第三章 影の剣士③
主人は倒れ、彼の頭から流れる血だまりが床に座るエラリィの脚にまで浸った。
「これで契約ということでいいわ……」
女性のような声音がどこからか聞こえてきた。その声の主が影に覆われた家の床から四本脚の獣のような姿で現れた。
「この糞親の血で契約だなんて、闇の眷族であるアタシには相応しいわね……」
闇の眷族……。イスカはエラリィの過去を覗き見しながら、その名乗り方に考えさせられた。
――闇の眷族……。属性を帯びた知能の高い魔獣の類い? いや、精霊と関わりがあるということか。闇の精霊たちからはぐれてしまった、本来の精霊とは異なる考えを持つ精霊かもしれん。
精霊同士は繋がりをもっており、中には個人主義というか、自己を確立させた精霊もいる。そうした精霊は群れることが常である精霊たちとは別行動をとることもあるという。
エラリィの記憶が少しずつ、現在に近づいていくようだった。
それに気づいたのは魔王軍との戦いの場面にイスカの視界が変化したからだった。
大勢の魔王軍とダガレクス軍他各国の連合軍との大規模な戦い。
平野にて響き渡る武器と武器が打ち合い、甲冑を粉砕する音、人の悲鳴、怒号、魔獣の雄叫び、馬の駆ける音が喧しく平地に轟く。
この戦禍において、数多の傭兵団が生まれた。エラリィもそれに加わり、傭兵団を転々としたようだ。
四ヶ国それぞれの国が古くから伝わる、特色ある武器が国境や人種を超えて、元の持ち主さえもわからなくなって戦争に用いられたのは、前時代ではよくある話だった。
エラリィも戦争という時代の奔流に飲まれた一人の少女だったのだ。
痩せたエラリィの体では、すぐにやられてしまいそうに見えるが、闇の眷族との関係は続いており、エラリィがこうした死地を乗り越えられてきたのも、そのつながりによるところが大きいようだ。
そこに刀を持った魔王軍の兵士が、無造作にエラリィの胸にその刀を突き刺させた。
吐血しながら、闇の眷族の力をもったエラリィは自分で刀を引っこ抜き、立ち尽くす魔獣の首を刀ではねた。
エラリィの心像と刀の両方でエラリィの生死を統率するにまで至った、闇の眷族の力。戦争を乗り越え、人を殺める稼業で今まで生計を立ててきたた、それほどの精神と底力を持った者は、世の中に何人もいるというが、その知識自体イスカも書で目を通したくらいで、実際に間近で見るのは初めてだった。
宿屋の寝室に、涼しげな風が吹き込んできた。先ほどガオスが壊した窓から、外の空気が入ってきたのだ。
全てとはいわないまでも、エラリィの過去を知ったイスカは若干戸惑いを感じていたのだった。
「あなたには感謝してるわ……」
闇の眷族の声がエラリィの足元から聞こえてきた。
「教会で出会って意気投合しなければ、あの男を探すのにもっと手間がかかっていただろうから」
「なぜエラリィと契約したのだ?」
「この子の働かされている時の目が、妙にアタシの気持ちを奪い去ろうとしたからよ。惚れたの。この子の必死で、強い瞳と意思に……。戦争が終結してから食い扶持に困ってね……。人を殺すしか脳のないアタシたちだったから、こういう仕事ならどんどん引き受けていったってわけ……。今引き受けている仕事はあの赤い髪の男を殺すこと……。デノムっていうマガラウザの側近からの依頼ね……。あの赤い髪の男も可愛そうにね。デノムをそれなりに信用していたみたいだけど……」
「あの猿頭を殺すのか?」
「そうよ」と影が言った。
「それはエラリィの意思でもあるのか……?」
「アタシとしてはそこは別個に考えてるんだけどね……。この髪が黒いうちはこの子はアタシに支配されている。つまり、殺しの仕事をこなすときだけ、アタシの力でやるってだけよ。安心して。空の魔女……」
「バレていたのか」
「会った直後からね。それはこの子も気づいていること。でも友達だと思っているのは本心みたい。バラさなかったのはそうすることでこちらも目立ってしまう恐れがあったからよ……」
「猿頭を殺さないという選択肢はないのか?」
「どうかしらね……。アタシは血がほしいだけよ。それを条件にこの子の壊れかけた心像を補修し保っている状態でもあるのだから……。あなたができるなら止めて見せて……。このアタシの血への衝動を……」
「クー」と肌寒い風の吹く半壊した部屋にエラリィの抑揚のない呼び声が響いた。
「いや、親愛なる空の魔女……」
イスカはエラリィの瞳に見入った。紺色の鈍い光を放ったまま、エラリィはこう言った。
「ごめんなさい。騙してしまって……」
そしてエラリィは、ガオスと同じく、破損した部屋の側面から跳ね、闇の中へと消えていった。
木立の中を走り抜けるガオスは、数回ライトニングテイルを使い、疲労困憊しながらも、背の高い樹木の隙間を縫うようにひたすら駆け巡った。
途中で息を切らした。木の側に立ち止まって、背を丸める。
――ここまで逃げてきたが、体力が限界だ……。やはりライトニングテイルの乱発は消耗が激しい……。
