第47編「忘れ物をして良かったです」
(えっ、と……?)
――……代表取締役。
その言葉の意味を、恋幸は頭の中で必死に考える。
いや……『普通』の大人であれば考えるまでもなく息継ぎを一つ終える頃には理解できていて
「……小日向さん?」
裕一郎の社員証に目線を向けた状態で口をぽかんと開けたままフリーズする恋幸を見て、彼は上半身を少し
(はゃ……)
しかしそれは逆効果でしかなかった。
裕一郎の整った顔が何の合図もなく急接近したことにより、彼女は一時的にキャパオーバーを起こしてスペースキャットもとい『スペースコユキ』と化してしまい、宇宙のどこかと電波交信を始めてしまう。
そんな彼女の様子に裕一郎は小さく首を傾げた後、姿勢を正してから恋幸の頬を指の背でついと撫でた。
「!?」
一応、今二人が立っている“ここ”は『公共の場』に当たり、さらには彼の職場であるにも関わらず、普段と変わりない愛情表現を受けて恋幸の肩は大袈裟なほどにびくりと跳ねる。
けれど、見上げた先にある裕一郎の顔はいつも通り変化を見せることは無く、恋幸は自分だけが強く意識してしまっているように感じて恥ずかしさから唇をきゅっと引き結んだ。
「……小日向さん」
「は、はいっ」
「今日は、ここまでどうやって来たんですか?」
「えっと、ほ、星川さんが……」
彼と、きちんと目を合わせていたい。
彼に、今の顔を見られたくない。
そんな2つの感情に揺れ動かされながらも、恋幸は裕一郎の青い瞳を真っ直ぐに見据えたまま、
しどろもどろな彼女の返答を聞いて、裕一郎は「ああ」と納得するような声を出し胸ポケットから何かを取り出した。
「少し待っていてください」
「は、はい」
彼が手に持っている“それ”は二つ折りの
裕一郎は慣れた手つきで黒い二つ折り携帯を開くと、親指で何度かボタンを押して自身の耳に当て、数秒の間を置いてから口を開いた。
「もしもし、お疲れ様です。……はい、はい、大丈夫です。……ええ。今、目の前にいます。……はい。彼女は後で私が送るので、先に帰って頂いて大丈夫ですよ。……はい、ありがとうございます。運転、気をつけてくださいね」
「……?」
誰と話しているのだろうか? と首を傾げた恋幸に対し、裕一郎は二つ折り携帯を胸ポケットにしまいながら「
「ちょうど手が空いたところですし……可愛らしい誰かさんは“私のための『時間』ならたくさんある”ようなので、お言葉に甘えて今からお借りしようかと思いまして」
「――っ!?」
つい先日自身が放った言葉をそっくりそのまま持ち出され、覚えていてくれて嬉しい気持ちと大きな羞恥心がせめぎ合い恋幸は言葉に詰まってしまった。
対して、彼はその反応を楽しむかのように目を細めて喉の奥で小さく笑うと、彼女の隣に立ち細い腰に片手を回す。
「帰るなら今の内ですよ」
「……!? か、帰りません!! 渡す物がありますし、も、もっと……一緒に、いたいです……」
恋幸の目線はまっすぐ裕一郎を捉えているが、紡ぎ落とされる言葉は終わりにかけて小さくなり、耳を澄ませていなければ周囲の雑音にかき消されてしまいそうだった。
一音残らず拾い上げることができたのは、ひとえに彼女へ向ける裕一郎の想いの深さの表れとも言えるだろう。
「……同じ気持ちで安心しました。では、行きましょうか」
その証拠に、彼の声音はひどく優しいトーンで恋幸の耳をくすぐり、つい先ほどまで色の見えなかった表情にほんの少しだけ暖かさが増したように感じた。
(忘れ物、ちゃんと渡さなきゃ……!)
漂う空気の甘さに惑わされここへ来た本来の目的を忘れかけていた恋幸だったが、寸でのところでしっかりと脳内に
「どうぞ」
「けっ」
「……? け?」
「な、なんでもないです! ありがとうございます!」
エレベーターが到着するなりスマートな動きで扉を押さえて中へ誘導する裕一郎を見て、恋幸は反射的に口から出かけたプロポーズの言葉をぐっと飲み込み、平静を装いつつエレベーターに乗り込んだ。
(……どこへ行くんだろう? 裕一郎様と一緒ならどこでも嬉しいけど……)
――……彼女達の立ち去ったエントランスで、
「……ねえ。裕一郎と一緒にいたさっきの女、誰?」
「も、申し訳ありません。プライベートな質問にはお答えできません」
「ふーん、あっそう……まあいいわよ、自分で調べるから」
そんな会話が交わされていた事は、また別のお話である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます