第58編「目、少し冷やした方が良いんじゃない?」
恋幸は現在、2つの
まず1つ目は、気が付けば裕一郎の部屋および裕一郎の布団で私服のまま寝ており、スマートフォンの画面に表示された時刻は午前8時12分だった事。
(ま、まさか私……)
――……そう、そのまさかである。
あの後、泣き疲れた恋幸は彼の腕の中で強い安心感に包まれたせいでそのまますやすやと眠ってしまったのだが、裕一郎はあえて彼女を起こさずに布団を
サーッと血の気が引く感覚をおぼえながら恋幸が上半身を起こした時、ふと枕のすぐ隣に置かれている『何か』が視界の
「あ、」
そこに置かれていたのは、メモ用紙が貼り付けられた1本のペットボトル。中身は恋幸の好きなフォンタのメロンソーダ味で、小さな紙には丁寧な文字で『おはようございます、20時半には帰ります。風呂は自由に使ってください』と書かれていた。
「裕一郎様、優しい……好き……」
しかし、心ときめかせている場合では無かった。
「やばい……!!」
恋幸が焦っている2つ目の理由は、9時半に予定している編集の清水との打ち合わせだった。
集合場所までは、現在地から早歩きでおよそ15分。身支度に要するのが10分だとして、朝御飯を食べている暇などあるわけがない。
「やばいやばい!!」
大きな独り言を漏らしながら布団を
一旦自室に戻り荒々しく荷物を
◇
「小日向さんさ、何か悩みでもある?」
「へ?」
プロットのまとめられた原稿用紙を茶封筒へ詰めながら前置きなく
(悩み?)
今日は新連載用のプロットおよび構成案の提出と、現在連載中の『未来まで愛して、旦那様!』についての軽い打ち合わせが目的だったので、編集本部ではなく恋幸行きつけのモチダ
そして本来の目的を果たした後は13時まで清水と2人で食事を楽しむ流れとなったのだが、突然悩みの有無を問われて恋幸はシロイノワールを
すると、そんな彼女の様子を見るなり清水は眉根を寄せて「はあ」と深く溜息を吐いた。
「今日、鏡見てないの? いかにも『泣き腫らしました』ってサマの
「んぐっ!!」
直球を越えてもはや弓矢のように
清水が恋幸に対してあまり言葉を選ばないのは、今に始まった話ではない。
彼は悪意を持ってそうしているわけではなく、時に勘が
「……もしかして、
すっかり
「ごふっ!!」
「えっ」
瞬間、恋幸はたった今飲み込もうとしたばかりのメロンソーダが喉で詰まりそうになり、慌ててストローから顔を離すと急いでお
これ以上無いほどあからさまに
「本当に恋人関係? まさかDVとか、」
「無い無い! 無いです!! むしろこれ以上ないくらい大切にされてます!!」
「そっか、恋人できたんだ。おめでとう」
「あっ、え、えへ……ありがとうございます」
顔を赤くして縮こまった恋幸は両手でお冷グラスを持ち上げると、しおらしくちびちびと中身を飲み込んで少しでも体温を下げようと
一方で、清水は
「あ、プライベートにまで口挟んでごめんね」
「いえ! 大丈夫です、気にしないでください!」
「……僕はね、小日向さん。これでも、小日向さんのことは我が子のように思ってるんだよ。デビュー当時のコンテストに
「し、清水さん……」
デビューしてから今まで彼に
常に
そんな彼が恋幸を我が子のように思っているなど、当の本人は当然ながら一度も考えたことがない。突然の告白に驚くと同時に、恋幸は心の奥がじーんと温かくなった。
「小日向さんが幸せな恋愛できてるなら、僕から何か言うつもりは無いです。良い経験は、良い作品を生み出すと思ってるからね。でも、不幸な恋愛してるなら僕は『そんな男やめておけ』って口出ししなきゃいけなくなる。……小日向さんは、今ちゃんと幸せ?」
眼鏡の奥にある黒い
普段であれば目を逸らして
「はい、すごくすごく幸せです」
「そう、それなら良かった。なら、どんどん恋愛経験値を貯めて作品に活かしてください。今後の『日向ぼっ子先生』を楽しみにしてます。……あ。相手に甘えて受け身で待ち続けるスタンスは良くないから気をつけてね」
「えっ!? は、はい! わかりました……?」
――……その後。店頭販売されている珈琲豆を経費で2袋購入した“日向ぼっ子先生”は、清水の冷たい目線を浴びつつ次の待ち合わせ場所へ向かって足を進めた。
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