第53編「こんな笑い方させちゃうんだから、やっぱりさすがっすよ」

 恋幸を車で送り届けてから再び社長室へ戻ってきた裕一郎は、スリーピーススーツのジャケットを脱いで雑にポールハンガーへ掛けると、苛立ったように片手で後頭部を搔いた。

 そして、つい数十分前まで彼女と甘い時間を過ごしていたソファに深く腰掛け「はあ」と大きな息を吐く。


 ガション。彼の斜め後方でジャケットのポケットに仕舞っていたキーケースの落ちる音がして、2秒ほど間を置きそちらを一瞥いちべつする。



「……」



 ああ拾わなければと思うのは心の中だけで、彼の行動には現れなかった。


 ここは自身専用の部屋で、今日は来客の予定も無い。自らすすんで鍵を盗むような人間が社内に居るとは思えないが、念の為に誰かがここを訪れたらその時に拾えばいいだろう。

 裕一郎はそう考えて、キーケースからゆっくりと目をそむける。



「……はあ」



 薄い唇から無意識に漏れるため息。

 恋幸とは永遠の別れではなく仕事を終えて帰宅すれば会えるというのに、まるでパズルのピースが一つ欠けてしまったかのような漠然とした喪失感が裕一郎から気力を奪っていた。


 ともすると、心の底に溜まっているこのモヤモヤは『虚無感』とも呼べるかもしれない。



「15日……」



 裕一郎は恋幸に教わった誕生日をぽつりと溢しつつ、ベストの胸ポケットからプライベート用のスマートフォンを取り出し、慣れた手つきでTbutterつぶったーアプリを起動させた。


 そして“ある人物”のアカウント画面を表示させ、プロフィール文章――……インターネット用語では『dio』と呼ばれている部分に目を走らせる。



「やっぱりこれは……設定、してないよな」



 Tbutterでは生年月日の自由入力欄があり、アカウント所持者がそこへ記載・更に『公開』設定にしていれば第三者がいつでもプロフィール画面から誕生日の確認をすることが可能だ。

 そしてTbutter利用者の大多数はこの機能を有効的に活用している。


 しかし、日向ぼっ子――もとい、恋幸のアカウント画面にはが設定されておらず、彼女と近しい関係でなければ何月何日生まれなのか知る術は無いと言っても過言ではなかった。


 裕一郎はそんな『日向ぼっ子』のアカウント画面を自身の太ももに片肘をついて眺めつつ、「ふ」と息を吐いて口元にゆるやかな弧をえがく。



「……まあ、あの子らしいか」

「何がっすか〜?」



 何の合図もなく背後から降ってきた声に、さすがの裕一郎も大きく肩を跳ねさせて驚きをあらわにした。


 勢いよく振り返った先には縁人の姿があり、彼は呆れた様子で片眉を上げるとソファの背もたれに頬杖をついて裕一郎を見下ろす。



縁人よりひと……ノックを、」

「しましたし、声だって何回もかけました〜。スマホ片手に一人きりの世界にひたってたのは社長っすよ〜」



 わざとらしく語尾を伸ばす縁人に対して、裕一郎はバツが悪そうに目線を逸らして手に持っていたスマートフォンを胸ポケットに仕舞いつつ、「失礼しました」と短く呟いた。


 縁人はそんな彼にA4サイズの茶封筒とキーケースを手渡すと、姿勢を正して一度肩をすくめる。



「ほんと、恋は人を変えちゃうんっすね。あっ、それは今週中にチェックお願いしまーす」

「わかりました」

「じゃあ、俺はこれで!」



 要件が済むなり片手を振りながら社長室を出て行こうとする縁人。

 裕一郎はその背中を呼び止め、今しがた受け取ったばかりの茶封筒とキーケースをサイドテーブルに置いて彼に向き直った。



「なんすか?」

「縁人は、恋人の誕生日にどんな物をプレゼントしましたか?」

「あー、そっすねー。恋人の誕生日は……ええっ!?」



 ギャグ漫画よろしく、オーバーリアクションで後退した縁人の背中はドンと音を立てて扉にぶつかり、壁に掛けてあった絵画かいががわずかに揺れる。


 彼は一瞬焦ったようにそちらへ目をやったが、落下する気配がない事を確認してから腕を組み、凛々しい顔で胸を張った。



「社長。自慢じゃないっすけど、俺……彼女の誕生日が来る前にいつも振られるんで祝えた試しがないんすよね!!」

「失礼、聞く相手を間違えました。下がってくれて構いませんよ」

「嫌っすね!! 社長と恋バナするまで俺、仕事しません!!」



 その後、どれだけ冷たくあしらわれても一向に諦める気配のない縁人に押し負けて、裕一郎は親指と中指で眼鏡のふちを押し上げながら躊躇ためらいがちに口を開く。



「……女性は誕生日に何を貰えば『嬉しい』と思うのか、私にはよく分からなくて」

「一応聞いときますけど、小日向さんの話ですよね?」

「ええ、まあ」

「それじゃあ簡単っすよ!」



 縁人は小走りでソファへ近づき、誰の許可も無くどすりと裕一郎の向かい側に腰掛けると、自信満々に親指を立てて白い歯を覗かせた。



「何を貰っても嬉しい、これが正解! 小日向さんならまず間違いないっすね! 社長にならポケットティッシュ貰っても喜ぶんじゃないすか?」

「……」



 本来であれば「そんなわけがないでしょう」と反論するべき場面だが、ポケットティッシュを両手で大事そうに抱えて満面の笑みを浮かべる恋幸の姿が容易よういに想像できてしまった裕一郎は、返す言葉を失い静かに唇を引き結ぶ。



「っていうのはまあ極端な例えっすけど、俺だったら大好きな彼女になら肩叩き券でも手作りソングでも、もう何でも『誕生日を祝おうとしてくれる気持ち』があるだけで感激っすね」

「そういうものでしょうか」

「だって逆を考えてみてくださいよ。社長の誕生日を小日向さんが祝ってくれたら、どんな“物”よりもまず“気持ち”を嬉しく思うでしょ?」

「……そうですね」



 口頭では落ち着いた様子で肯定しつつも、裕一郎の青い瞳には尚もどこか不安げな色がにじんでいた。


 ゆっくりと移動した彼の視線は窓の外をとらえ、眼鏡のレンズが太陽光をほのかに反射して縁人は目を細める。



「絶対喜びますから大丈夫っすよ。小日向さんが好きなのは『社長』じゃなくて『倉本さん』ですし」

「……縁人、」

「はい」

「ありがとうございます」



 ひどくおだやかに微笑む裕一郎の姿を見て、縁人は驚くと同時に心の中で恋幸に感謝の意を述べていた。



「いーえ、こちらこそ」

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