第9編「アカウントID? 絶対に教えません」
翌日、午前8時29分32秒。裕一郎との待ち合わせ時間まで、残り――……2時間30分28秒。
恋幸は昨日、自身が犯した“罪”の重大さに帰宅してから気が付いたのである。
◇
(はぁー! 今日の裕一郎様もかっこよかったなー! 明日も会えるなんてハッピー! どんな服着よ、う……ハッ!?)
◇
それからは寝落ちする瞬間までずっと「裕一郎様、どんな服を着るんだろう……」「出かける時も常にスーツ派だったりするのかな……」などなど、『彼』が身につける布の種類で頭がいっぱいだった。
そして、目が覚めてからは「裕一郎様が私服だった時、正気で受け止めきれるかな……」という特殊な不安に襲われている。
(私はどんな反応をするのが正解なんだろう……)
などと頭を悩ませつつ顔を洗っても、とうぜん鏡の中の自分は何も答えない。
(そうだ、あまりにも麗しすぎた時の対策にサングラス持っていこう……)
いったい何対策かよくわからないが、恋幸の身に付けたワンピースがインターネットでポチったばかりのajes femmeの新作だということだけは確かだ。
(……第一声、なんて声をかけたら魅力的なレディに見えるかな……)
時刻は10時29分58秒。いざ、出陣……!!
……してから、約15分後のことだった。
待ち合わせ場所の駅前に到着してから、恋幸はさらに重大な要件を思い出し足を止める。
大半を裕一郎に占領された脳みその空き容量2%で薄々「何か忘れている気がするな」と心の中にモヤモヤが漂ってはいたのだが、その『何か』をようやく思い出したのである。
(新刊の告知、忘れてた!)
もっと早く思い出すべきだろう作家としてのプライドはどこへやったのか、と編集の清水は彼女に問いたい。
『皆様のおかげで新刊が出せます!!「未来まで愛して、旦那様!」4巻は5月15日に発売予定です!!』
原稿の提出が締切に間に合えば。
いや、彼女はこういう時だけは異常に“強い”のでそこは心配ご無用だ。
恋幸はTbutterに呟き終わったスマートフォンをポケットへしまい、きょろきょろと見渡して裕一郎の姿を探す。
(裕一郎様、裕一郎……)
そして目にする。
「あっ……!! くら、も……」
スマートフォンの画面を見つめて、口元に緩やかな弧を描く裕一郎の姿を。
(わら、って……)
通常であれば「一人で携帯の画面を見てニヤニヤするなんて」と引いてしまう場面であるが、相手はあの裕一郎である。
彼の表情は滅多に変化を見せない。
それを画面越しで容易に変えてしまえる相手など、想像に
(……そうだ、当たり前だ。こんなに素敵なんだから、恋人がいないわけない)
そういった関係の存在を忘れていたのか、考えないようにしていたのか。恋幸は自分自身でもどちらなのかわからない。
ただ……思い上がっていたのだ。
自分は前世の彼と愛し合っていたのだから、今世でもきっと特別な存在だと思ってくれているだろう。そんな風に、勘違いしていた。
(……そんなわけ、なかったのに)
「小日向さん? どうしてこんな所に突っ立っているんです?」
「!!」
俯かせていた顔を上げると、空色の瞳に自身の姿が映る。
いつの間にか彼女のそばにいた裕一郎の表情は相変わらず無機質だが、どこか心配そうな声音が言葉を紡ぎ落とした。
「……? 何かありました?」
「……えっ? あっ、い、いえ……!! なんでもないです……!!」
裕一郎様はどこまでも優しい。きっと彼の恋人も、こういうところを好きになったのだろう。
二人の仲を、幸せを、部外者がこれ以上邪魔してはいけない。明日からはもう、彼と会うのはやめにしよう。
だから今日をめいいっぱい楽しんで、良い思い出を持って帰ろう。
……と、『大人のレディ』な思考に陥っていた恋幸の心を見透かしたかのように、
「嘘をついていますよね」
裕一郎は綺麗な眉を八の字にしてそう言うと、小さく息を吐き恋幸を見下ろして腕を組んだ。
「なっ、なんでわかっ、あっ……いえ!! ううう嘘なんてついてませんっ!!」
「……貴女、感情がすぐ顔に出ますよね。それに、先ほど独り言が漏れていましたよ」
「えっ!? ゆうっ……倉本様にはきっと素敵な恋人がいるんだろうって考えてたの聞かれてたんですか!?」
「いえ、それはたった今聞かされた話ですね」
心底呆れた表情の裕一郎が「聞こえたのは『そんなわけなかったのに』という言葉です」と続けると、恋幸は慌てて両手で口に蓋をするが時既に遅すぎる。
「……それで? 一人でどんな余計なことを考えていたんです?」
「も……黙秘で……」
「帰りますよ」
「やだ!!」
恋幸が正直に打ち明けるか、裕一郎がこのまま帰るか。
二択を迫られた彼女は事の流れを全て話した。ハイネックとジャケットの組み合わせも大変よく似合っていて眩しすぎるのでサングラスを着用したいという
当然、却下された。
裕一郎は顎に片手を当てて何か考えるような素振りを見せたが、少しして胸ポケットから自身のスマートフォンを取り出し、綺麗な指で画面を操作する。
「?」
「口元が緩んでいた……と、いうのは自覚がありませんでしたが……先ほど見ていたのはこのアカウントです」
こちらに向けられたそれを視認した瞬間、恋幸は口から心臓を吐き出しそうになった。
(あ、あゔぁ……)
――……それ、私のアカウントです。
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