第59編「見返りを求めちゃいけないって、知ってるよ」

「あっ!!」



 清水しみずと別れた15分後。恋幸は待ち合わせ場所の駅前に到着するなり、“目当ての人物”を見つけて右腕を大きく振る。

 その姿はさながら、大好きな飼い主が帰宅した時の犬のようだ。


 少し離れた場所で腕を組んだまま壁にもたれ掛かっていた『その人』は、恋幸の姿に気がつくと姿勢を正して控えめに手を振り返し、自身の肩に掛かる長い髪を片手で払い退ける。



せんちゃーん!! お待たせ!!」

「ううん、待ってないよ。私がひなこに会いたくて早く来すぎちゃっただけ」



 恋幸が小走りですぐそばまで駆け寄ると、千は綺麗にグロスの塗られた唇でえがいて笑いをこぼした。


 今日は3ヶ月に1回のオフ会――簡潔に言えば、こうして事前に待ち合わせをして太陽が沈むまで一緒に遊ぶ日である。

 どこへ行くか、何をするかは完全ノープラン。気が向くままに食べ歩いたり、ウィンドウショッピングのみで解散する場合もある。



「えへへ。私も千ちゃんに会いたかった!」

「よしよし、ひなこは可愛いねー」



 にこにこと素直にはしゃぐ様に千も口元をゆるませて恋幸の頭を撫でていたが、すぐにその顔から温度が消え去った。

 一拍分の間を置いた後、眉根を寄せて瞳の奥に怒りの色をともした千を見て、恋幸の肩がびくりと跳ねる。



「せ、千ちゃん? どうかし、」

「ひなこ。誰に何されたの?」

「えっ」



 冷たく抑揚よくようの無い声で落とされた問い掛けに対して恋幸は問い掛けを返しかけたが、寸前で清水に言われた言葉が頭をよぎり唇を引き結んだ。


 ――……いかにも『泣き腫らしました』ってサマのひどい顔だけど。


 彼女が怒りの矛先ほこさきを向けている対象はの要因となった人物なのだとすぐに理解して、首をぶんぶんと左右に振る。



「ちっ、違うよ! 違うよ千ちゃん!」

「何が?」

「これは、あのっ……確かに泣いたんだけど、嬉し泣きだから! 何かされたとかじゃないから大丈夫!」



 頭のすみに浮かぶのは裕一郎の顔だ。

 具体的な内容は伏せて恋幸が必死で擁護ようごの言葉を並べると、千は意外にもあっさりとその言い訳を受け入れた。



「ひなこは嘘ついてたら顔に全部出てわかりやすいもん。今のは嘘ついてない顔だったから、大丈夫ならそれで良し」

(顔に全部出るって、裕一郎様にも同じこと言われたなぁ……そんなにわかりやすい?)

「行こ。今日は何する?」



 あっけらかんとした千とは対照的に、恋幸はいまいち納得しきれない気持ちを抱えたままスマートフォンのマップ機能を起動させた。





「ありがとう千ちゃん!」

「どういたしまして。それ、早めの誕プレね」

「え!? 嬉しい!! ありがとう!!」

「いや、冗談冗談。ちゃんとした物贈るから」



 ショッピングモール内で何店か服屋を梯子はしごした後に2人がやって来たのは、たい焼きが美味しいと評判の菓子屋だった。


 駅前の通り沿いに最近オープンしたばかりのその店は、常に行列ができており事前予約は受け付けていない。

 インターネット上での販売もしておらず、たい焼きが外好物の恋幸は駅前で配布はいふされていたチラシを見た時からその店のたい焼きが食べたくて仕方がなかったのだ。

 しかしなかなか1人で行く勇気がない……という話を聞かされて、「え? 私と行けばよくない?」と申し出たのが千だった。


 特別人気商品なせいもあってか個数制限がもうけられていたのだが、千は自分で購入したたい焼きを全てゆずり、恋幸が袋を手首にぶら下げたまま嬉しそうにはしゃぐ姿を見てまるで自分の事のように顔をほころばせる。



「ほんと、ひなこは素直で可愛いなぁ」



 しみじみと呟かれた言葉に謙虚けんきょな反論を返そうとしたタイミングで、空に打ち上がるような突風がびゅうと吹く。

 慌ててスカートのはしを押さえた恋幸は、一つ失念していたのだ。



「あはは、すごい風だったね。春一番ってかん……」



 ――……昨日、裕一郎に刻まれた所有印を。



「……っ、」



 恋幸が咄嗟とっさに顔をそむけた拍子に長い黒髪は風に乗って空を舞い、今の今まで隠されていたうなじがあらわになる。

 瞬間、千の瞳に飛び込んだのは発赤はっせきした肌で、後頭部を鈍器どんきで殴られたかのような強い衝撃が彼女を襲った。

 直後に考えたくもない“もしかして”が頭の中をいずり始めて、言い表しがたい不快感から内臓を全て吐き出してしまいたくなる。



「はー、びっくりした!」

「……」

「千ちゃん?」



 言葉を言い切らないうちに黙り込んでしまった千を映すのは、いつもと変わらないんだ雀色すずめいろのビー玉だ。



「どうしたの? 大丈夫?」



 好き、大好き。私が一番ひなこを知ってるし、ずっと見てきたよ。ずっとずっと、一番に応援してきたよ。私は、ひなこにとっての『一番』にしてもらえないの?


 いま口を開けば、大切ないやしい欲望をぶつけてしまいそうになる。

 少しでも気を抜けば無様ぶざまに泣きわめくであろう未来の自分が安易よういに想像できて、目の前で不安げに眉尻を下げた恋幸に気の利いたセリフをかけることすら叶わない。



「……っ、ひなこ……」

「小日向さん?」



 それでも必死に震える唇を持ち上げた時、深いきりを晴らすような低音が鼓膜こまくを震わせた。

 刹那せつな――つい数秒前までかげのあった恋幸の顔が晴れたことにより、千は嫌でも自分の背後に存在するが恋幸にとっての何なのか理解させられてしまう。



「倉本さん!」

「倉本……」



 どこか聞き覚えのある名前に千がゆっくり振り返ると、そこに立っていたのはスリーピーススーツを着こなして短い黒髪を風に揺らす長身の成人男性だった。


 彼女の目線では初対面。

 だが憎悪ぞうおよりも先に千の脳に浮かんだのは『どこかで見たことがあるような気がする』という曖昧な感覚で、せめぎ合う様々な感情から思わず顔をしかめる。



「ちーっす、小日向さん! お久しぶり? 多分、久しぶりっすね!」

「広瀬さん、こんにちは! お久しぶりです!」

「……縁人よりひと

「はーい、はしゃいですんませ……、!?」



 千を一目見た瞬間、縁人の心臓を一本の矢が射抜いていったのはまた別の話だ。

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