛い顔を肴に酒を飲んで一日が終了する。


 なんだこれ……天国かよ……。


 村に来てからのディアさんは、以前よりももっと笑顔が増えて毎日が楽しそうに過ごしているように見えた。


 だがあまりにも元気に毎日アレコレと休む間もなく働いているから、これはちょっとあまり良くない前兆かもしれないなと思うようになった。


 仕事にも慣れて、この家での生活も落ち着いてきた頃、案の定ディアさんは様子がおかしくなってきた。



 朝起きると疲れた顔をしているし、クマが酷いから多分夜眠れていないのがまるわかりだ。食ったものも時々戻しているようで、一時期ふっくらしてきた頬がまたやつれてきたのを見て、ああやっぱりなと思った。


 これまで毎日が目まぐるしくて思い出す暇もなかったんだろうが、過去のトラウマってのは落ち着いた頃にやってくるもんなんだと俺は身をもって知っている。


 何度も過去を忘れてやり直そうとしても、そのたびに過去の記憶が鮮明に蘇ってきて、あの時の黒い感情を思い起こさせる。ディアさんも多分今そういう状態だ。


 分かったところで、他人がどうにかできる問題でもない。とはいえ、ふっくらしてきていたディアさんの頬がまたやつれていくのをただ見ているのは忍びなかった。



 余計なことをしていると分かっていたが、俺は勝手にディアさんに休暇を取らせることにした。



 行き先に湖を選んだのは、やっぱり俺にとってあの場所は特別で大切な思い出だったからだ。何の変哲もないところでも、俺が励まされたようにディアさんも元気になってくれたらいいと期待を込めて、俺は半ば無理やり彼女を連れて行った。






 湖のほとりに座って、少しゆっくりしたほうがいいと俺が言うと、ディアさんは張り詰めていた糸が切れたみたいに泣き出した。


 ここ最近の不調の原因は、自分の中にある憎む気持ちが捨てられないからだとディアさんは苦しそうに言った。



 ……なんで傷つけられたほうがこんなに苦しまなきゃならないんだ。ただただ踏みつけられ搾取され続けたのだから、アイツらを憎んで当然だし、それを悪いなどと思う理由が俺には少しも分からない。


 アンタの家族もアンタの婚約者も、誰も皆アンタに対して悪いと思っていない。ディアさんが苦しむだけ損だ。加害者が誰一人苦しんでいないのに、何故被害者が苦しまなければいけないのかと、他人事ながら悔しくて仕方がない。


 なにか上手いことをいってやれたらいいが、あいにくこんな若い娘の慰め方なんて俺は知らない。それに、こんな自堕落に生きてきたおっさんに説教臭いことを言われたところでなんの説得力もないだろう。



 せめて、あんな奴のことなぞ投げ捨ててやれという怒りの気持ちを込めて、思い付きでその辺にあった石に馬鹿息子の絵を書いて渡してみると、下手くそな絵が面白かったのか、ようやく笑ってくれた。



 尻の絵を書いたアホみたいな石をディアさんが湖に投げ込むと、水しぶきとともに光の粒が跳ねてキラキラと飛び回った。


 その美しさにディアさんが『わぁ……』と小さく感嘆の声をあげていたが、俺は驚きすぎて言葉も出なかった。


 ガキの頃の記憶にあった、あの光景だ。


 どういう原理か知らないが、確かに不自然に光が飛んで、まるで精霊が躍っているような幻想的な瞬間だった。


 …………ガキの頃の記憶は正しかった。やっぱり妄想なんかじゃなかった。



 いろんな思いが湧き上がってきて、涙がにじみそうになる。


『すごい飛んだ……』と、隣でディアさんがポツリとつぶやいた声で我に返り、彼女のほうを振り返ると、口を開けてびっくりしたような顔をしていた。


 どうやら石を投げたのも初めてらしく、あんなに飛ぶとは思っていなかったらしい。いたずらが見つかってしまった子どもみたいな顔をして俺を見るので、あまりにも可愛くて笑ってしまった。


 そっから俺もディアさんもなんだか変に気分が上がってしまって、馬鹿みたいに石を投げてガキみたいにはしゃいで遊んだ。




 疲れたディアさんが少しでも癒されればいいなと思って、何の気なしに来ただけだったのに、二度と見られないと思っていた景色が見られて、ディアさんが声をあげて笑ってくれて、思いがけずこの日は俺にとって最高の日になった。





 ひとしきり遊んだあと、俺はディアさんに買ってあったカップを差し出すと、彼女は大げさと思えるくらい涙ぐんで喜んでいた。

 こんな安物の贈り物ひとつでそんなに喜ぶなんて、逆にどうかしている。


 嬉しそうにカップを眺めていたディアさんだったが、ふと黙り込んだかと思ったら、こちらを見ないまま独り言のように語り始めた。



 今まで人に言えなかったけれど、と前置きして罪を告白するような顔で『ずっと誰かに必要とされたかった』と彼女は言った。

 そして、必要とされたいから頑張ってきたけれど、それはただ自分の自己満足を押し付けていただけで、相手にはきっと有難迷惑だったんだろうと言って自嘲気味に小さく笑った。


