第10話  日本拳法と太極拳 V.1.01

 日本拳法と太極拳

 2 0 2 1 年 8 月 2 6 日

 平栗雅人



 日本拳法の本を書くために動画サイトで探していたら、太極拳の動画が出てきた。


 太極拳というのは、ここ台湾では、大きな街の公園で毎朝、いくつものグループがやっているのを目にする、いわば日本におけるラジオ体操のようなもので、ジジババの健康法の一つと思っていた。


 太極拳には、お馴染みの、ゆっくり動作の拳法もあれば、空手のような早くて力強いスタイルもある。演武には男子と女子があり、個人や団体での演武もあるし、槍(長い棒)や刀を持って踊る(演舞する)というのもあるらしい。

 いずれにしても、日本拳法とちがい、実際に殴る蹴るのではなく、日本拳法にもある「型の演武」と同じで、殴る蹴る、突く斬るという動作を表現して楽しむスポーツらしい。

 スポーツとは必ず順位が付くものだが、太極拳の場合は十名ほどの審査員がフィギュアスケートや新体操のように、演技する選手の形やバランスといった外見上の美しさ(から、その技術やパワーを推し量る)で評点をつける。


 たまたま私が見つけたのは、女性が一人で約4分間、10メートル四方のマットの上で武器を持たずに演武する、というスタイルの競技(Wushu Taijiquan: 武術 太極拳)でした。


 はじめはただぼんやりと見ていたのですが、3回・4回と同じ動画を見ているうちに、すっかりのめり込んでしまい、「太極拳とは、漢字と並ぶ中国人の2大発明ではないか。」とまで思うようになりました。


 漢字というのは、木や林や森や山、或いは、憂鬱のように、目に見えるものや心の状態までをも象(かたど)って表す表意文字ですが、太極拳というのもまた、風や波・鶴といった、目に見える事物を身体全体を使って表現するばかりでななく、演武者の心象(心の風景)までをも表現することができる、奥の深い運動である、と。


 単なるジジババの健康法ではない。「いかに速く・いかに強く」を追求する日本拳法と全く反対に見える「ゆっくりと、しなやかさ」を追求する(早くて力強い場面もある)太極拳が、実はその追求するところは両者全く同じだった、という大きな発見と驚き。


 今まで、どんな失敗があっても決して後悔したことのない超楽天家のこの私が、人生で始めて「ああ、選択を間違えたか」と、思わずネガティブな気持ちで過去を振り返ってしまった。「六年間、座禅なんかやっていないで太極拳をやっていればよかった。」と。


 私は京都の大徳寺という禅寺で四年間、鎌倉の建長寺という禅寺で一年間、そして、東京のある寺で一年間、座禅や托鉢から始まり、さまざまな禅寺の生活を体験しその社会を見てきましたが、その私が得た結論とは

○ 「禅で人は救えない」

○ 「座禅で悟りを啓いた者など一人もいない。」(釈迦が7日間で悟りを得たというのは、座禅ではなく一杯のミルクだった。)

ということでした。

 特に何かを期待して禅坊主になったわけでもなし、ある事情で3・4ヶ月間「雲隠れ」のつもりで入った僧堂生活が4年に延び、まあ、ちょっと変わった経験ができたかということで、プラス・マイナス=ゼロ、可もなく不可もなくだったのです。


 しかし、今回、太極拳ならば自分自身で真の自分を見出すことができるし、人も救えるにちがいないと、ほぼ確信に近い感を受け、「こりゃあ、とんでもないものを見過ごして死ぬところだったぞ。」と、黒澤明の映画「椿三十郎」ではないが、「危ねえ、危ねえ」という気持ち。


 もはや、寿命なり天命の来るのを待つばかりの歳ですから、「世の中に新しいものなど何もない。」という諺の通り、びっくりするようなことなんて何もない、平穏無事、後悔も希望もない毎日だったのですが、この「太極拳の発見」には、「せめて、葬式坊主をやっていた2年間を、無収入でもいいから、太極拳をやる日々に代えてもらえないかと、神様にお願いしたい気分になりました。

 2021年 8月27日

 平栗雅人

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