第90話 side:ジロー
あとから知ったことだが、その湖は精霊が宿ると言われているが、不敬を働いた者の魂を取るという言い伝えもあって、村の年寄りなどは絶対に近づかない場所だった。
子どもたちもそれを聞かされて育つから、ここに村の奴らが来ることはめったにないが、俺はそういう話を教えてくれる人がいなかったので、穴場を見つけたと喜んで、日中はここで過ごすことに決めた。
怖い言い伝えなど知らない俺は、毎日その湖で石を投げたり、小魚を網ですくったりして一人で遊んですごした。
精霊の湖にとんだ罰当たりだが、時々光の粒が不自然に跳ねるだけで、怖いことなど一度もなかったから、俺は毎日この湖に来ていた。
ここに居れば、誰にも見つからず穏やかな気持ちで過ごすことができた。
村のなかで、俺が唯一安らげる場所だった。
ここに来ていることは母親にも言っていない。俺だけの大切な隠れ場所だった。
それから俺は、毎日ほとんどの時間を湖に来ていた。朝早くに家を出てしまえば他の奴らに見つかることもないし、会わなければいじめられることもない。
そうやってずっとやり過ごしていたのに、ある日俺をいじめていた奴らがわざわざ早朝にやってきて、家を出る前の俺を捕まえにきた。
俺は慌てて逃げようとしたけれど、奴らは母親に『ジローと遊ぶ約束したから迎えに来た』といい子ちゃんの笑顔で言ったものだから、喜んだ母親に半ば強引に送り出されてしまった。
奴らは俺がここ最近、村のどこにもいないから、こうしてわざわざ朝早くから来させられたと言って最初から機嫌は最悪だった。
いつもはからかい半分だが、今日は最初からボコボコ殴られて容赦がなかった。死んでも村の厄介者が減るだけだと言って、俺がどれだけ泣いても誰も止めてくれなかった。
このままマジで殺されるんじゃと恐ろしくなった時に、『やめろ』と言う声が割り込んできた。
止めに入ってくれたが、のちに俺の親友になるハクトだった。
ハクトは、集団で取り囲まれて鼻血を出している俺を見て状況を察したようで、『お前ら最低だな』と奴らに吐き捨てた。俺を取り囲んでいた奴らはハクトに逆らえないようで、気まずそうにしながらその場から逃げていった。
ハクトは、孤立無援だった俺を助けてくれた唯一の人間だった。
そして、俺が嫌がらせされていると知ってからは、『じゃあなるべく俺と一緒に遊ぼう』と言ってくれるような、優しい奴だった。
いわゆるガキ大将みたいな存在だったハクトは、頭もいいアイツは同い年の奴らには一目置かれていたから、俺がハクトと居るとアイツらも手出しができないようで、いつの間にか俺一人でいる時でも嫌がらせをされなくなっていた。
ハクトに助けてもらった立場の俺だったが、だからといってアイツに守られておんぶ抱っこだったわけじゃない。
実はハクトは結構調子のいいところがあって、村での手伝いや面倒事をなんでも安請け合いするのだ。みんな、見返りがないと手伝おうとしないので、そういう時に助けてやるのはいつも俺の役目だった。
そうしてハクトと俺が一緒いる時間が増えるうち、ハクトも『ジローだけが本当の友達』と言うようになり、俺たちは周りからも親友と思われるような間柄になった。
とはいえ、ハクトが勝手に引き受けてきた仕事なのに、俺にだけやらせるなんてこともあって時々うんざりすることもあったが、それもハクトのためと思って、恩を返すつもりでやり続けてきた。
だが成長するにつれ、女癖が悪くなって、そのもめ事を押し付けられるようになったのには正直まいった。
ハクトには決まった結婚相手がいたのに、他の女の子に手を出すから度々もめ事に発展していた。その火消しにハクトは俺の名前を使いやがるから、いつの間にか俺がとんでもない遊び人みたいに周囲からは思われるようになった。
事実と違っていても、俺が遊び人で女にだらしないという噂は、あっという間に本当のこととして親世代から年寄連中にまで広まった。
