第29話
踏みつけられた婚礼衣装。
一人取り残されて、歩いて帰った家までの道。
誰にも顧みられなかったあの夜。
私を大切に思う人はいないんだとはっきり気付かされた、あの日の絶望が、走馬灯のように蘇る。
辛い記憶が一気に蘇ってきて、自分が今あの日の夜に戻ったような錯覚を覚えて激しく混乱する。
呼吸が浅くなって嫌な汗が流れ始めた。動悸が激しくなり、勝手に涙が溢れる。
私が泣いていることに気が付いたラウが、腕の力を緩めて優しく頭を撫でてきた。
「ディア、泣いてんのか……?ああ……泣かせてごめん。本当に俺が悪かった。今度こそお前を大切にするから。二度とあんな思いさせないから。まだお前のなかに俺が残っているのなら、ほんの少しでいいからやり直す機会をくれよ……お前のそばにいることを許してくれよ。もう、泣かせたりしないから……」
苦しい苦しい苦しい。
誰かが何かを喋っているが、耳鳴りがしてよく聞こえない。息が苦しくて、たった独りで置いていかれて、どうすればいいのかわからない。
どうして私はずっと独りぼっちなんだろう。誰も私の味方になってくれない。なんで私のそばには誰も居てくれないんだろう。
苦しくて辛くて、私は目の前にいる人物が誰かなど考えずに、苦しさから逃れようとその腕に縋り付こうと腕を伸ばす。
だがその瞬間、悪夢を押しのけるように一つの光景が浮かんだ。
パッと燃え上がる、鮮やかな炎の赤い色。
栞が燃えたあの瞬間の、美しい光景。
一瞬で炎が燃え尽きたあとの、ジローさんの驚いた顔がはっきりと思い出せる。
あれほど大切にしていた栞を捨てることができたあの瞬間、喪失感なんてものは無く、すごく満たされた気持ちになった。執着を全部捨てられたと達成感を感じた瞬間だった。
この村でジローさんと過ごした時間は、私を癒し、正してくれた。
今の私は、孤独でカラッポな人間じゃない。たくさんの優しい気持ちで満たしてもらった。
縋り付きたくて、いつも誰かの言いなりだった頃の私に戻ることはもうあり得ない!
嵐のようだった心の中がゆっくりと凪いでいく。
そうだ、こんな言葉遊びみたいな陽動に惑わされちゃいけない。自分勝手な解釈で再び私を縛ろうとしたって、私はもうラウの思い通りになどならない。
こんな最低な奴の言葉に動揺して涙を見せてしまったことを後悔する。
私は涙をぬぐってこぶしを握り、ラウのその横っ面を殴ってやろうと力を籠める。
「ディア……?なんかいってくれよ……なあ……」
ラウが顔を傾けて、妙に優し気な声で問いかけてきた次の瞬間、私の体は後ろに引っ張られ、ラウは誰かに蹴り飛ばされ勢いよく後ろに吹っ飛んでいった。
「おいっ!クソガキ!なにしてやがんだこの痴漢野郎!きたねえ手でうちの可愛いディアさんに触るんじゃねえ!」
「ジ、ジローさんっ……」
後ろから私を抱き込んだジローさんが、ラウを蹴り飛ばしたのだった。
ジローさんはぎゅうぎゅうと私を抱きしめながら、しっ、しっ、と手でハエでも払うかのようなしぐさをしている。
「ディアさん大丈夫か?心配だから迎えに来たんだよ。いやーまさかディアさんがこんな野外でエロ君に痴漢されているとは思わんかったわー。さすが結婚式で尻を出して浮気するだけあるよなァ。分別とか理性とか欠片もないのなエロ君は。
危ないところだったなァ、でもギリギリ間に合ったよな?なんもされてないか?おっぱいも無事か?なあ、ディアさん、今の俺の蹴り、かっこよくなかった?」
いつもと変わらないジローさんののんきそうな声に安堵して、先ほどとは違う涙が溢れてくる。
「ジローさ……も、やだぁ。ジローさんジローさぁん……うぇぇん」
「あらら、あーやばい。もーなんでそんなに可愛いんだよォディアさんは~。あ、やわらか。あーいい匂い~女の子に泣きつかれるなんておとこ冥利に尽きるなァ」
ジローさんに抱きしめられて私は子供のように泣きじゃくった。
