第54編「わかりやすい人で可愛いですね」

 車のエンジン音で裕一郎が帰宅した事に気づいた恋幸は、俊敏しゅんびんな動きで床の間を出て玄関へ向かい、落ち着きなく右往左往うおうさおうしながら彼の到着を待つ。


 たった数分、されど数分。

 果てしなく長いように感じる時間が過ぎた頃、ようやく曇りガラスの向こう側に見慣れたシルエットが現れると、恋幸は背筋をぴんと伸ばして瞳を輝かせた。


 少しの間を置いてから、カチャンと音を立てつつ解錠された扉がスライドされ、恋幸の瞳に愛しい人の姿が映る。



「おかえりなさい! お仕事お疲れ様です!」

「ありがとうございます。ただいま」



 足元に目線を落としたままいつにも増して抑揚よくようのない声で返事をした裕一郎は、玄関の鍵を閉めてからビジネスシューズを脱いでスリッパに履き替え、玄関先に置かれたスリッパラックの隣にビジネスバッグをなかば放り投げるようにして置いた。


 そのかん、彼と恋幸の目線が交わった瞬間は一秒も存在しておらず、言い知れぬ大きな不安に襲われながらも恋幸はエプロンの裾を両手で握りしめて無理矢理に笑顔を浮かべて見せる。



「え、えっと、ご飯にしますか? お風呂にしますか? えへへ、な」



 なんちゃって! と、この空気を誤魔化そうとした瞬間――……無言で歩み寄った裕一郎のたくましい両腕が彼女の体を閉じ込めた。



「ん!?」

「はぁ、やっと会えた……癒される……」

(え!?)



 裕一郎は恋幸を抱き締めたまま大きなため息と共に呟きを落とし、彼女の長い黒髪を指でく。



(な、なに!? はっ……!? そっか! 裕一郎様、仕事終わった後だから甘やかしモードなんだ!?)



 そんなモードは最初から搭載されていない・このような行動をとるのは貴女に対してのみだと以前遠回しに告げられたはずだが、突然の出来事にフリーズした恋幸の頭と体では正常に冷静な分析をするなど困難極まりないことだった。


 銅像のように固まったまま微動だにしない彼女を見て裕一郎は自分が突然抱きついてしまったせいだとすぐに理解し、恋幸にバレないよう小さく笑ってから体を離すと間近にある赤い顔を見下ろしながら首をかたむける。



「……貴女はすぐに顔が赤くなりますね」

「す、すみません」

「うん? 責めていませんよ。可愛いですね、という意味です」

(またそうやって!!)



 強気な返しができたのは心の中のみで、実際は金魚のようにぱくぱくと口の開閉を繰り返しながら黒縁眼鏡の奥にある青い瞳を見つめ返すことしか叶わなかった。


 その反応に裕一郎は口の端をわずかに引き、長い指の背で恋幸の頬を撫でた後、横髪をかき分けて優しく彼女の耳にかける。



「――っ!!」



 赤く染まった耳たぶに裕一郎の冷たい指先が触れると、恋幸の薄い肩は大げさなほどにびくりと跳ねた。


 もっと心臓を落ち着かせて彼との会話を楽しみたいというのに、目の前にいる愛しい人がを許してくれない。

 尚も彼の表情は普段通り大きな変化を見せておらず、「愛してる」やそれに似た直接的な言葉で愛情を伝えてくる頻度こそ低いため一見すると冷めているように思えるが、恋幸に触れる手と体温からはいつも十分すぎるほどの情愛がにじみ出ており、彼女を映す瞳にはいつくしむ心が透けて見えるような錯覚すらおぼえさせた。


 だからこそ、いつまで経っても恋幸は彼の接触を適当に受け流すことが出来ずにこうしていちいち反応をしめしてしまう。



「……く、らもと、さん」

「はい」

「こっ、ここだと寒いので、とこへ行きましょう?」



 4月初旬とはいえ、夕方を過ぎればまだまだ肌寒さを感じる時期だ。

 彼女が精一杯理性を働かせて搾り出した言葉を聞き、裕一郎は目を細めて「ふ」と小さく息を吐く。



「それは……床の間に行けば、もっと触れても良いという意味ですか?」

「!?」

「冗談です。行きましょうか」



 貴方になら、どれだけ触れられても構わないのに。

 伝える機会を逃してしまったそんな本心を飲み込んで、床の間へ向かう裕一郎の広い背中に恋幸は黙って視線を刺し続けた。





 先ほどの口ぶりからして、恋幸はてっきり彼は床の間へ向かっているものだとばかり思って後をついて来ていたのだが、裕一郎の足が向いた先は彼の自室だった。


 無理やり部屋へ連れ込まれたり「中に入れ」と無言で威圧されたわけでもないというのに(そもそも裕一郎が恋幸にそんな事をする可能性は1ミリも存在しないという話はさておき)恋幸は気がつくと彼の部屋の中に居て、うながされるまま座布団に腰を下ろしてしまう。



(あれ?)

「床の間で待っていてくださって構わなかったのですが」

「え!?」



 慌てて彼を見上げれば、裕一郎は優雅な動きでビジネスバッグを部屋の隅に置き、スリーピーススーツのジャケットを脱ぎつつ首を傾げた。



「なにか?」

「えっ、えっと、倉本さんのお部屋でお話しするのかと、思って……」

「ああ、そういう事ですか。私はてっきり、着替えが見たくてついて来たのかと」



 見たいか見たくないかの2択で答えるのであれば当然後者である。

 しかしさすがの恋幸も本人を前にそんな本音を口から漏らせるわけもなく、せっかく元の肌色に戻っていた顔に再び朱色を浮かべて目線を手元へ落とし、きゅっと唇を引き結んだ。



「……冗談だったのですが、」



 一旦そこで言葉を切った裕一郎は、ゆっくりとした足取りで恋幸へ歩み寄りすぐ隣に腰を下ろす。



「そんな反応をされると、少し意地悪をしたくなりますね」

「……っ、」



 肩が触れそうなほど近い距離で落とされた低い囁きが、恋幸の脳をじわじわとしびれさせていった。

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