第63編「こんな事、わざとされたら理性が保てませんよ」

 恋幸を見下ろす空色の瞳が劣情れつじょうに揺らぎ、眉根を寄せる裕一郎をどこか『美しい』と感じて息を呑む。



「恋幸さん、ちゃんと抵抗してください」



 組み敷かれたまま大人しく彼を見上げている恋幸に対し、十数秒の間を置いて裕一郎はうなるようにそう呟き片手を彼女の頬に添えた。


 当然、この状況に気恥ずかしさや緊張感を覚えてはいる。今こうしている間も、恋幸の心臓は早鐘を打って喉から飛び出てしまいそうだ。

 ――……けれど、



「……やだ」



 本能が理性を抑え込み、幼子おさなごのような反論が口をついて出る。


 恋幸は頬に添えられた彼の手の甲に自身の手を重ねると、猫のように頬をり寄せて眉で八の字をえがいた。



「好きにしてください。って、いつも思ってます。だって私は……倉本さんのこと、いっぱい愛してるから」

「……っ、」



 愛してる。

 一緒に日常を送る中で大きく育っていた想いを初めて言葉にした瞬間、裕一郎は薄い唇を引き結び喉仏を上下させる。



「でも、倉本さんが私のことすごく大切にしてくれているのも知ってます」

「……はい」



 そう。は以前にも、夢の中で思った事だ。


 例えどれだけ立場のある人間であろうと、裕一郎もふたを開ければ中身は『一般的な成人男性』である。

 更に言えば、長年想い続けた女性を自分の恋人にできたとあれば本能的な欲望が先走っても当たり前であり、相手を肉体的な意味で求めるのは単なる生理現象に近い。


 ……にも関わらず。今だに裕一郎が恋幸との性行為に及ぼうとしないのは、ようやく手に入れた『小日向恋幸』という存在を宝物のように扱っているからだと、彼女自身も最近になって痛いほどに理解していた。


 勿論、大切にしてくれている事はとても嬉しい。意思を尊重そんちょうしてくれる点も、せかかさない所も、全てが愛おしい。

 しかし、



「だから、これは私のわがままって事にしてください」

「わがまま?」

「うん。……裕一郎様。ちょっとでいいから、触って?」



 愛おしく思うからこそ、身体中の細胞が『倉本裕一郎』を求めるのだ。

 それはきっと、彼も同じではないだろうか?



「……困ったな。それ、わざと言ってます?」



 自嘲じちょうにも似た微笑みを浮かべる裕一郎を見て恋幸は溢れ出すときめきに胸を締め付けられ、しぼりカスのようなうめき声が喉の奥から「ぐう」と出る。


 彼女のが効いているからなのか、それとも単なるアルコール効果によるものか。さだかではないが、普段あまり見ることのない彼の表情の変化から目が離せない。



「そ、その……わざと? と言うか、ただの本心です、はい……」

「……これでも必死に理性でおさえているんです。あまりあおらないでください」

(しょ、少女漫画で聞いたセリフだ!!)



 少女漫画脳の恋幸がそんな事を考えている間に、裕一郎は上半身を起こして雑にスーツのジャケットを脱ぎ捨てると、片手を彼女の顔の横につく。



「あっ、煽って、る、つもり……なかったです」

「そうでしょうね。だから困るんですよ」



 自信の無さを反映して語尾にかけて消えていく言葉を聞き、愛おしくてたまらないと言いたげに表情を和らげる裕一郎。



(多分これは、悪い意味の『困る』じゃない……よね?)



 彼の大きな手のひらが頬を撫でて、ほんの少し冷たい親指の先があご輪郭りんかくをなぞる。

 たったそれだけの事で、つい先ほど『困る』というワードに反応して心の底にぷかりと浮かんだ小さな罪悪感が、ぱちんと弾けて消えてしまった。


 指先、雰囲気、表情、眼差し。裕一郎が恋幸に向けるその全てがただひたすら真っ直ぐに愛情だけを伝えて、安心感を抱かせる。



「本当に可愛い人だな」

「ん、」



 独り言のようにそう呟いた裕一郎の唇が、恋幸の唇に触れるだけのキスを一つ落とした。



「……恋幸さん、」

「はいっ」

「少しでも『怖い』だとか『やめてほしい』と感じたら、私の肩を一度叩いてください」

「は、はい。わかりました」

「ん。いい子ですね」

(ひゃ〜っ!! 素敵!!)



 裕一郎は赤く染まった恋幸の頬を両手でやんわり包み込むと、ちゅ、ちゅと音を立てて額や頬に何度も口づけてから再度唇をむ。



「っふ、」

「ん……」



 ついばむようなキスを何度か繰り返した後、頬から移動した裕一郎の片手が恋幸の右手首を優しく捕まえて、ゆっくりと自身の胸元へ誘導した。


 恋幸の指先が彼のネクタイに触れると、裕一郎は少し顔を離して眼鏡の奥にある瞳を細める。



「これ、外してください」

「……は、い」



 緊張と羞恥心の狭間で、心臓がうるさくて仕方がない。かすかに震える手の甲を彼の指先がついと撫でて、生地きじこすれる小さな音が鼓膜こまくを震わせた。

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