こんな風にすがって泣いたりできるのは、ジローさんだけだ。
子供のころからずっと、物分かりよく我儘を言わない良い子であろうと我慢し続けてきた私はいつしか人前で泣くことができなくなっていた。
でもジローさんには感情をぶつけることができる。汚い感情もみっともない姿もジローさんは全部普通のこととして受け止めてくれたから、彼の前では全部素直にさらけ出せる。
「…………は?まじかよディア。なんでおっさんに抱き着いてんだよ。本気でそいつともうデキてたとか言わないよな……?どうみたって……そっちのほうが痴漢じゃねえか」
呆然として座り込んだままのラウが信じられないものを見るような目でジローさんと私を見ていた。私は涙をぬぐって、ラウに向き直る。
「……ラウには関係ない。デキてるとか下品なこと言うのやめてよ。私たちはあなたと違って、そういう欲望にまみれた汚い関係じゃないから。
それに、何度も言うけど、話すことなんてなにもないわ。もうあなたは……私の人生に関係ないひとだから、この先一生関わることもない。早くこの村から出て行って。あなたも私のことなんて二度と思い出さなくていいわよ。謝罪もいらない。私も今日限りあなたの存在を最初から無かったものとするから……永遠にさようなら。もう知り合いでもなんでもないから」
今度こそきっぱりと、何の迷いもなく縁を切る宣言をラウにする。
昔の私はラウのことが心から好きだった。どんなかたちでもいいから必要とされたい、そばにいたいと思っていたのは『昔の私』だ。今の私じゃない。今の私はもうラウを求めていない。そのことに改めてはっきり気が付けてよかった。
すがすがしい気持ちになり、思わず笑顔になる。
ラウはそんな私を不思議そうな顔でしばらく呆然と見ていたが、ふと目を細めて眩しそうに瞬きすると、頭を二、三回振ってパッと顔を上げた。
その顔が、なぜか私と同じようにすがすがしいような表情を浮かべていたので、『あれ?』と思い私は首をかしげた。
ラウはゆっくりした動作で立ち上り、軽く服の泥を払うと、私の目の前まで歩いてきた。
スッと右手を差し出しながら、ラウは言う。
「関係ない、か。まあ、そう言わせてしまったのは俺のせいだから仕方がないか。ホントお前変わったよなあ……それとも俺が知らなかっただけで、本当のディアはこんな風だったってことか?
まあいいや、そしたら本当のディアとは実際これが初めましてみたいなもんだしな。関係ねえって言われない関係をこれから新しく築いていくしかないよな……。
うん、わかった。もう俺のことはすっぱり忘れてくれて構わない。これからは、村の住民として、ディアが俺を新しい友人の一人として認めてくれるまで、いくらでも待つからさ」
「…………待つ?」
「おう、待つ」
にこ、と人好きのする笑顔を私に向けて、ラウはキッパリ『待つ』と言い放った。
「え?エロ君帰らないつもり?こんなにきっぱりさっぱり振られてるのに?心臓鋼すぎん?」
ジローさんが、まさかといった風に問いかけるが、ラウは全く気にした様子がない。むしろちょっと楽しそうなのが理解できない。
「おっさんは黙ってろよ。オッサンとは友達になろうとか思ってないから安心しろよ。じゃあディア。俺たちの関係は、とりあえずご近所さんで仕事仲間からやり直しか。よろしくな?」
この差し出された右手は握手かと思い至り、思わず『はあ?!』と品の無い言葉が口をついて出る。
今の話の流れでなにがどうしてそういう結論に至るのだ。驚きすぎて何も言えず呆然としていると、ラウが余所行きの作り顔でにこっと微笑むから、ものすごくイラっとした。
……平穏な田舎生活はどうなってしまうんだろう。ジローさんの『あちゃー』という声が頭の上から聞こえた。
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