木に背を預け座り込もうとしたが、そこに宿屋で感じたような淀んだ気配を察知した。そちらへ目をやると、闇に紺色の光を肩の上へと揺らめかせるエラリィの姿があった。
――覚悟を決めなきゃならねえのか……。
自分よりも若さを感じさせる少女に殺伐としたものを感じ、距離はまだ離れていたものの、エラリィの手にある武器の刃先はすでにガオスへと突きつけられているように殺気立ったものを感じていた。
すでにエラリィの手中に自分が置かれているという気がした。焦燥感を抱かざるを得ない、追い詰められた獲物のようでもあった。
だからこそ、ガオスは死を悟っていた。
「
エラリィが徐々に近づきつつそう呟いた。しかしそれでも剣の長さや間合いからいって、届きそうもない距離にいる。
エラリィは腰にあった刀の柄を右手で握った。
奥歯を噛みしめ、身構えるガオス。
一歩も引かず、こうなれば背中よりも胸で受けきろうと、静かに息を吐く。
「烈影――」
れつえい、とエラリィは呟いた。そして彼女の姿は紺色の光を帯びて、ガオスを過っていった。
ガオスの右の胸から右肩にかけ迸る一閃。
傍らの木を斬り倒しつつ、ガオスが最後に見届けたのは、自分の背中から数歩先で納刀するエラリィの姿だった。
ガオスがよく背負う荷物を、魔法で浮かせて町の近くにある森にまで脚を速めるイスカは、部屋が壊され騒々しくなってきた宿屋全体の雰囲気を何とか無視しつつ、宿賃と多少の弁償代を受付で苛立ちを抑える主人の前に置き、声をかける主人を無視して町から逃げようやっと森へと入った。
そこまでは走るということをしなかった。
地上からやや宙に浮いた体で、荷物と共に滑空し森をしばらく行くと、途切れそうなガオスの心像を感じ、そちらの方へ向かった。
鉄をも斬るという厄介者がうろついているという話を聞いていたが、それはエラリィだったようだ。
切り株の近くに横たわるガオスは、鉄化の呪いとは何だったのかと言えるほど、見事に切り傷を作り、息たえたえだった。
イスカはしゃがみこみ、ガオスの名を呼びながら体を揺さぶった。
反応が希薄だった。
どこか上の空で呼びかけに答えるガオスだが、傷口をよく見ると、胸の中央から右肩にかけて細長くなった三角形のようにえぐられており、その胸の奥には輝きを放つ物体があった。
これこそが万民に備わるとされる心像だ。
魔法を扱うことに長けた者であり、クリスタルの化身であるイスカの目には人間の内蔵としての心臓ではなく、輝く結晶に見えている。
――精霊に呼び掛けるしかないか……。
イスカは胸の前で指を絡ませ、源素の魔女である己の力を駆使して空中に浮遊すると言われる精霊たちを呼んだ。
――我こそは空の魔女……。万象の精霊たちよ。我が呼びかけに応じてくれたまえ……。
しんとした森に無邪気な笑い声がこだました。
……おや、空の魔女……。……お困りみたいだね……。……その男の人かい?……。
精霊たちが集まってきた。イスカには人を手当てするという魔法が使えない。多少の擦り傷程度を薬草などで治す知識はあったが、最五の魔女にも得手不得手がある。
――どうかその大地と空との間に漂えし、万物の力をこの者におそなえください……。
……空の魔女のお願いとあっては断れないね……。……他の源素の魔女たちにも、力を貸してやってくれ……。……ダガレクスの王が、源素の四人の魔女を捕らえたようだ……。
精霊たちのその声にイスカは反応した。
――まさか、それは本当に?
……生きてはいる……。……それより今はその男の人だろう……。……あなたはあなたでやるべきことがあるんでしょ?……。
そうだ――。
イスカはすぐにでもエラリィを追おうと思った。だが深手を負ったこの猿頭のクリスタルがこうも露見されているとなると、同情するほかない。普段はふざけたことを言い合う仲だが、この男に助けられたこともある。
――ガオス……。どうか息を吹き返してくれ……。
……この男の人……。……鉄化してるね……。
口々に精霊たちが囁く。精霊の次の言葉にイスカは目を丸くした。
……他所からかかった呪いじゃない……。……この男の人、自分で鉄化の呪いをかけたようだ……。
森から出たところに広がる平野と森との境で、イスカはエラリィの姿を発見した。
ガオスは精霊によって治癒されている途中だ。彼を置いて、ここまで来てしまったが、イスカとしてはエラリィに対し様々な思いがあった。
「待って、エラリィ!」
空中から降り立ったイスカは、エラリィに近づいた。
「ごめんなさい……」エラリィは唐突に頭を垂れた。
「私は人を殺める稼業で日銭を稼いでいる。最五の魔女であるあなたとは一緒にやっていくことは難しい……」
「お前はそんな人じゃない……」
強かな目でエラリィを見つめる。エラリィの表情は以前と変わらず、無表情だったが、口元が微かに震えていた。
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