第34編「若いのに頑張っているな、と思っていたんです」

 帰宅後――2人はまず洗面所で手を洗ってから床の間へ向かい、エアコンの電源を入れて買ってきたパスタを電子レンジで温める。

 その間とくべつ会話を交わすことは無く、座卓を囲み「いただきます」と声を合わせて言った後もただ静寂が流れるのみだった。


 恋幸にとって、裕一郎との間に生まれる静けさは決して苦痛ではない。むしろ心地良さすら覚える。

 しかし、つい数十分前に出会った縁人の口から出た『とあるワード』や裕一郎の放った“あの”セリフについて気になっていることも確かで、いつ話題に出そうかとタイミングを伺っている間にお互い晩御飯を食べ終わってしまった。



「……そういえば、」



 二人で座卓の上を片付けてから温かい緑茶を飲んでいた時、向かい側に座る裕一郎がおもむろに口を開く。



「先ほどはすみませんでした」

「?」



 謝罪の意味をすぐに理解することができず、恋幸は首を傾げて彼の顔をまっすぐ見据えたまま頭を働かせた。

 記憶を辿った結果、唯一思い当たったのは縁人から威嚇いかくされた事で、彼女が「驚きましたけど、全然気にしていないので謝らないでください!」と笑顔を向ければ裕一郎は緩やかにかぶりを振る。



「縁人の件ではなく……コンビニで、代金を払わせてしまったことについてです」

「……?」



 彼の返答を聞いて、恋幸は更にわけが分からなくなってしまった。



「代金?」



 それがどうかしましたかと彼女が問うより先に、胸ポケットから財布を取り出す裕一郎。

 恋幸は慌ててその手を掴んで「倉本様が払う必要はないですよ!」と引き止めるが、彼はなぜか不思議そうに目を丸めて薄い唇を持ち上げた。



「そういう訳にはいかないでしょう。貴女が『日向ぼっ子』であるかどうかに関わらず、未成年に夕飯代を出させるのは気が引けます」

「え?」

「うん?」



 今、空耳や聞き間違いでなければ裕一郎の口からワードが落ちたような。



「未成年……?」



 気のせいである可能性を祈りながら彼女が反芻はんすうすれば、眼鏡の奥にある瞳が何度かまばたきを繰り返す。



「あ、あのー……倉本様って、私のこと何歳だと思っているんでしょうか……?」

「19歳、ですが」



 ショックのあまり気を失ってしまいそうになったと言えば少しオーバーかもしれないが、恋幸の受けた衝撃はそれほどまでに強烈なものだった。


 たしかに、身長こそ155センチと決して高い方ではない。学生時代、近所のおばあちゃんに「童顔だね」と言われた事もある。

 しかし、裕一郎と初めて出会ってから今の今まで未成年に思われていたなどと誰が予想できただろうか?



「ち、違いますっ!! 私は今24歳で、今年で25歳になります……!!」

「……はい?」

「ほら!! 見てください!!」



 恋幸が財布の中から急いで保険証を取り出し生年月日の欄を見せつけると、彼は少し前屈みの姿勢になってそれを確認した後、背筋を伸ばし片手で口元をおおい隠しつつゆっくりと目を逸らした。



「……すみません、失礼しました」

「いえ! すごく驚きましたけど、倉本様は何も悪くないです!!」



 ずっと誤解されていたのだと改めて理解した途端、彼女の頬は自然に緩んでしまう。



「えへへ。でも、良かったです」

「何がですか?」

「この前……倉本様が『まだ手は出さない』って言ったの。私には魅力がないのかなと不安になっていたんですけど、未成年だと思っていたからなんだなって考えたら少し安心しました」



 ストレートすぎる恋幸の言葉に対して裕一郎は何も返さず、訪れた静寂が少しのあいだ二人を包み込んだ。

 彼女はそこでようやく自身の発言が持つ意味に気づき何とかしてこの空気を誤魔化すためのセリフを探すが、こんな時に限って前頭葉ぜんとうようがまともに機能しない。



「……貴女が、誰にでもそんなことを言う人間ではないと理解しています。でも、」



 いったん唇を引き結んだ裕一郎は、目線を恋幸に移動させてからおもむろに片手を伸ばして赤く染まった彼女の頬にそっと触れた。



「貴女は……私がそこまで理性の強い人間ではない、と理解できていますか?」

「それ、は、」

「……布団を敷いてきます。お風呂、先にどうぞ」



 裕一郎は恋幸の唇を親指でなぞり、眼鏡の奥にある瞳を意味ありげに細めて手を離す。

 そしてまだ緑茶の残っている自身の湯呑を流し台に運び、一度も彼女の方を振り返ることなく床の間から出ていってしまった。


 残された恋幸はただ高鳴る左胸に手を置いて、彼の放った言葉の意味を考えることしかできない。



「お風呂、入らなきゃ……」





 上の空のまま入浴を終えた恋幸が渡り廊下を歩いていると、ちょうどいいタイミングで裕一郎とすれ違う。


 立ち止まって声をかけようとしたが咄嗟とっさに先程のことを思い出して言葉に詰まる彼女とは対象的に、彼は相変わらず涼しい表情で小さな笑みをこぼして恋幸の耳元に口を寄せ囁いた。



「先に眠っていても構いませんよ」

「!?」

「……お風呂に入ってきます」



 大きな手がぽんと頭を撫でて、ほぼ反射的に「行ってらっしゃいませ」と返してしまう恋幸。



「はい、行ってきます」

(なんですかその優しい声!!)



 夜の寒さを忘れてしまうほどに火照ほてる頬と、急上昇する体温。

 裕一郎の後ろ姿を見送る彼女の上で、雲に隠れていた月が顔を出し廊下を照らしていた。

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