 こんな自分がずっと嫌いだったと。

 こんな自分が愛されるわけがないと。


 そう言って彼女は自嘲しながら自分を責めた。


 あれだけのことをされて、傷ついて、泣いて苦しんで行き着いたディアさんの結論が、『自分が悪い』だった。


 そんなのってあるか。

 恨んで、憎んで、怒る権利がディアさんにはあるんだ。自分を責めるくらいなら復讐するほうがまだ建設的だ。


 今からでも遅くない。アイツらに復讐しに行こう。そんな言葉が喉元まで出かかるが、それは言ってはいけないと思い直して口を噤む。そんなことをしてディアさんが救われるなら、そもそもディアさんは町を出なかったし、こんなに苦しんでいないんだ。



 優しい子なんだ。あんな目に遭ってもなお、性根が歪まずに真っ直ぐなままなんだ。


 憎しみに身を任せて、自分自身で人生をぶち壊した俺とは違う。俺と同じ轍を踏ませるわけにはいかない。


 ディアさんみたいな優しい人が、どうして不幸にならなくてはいけないのだろう。神様とやらがいるのなら、まず誰よりも彼女に幸運を授けるべきだ。


 でもそんな神様みたいに都合のいい存在はいないからこそ、ディアさんはこんなに苦しんでいるんだよな。世の中ってのは、本当に不平等にできている。

 誰にぶつけたらいいか分からない怒りで、俺はぎゅっと拳を握りしめた。



 ふと、黙ってしまったディアさんのほうを向くと、小さな光の粒が彼女を囲むようにふわふわと揺れていた。



 膝に顔をうずめるディアさんはそれに気づいていないが、まるで励ますかのように、小さな光が彼女の肩にひとつふたつと落ちる。


(なんだ……?これ……?)


 木漏れ日なんかじゃない。確かに意思のあるなにかが、彼女のそばに居る。


 まるで優しく励ますように、光の粒はふわりふわりといくつもディアさんの上に落ちては消える。




 それを見て、自分でも忘れていた昔の記憶が蘇った。




 俺が昔……ここに来て泣いていた時の記憶だ。




 今のディアさんのように、膝を抱えて一人ぼっちで泣いていた。


 そんな時、瞼の裏に光を感じて顔をあげると、小さな光の粒がふわふわと俺の周りを飛びまわっていたのだ。


 その時の俺は、蛍という虫の存在は知っていたから、その光は蛍かと思って不思議には思わなかった。

 だが光は手を伸ばしても捕まえられなくて、でも肩や頭に止まったりするので、捕まえようと躍起になった。そうすると光は、俺にくっついたり離れたりして、まるで追いかけっこをしているみたいで、それが面白くて、いつのまにか涙が引っ込んで嫌なことも忘れてしまった。


 この光が、泣いている自分を励ますために出てきてくれたような気がして、なんだかとても嬉しかった。


 俺は一人ぼっちなんかじゃないと思えて、だから村での辛いことも乗り越えられたんだ。なんでこんな大切なこと、忘れていたのか。



 ずっと、神様も精霊も信じちゃいなかった。

 そんなものがいるなら、なんで俺だけこんな理不尽な目に遭うんだと憎んですらいた。


 でも違ったんだ。精霊かなにか俺には分からないが、泣いている俺を慰めてくれる存在が、あの頃は俺のそばに居たんだ。



 大人になった俺が、一人でここを訪れた時に少しも光が見えなかった理由が分かった気がした。


 きっと精霊とか神様みたいなものは、子どもとかまだ汚れていない純粋な人間のところにしか来てくれないのだろう。


 親友だった男を手にかけて、母親の死すら看取らなかったようなクズの元にはもう、現れてくれない。そういう存在なんだ。


 境遇を言い訳にして、俺は悪感情に塗れて手を汚した。

 俺がこんな風になったのも、親のせい、環境のせいだから仕方がないと思ってきた。

 だがそうじゃなかった。俺がクズになったのは、俺の性根が腐っていたからだ。


 でもディアさんは違う。

 俺よりも酷い境遇で踏みつけられて生きてきたのに、彼女の心は綺麗なままだ。


 ディアさんを見ていると自分が恥ずかしくなる。



 俺はもうどこで野垂れ死んだって当然な人間だが、この子はちゃんと幸せにならなきゃいけない。そうじゃなきゃ、いくら何でも不公平だ。あんなに頑張って、努力して生きてきたのに、報われないどころか自分を責めて苦しみ続けているなんて、理不尽過ぎるだろ。




 神様とか精霊様とかが本当にいるのなら、どうか彼女を幸せにしてやってくれ。

 今まで信じてもいなかったものに祈る俺は本当にクズだなと思いながらも、そう願わずにはいられなかった。





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