第46編「……しまった。多分、テーブルの上だな……」

 今の所とはじめに注釈ちゅうしゃくが付くものの、とても健全な意味で恋幸が裕一郎と床を共にするのも3回目ともなればそろそろ慣れるはずもなく。

 相変わらず緊張で体を硬くしていた彼女だったが、裕一郎の体から香る石鹸せっけんの匂いを嗅ぎ、その大きな手で頭を撫でられているうちにあっさりと眠りに落ちていた。


 そんな恋幸が水族館のアザラシ展示用プールほどの大きさがあるグラスいっぱいに注がれたメロンソーダを飲み干し、キングサイズベッド並みの巨大なたい焼きを完食した夢から覚めると、当たり前だが「仕事がある」と言っていた裕一郎の姿はすでに見当たらない。


 ここまでは『いつも通り』の朝だった。



(行ってらっしゃい、って言いたかった……)



 裕一郎が恋幸を起こさないよう布団から抜け出すのは、彼なりの思いやりや優しさの表れであると当然理解できている。


 しかしベタな行動に謎の憧れを持つ彼女にとって、朝、彼が家を出る前に玄関先で「行ってらっしゃい、あなた。今日も1日頑張ってね」と語尾にハートマークを付けながら手作り弁当を手渡して笑顔で手を振るという一連の流れを体験してみたい、という欲望を打ち消すのはなかなか難儀なんぎな事だった。


 ではあらかじめアラームをかけておけば良いではないかと恋幸も勿論考えたのだが、直後に「裕一郎様の起きる予定では無い時間帯に鳴ってしまい睡眠をさまたげてしまったら?」という不安が襲いかかり、結果『裕一郎様の起きた気配で私も起きる』の結論に至ったわけだが、前述ぜんじゅつにある裕一郎の気遣いにより今のところ成功した試しはない。



(うう〜っ! 明日こそは……!)



 そう意気込んだ彼女が敷布団の片付けや着替えを済ませ、洗面所で身支度を整えてから床の間へ向かい、ふすまをスライドさせた時――……『いつも』とは違う“それ”を目にした。



「……?」



 座卓の上に置かれた物を恋幸が正しく認識するまで数秒の空白ができる。

 そして、脳みそがを理解した瞬間、ほぼ反射的に「あっ!?」と声を上げていた。



「お、おはようございます小日向様。どうされました?」



 ワンテンポ遅れて聞こえてきたその声に彼女が振り返ると、そこにあったのは襖を開けたまま目を丸める星川の姿。



「あっ! 星川さんおはようございます! あの、これ……っ!!」



 いったん体の向きを変え、まるで割れ物でも扱うかのように恋幸がを両のてのひらにのせてから星川の方を再び振り返れば、彼女は「あら」と言って後ろ手に襖を閉めた。



「裕一郎様ったら、忘れるなんて珍しい……」



 星川が視線を向ける先――恋幸が手に持っているのは、裕一郎のスマートフォンである。

 日頃、彼は恋幸と同じ空間にいる間、彼女の目の前でスマートフォンを触る事がほとんど無かったため、見覚えのないを認識するのに時間がかかってしまったのだ。



「ど、どうしましょう?!」



 クリアケースに包まれたブラックのiFoneと星川の顔を交互に見やり、恋幸は眉を八の字にして唇を引き結ぶ。


 仕事中にスマートフォンを必要とする業種であるかどうかまでは把握できていないが、一般的な社会人を基準として考えれば、丸一日手元に無い状態というのは困る場面が多くなるのではないだろうか? いやもしかすると、外で失くしたのかもしれないと不安になっているのではないか?

 そう案じる心を恋幸の表情から感じ取った星川は、腕を組んで何か考えるような素振りを見せた。



「そうですねぇ……あっ!」

「!?」





 にこにことおだやかな笑みを浮かべる星川について行き、言われるがまま彼女の車に乗り込んでから約15分後。

 辿り着いたのは、高層ビルの前に設置された駐車場だった。


 まさに漫画やドラマで見たそのままの建物は威風堂々いふうどうどうと天高くそびえ立ち、綺麗にみがかれた窓ガラスが陽光を弾いてきらめくさまはとてもえている。


 入ってくる時にはよく見ていなかったが、立派な門の前には『なんとかエニックス』という社名のようなものが刻まれた看板があった気もした。

 門の前にいた警備員は、呼び止めるどころか星川の顔を見て笑顔で会釈えしゃくしていたような気もする。



「あ、あの……ここは……?」

「裕一郎様のお勤め先です」



 目的が見えず不安に駆られていたが、「ふふ」と笑う星川を見て恋幸はようやく「ああ、なるほど!」と胸を撫で下ろした。



「中に入ったら真正面に受付がありますので、そこで『倉本に忘れ物を届けに来ました』と伝えてください」

「え? 星川さんは、」

「ここで待っています。だって、私が行くよりも小日向様が行かれた方が絶対に喜ばれますから!」



 そう言われてしまったら気分が良くなるのは当然である。


 一人で車を降りた恋幸はガラス張りの自動ドアを潜り、星川に言われた通り受付へ向かうと、彼女に聞いたままのセリフを口にした。



「倉本ですね、少々お待ちください」



 受付にいた女性は恋幸から要件を聞くと、手元で何かを操作して耳に付けていたインターカムに片手を添える。



「社長、お客様が受付にお見えです」

(社長……?)



 そういえば以前、縁人よりひともそう呼んでいた気がするが……空耳もしくは別人の要件を聞いてしまっただけだろう、と恋幸は自身を納得させ一人で深く頷いた。


 間も無くして、広いエントランスの奥にいくつか設置されているエレベーターの扉が一つ開き、裕一郎が姿を見せる。



(裕一郎様……!!)

「小日向さん?」



 小走りで彼女に駆け寄った裕一郎は、少し驚いたように眼鏡の奥にある青い瞳を丸め、胸元で揺れる社員証を片手で押さえた。



「きゅ、急に来て、あっ、お仕事中にすみません……!!」

「いえ、それは貴女なので構いませんが……どうしたんですか?」



 さらりと落とされた甘い言葉に、恋幸は胸がきゅんと音を立てたような錯覚をおぼえる。


 しかしそれも数秒で、直後に目に入った社員証の文字が一気に彼女を現実へ引きずり戻した。



「――っ!? 代表取締役……!?」

「……? はい、そうですが」



 周りの迷惑を考えて小声でそう漏らした恋幸に対し、裕一郎は事も無げにいつもの無表情で肯定する。



(代表取締役……代表、取締役……? 裕一郎様が、代表取締……)



 ――……恋幸の中で『代表取締役』の漢字5文字がゲシュタルト崩壊を起こすまで、残り8秒。

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