それ自体は別に構わなかったのだが、”やっぱりあの女の子どもだから”と言っているババアどもがいて、その意味が分からずにいた。
誰に聞いても言葉を濁されていたが、ある時、村長がその意味を教えてくれた。
俺の母親がどうして村であれほど疎外されていたのか、その時ようやくわかった。
俺の母親は、多分若い頃は結構な美人だった。特にこんな田舎の村じゃ目立つ容姿だったろう。
俺の知る限り、母はずっと働き詰めで生活に余裕がなく、父以外の男と関係を持っていたことなんてないはずだが、村では母は複数の男たちの愛人になっているとまことしやかに言われていたのだ。
俺の家が最初から村八分になっていたわけじゃない。
むしろ、夫が出稼ぎにでたまま帰ってこないと分かったあとは、夫が不在の我が家を心配し、当時の村長や村の顔役の男衆らが時々畑を手伝ったりしてくれたりして、村で俺たち親子を支えてやろうみたいな動きがあったらしい。
それが今の状態になったのは、そうやって我が家を支援するのを快く思わない女たちが、ウチに来る男たちと母親がデキてるんじゃないかと言い出したからだ。
母親は、男たちに畑を手伝わせる代わりに体を差し出してるのかなどと言われ、女衆からつまはじきにされた。
そんな根も葉もない悪評を言い触らす女たちを誰かが諫めようとしても、自分の愛人だから庇うんだろうと言われて、事態は悪くなる一方だった。
こうなってしまうと、それまで手助けしてくれていた男たちも、変な噂を立てられたくなくてウチに近づかなくなっていった。
女たちのやり口は陰湿でそして執拗だった。
そもそも、よそ者である俺の母親は、最初から村の女たちに受け入れられていなかった。
目立つ容姿の美人だった母親がこんな田舎の村に嫁いできたので、村では当初随分と話題になったようだ。美人な嫁さんが羨ましいなどと男どもが己の妻にあてつけがましい言葉を言ったりしたせいで、多くの女たちの反感を買ってしまっていた。
それに、ここに来る前は職業婦人だったという母親の例歴も、女たちにとっては気に入らない要因のひとつだった。
村の女のほとんどは学校に行かせてもらえず読み書きがほとんどできない。年寄りはともかく、若い世代はそれを恥と感じていたので、母の存在は女たちの劣等感を煽ってしまったようだった。
そういった、最初からあった母に対する反感が、夫という後ろ盾を失った母に一気に向けられてしまって、あっという間に俺たち母子は村で孤立していった。嫌がらせを止めようとした者も中にはいたようだが、どうしようもなかったと、村長は言っていた。
村長も当時ウチの母親を助けようとしてくれたうちの一人だったが、自分が関わると母親への嫌がらせが加速するからどうしようもなかったと謝ってくれたことがあった。
村のこういう負の面を嫌って、村長も一時期村外へ出てしまっていたが、後継だった長兄が亡くなり、村に呼び戻されたという経緯がある。
村長が戻ってきた時も、相変わらず俺の母がつまはじきにされている現状を知って、俺がちょうど成人を迎える年ごろだったのもあり、今後の身の振り方を考えろとその事実を教えてくれたのだ。
それを聞いてから俺は本格的に村から出る計画を立てて、他所で日雇いの仕事を見つけては金を稼いだ。移住先の下見も兼ねていたので、ある程度金が貯まったら母を連れて村を出ようと決めていた。
……けれど、その移住は結局実現しなかった。
母親が、この家と畑を捨てるわけにはいかないと言って移住を拒否したからだ。
何度説得しても無駄で、だったらもう俺一人で村を出ると啖呵を切ったが、それは結局ハクトに止められた。
『親友のお前がいなくなると寂しい』
そんな一言にほだされた俺も俺だが、ハクトには恩があった。結局完全に村を出る決断はできなくて、でも家の畑を継ぐ気にはなれず、年の半分は出稼ぎに出て暮らすというどっちつかずの状態で数年過ごしていた。
そんな時に舞い込んできたのが傭兵仕事だった。
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