山の銅像をめぐって 作:匿名

 「山は楽しいところだよ」と僕の父さんは言った。

 「空気が何よりきれいだし、葉っぱが光に当たってきらめいているところを見ると、こっちの感覚まで研ぎ澄まされる気がする。現代人が忘れている大切な感覚だ…」

 小学生の僕に対して、自分で自分の言葉に酔ったように続ける父さん。僕はそれが何より嫌いだった。じゃあ父さんは時代遅れの人間なんだね、なんて言っても、それすら楽しんでいるような様子を見せていたから。僕はますますいらついたけど、それ以上は何も言わなかった――言えなかった。分かってるんだ、父さんが立派だってことは。毎日会社へ行き、稼いで、母親のいない僕をここまで育ててくれた。文句なんて言えるはずがない。そういったある種の悟りが、自分のいらつきを鎮めるのに役に立ってくれた。

 でも、もう限界だ。ある時急に思った。中学生の時だ。周りのやつが次々に反抗の武勇伝を披露する中、僕だけは何もなかった。自分はこのまま一切父に反抗せずに生きていくのか?それは無理だろう、という感情が渦巻く。いつかはこの感情を伝えなくてはいけない。じゃあ、いつか?もっと大人になってから?いや、大人になればなるほどそれがしにくくなることを僕は知っている。今、今やらなくちゃいけないんだ。

 とある夕食のとき、父は山にいたときの思い出を楽しそうに話していた。

 「この町で一番高いあの山があるだろ。父さんはあそこを高校生の時にクラブで初めて上ったんだ。楽しかったぞ――たくさん怪我もしたけどな。岩の階段を延々と行くのはキツかったが、頂上はきれいだった。立派な銅像の前で記念撮影もしたんだ――肝心の景色を撮るのを忘れてな。そこまでして撮ったのに、銅像の人物が誰なのか確認するのを忘れてたんだよ。みんな疲れてたからそんなことしなかったんだが…同窓会の時にはいつも話題に上がるよ。俺たちはなんでこの髭のおじさんと写真を撮ったんだ、ってな。」

 そこで父はひとしきり笑い、お前が山に登ることがあったら調べてきてくれよ、と話を締めくくった。

 これだ――と思った。父は中学生の僕が山に登るなんて思ってないだろう。そこを無断で、しかも一人で行ったら?それに無事に帰ってきて、その銅像の人の名前をすらりと答えたら?胸が急速に高鳴るのを感じた。そのときこそ、自分が父を超えた時だ。

 数日前から準備をしてきた。幸い、その山はそこまでの重装備は必要ないようだった。周辺に住んでいる人なら気軽に上り下りしているらしい。少しガッカリしたが、気を取り直して決意を新たにする。


 当日、父さんに遊びに行ってくるよと残して家を出た。そんなに緊張はしていなかった。山の麓につくと、人がまばらにいる程度だった。近所の店で冷たい飲み物を買っていると、店員のおじいさんから声をかけられた。

 「あんたも頂上に遊びに行く人かい。ゴミはちゃんと持ち帰れよ。」

 そんなんじゃないや、と思ったが笑顔でうなずいた。

 初めて歩く山は確かに新鮮で面白かったが、どこか気を抜けない感じがした。なにが現れても文句は言えない――そんな勢いをピリピリと感じる。僕は緊張しているのか?まさか。これは遊び――、そう、お遊び程度のものなんだ。延々と続いていく道の中で、だんだん自信を失っていくのが分かった。ときおりすれ違う人の存在が何よりの救いだ。

 だんだんと辺りが暗くなっていった。今日は一日中晴れのはず、と自分に言い聞かせる。人に会う回数が減っていった。怖い。恐怖を押し込めて動く。動く。

 雨が降り出してから、僕は不意に引き返そう、と思った。もう無理だ。今度は誰かと一緒に行けばいい。恐ろしさで呼吸が浅い中、必死に来た道を下る。

 麓まであと少しだ、と思ったとき、なにかおかしなものが視界の端に移った。茶色。光る?銅像だ、と分かって僕はしばらく立ち尽くしてしまった。髭の感じとか、父が言っていた特徴にぴったり当てはまる。けれどこれは明らかに新品だった。これは発見だな、と少し浮かれた瞬間、その銅像の口の端がいびつに持ち上がった――ような気がした。そのときの記憶はほとんどない。銅像の一部が動いたとたん、僕はなりふり構わずその場から走り出してしまったからだ。


 結局僕は山に行ったことを誰にも言わなかった。口に出したら笑われそうで、また呪われそうな気がしたからだ。能天気な父が言う。

 「そろそろ夏休みに入るだろ。こないだ話したあの山に二人で行ってみないか。銅像を確認するのも兼ねてさ――」

 だから、僕は彼の目をまっすぐに見据えて言った。

 「絶対に嫌だ」 

                                 終わり


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