彼方の岸より

雪白楽

彼方の岸より


 僕達は既に、死んでいる。


 そのことを、ここにいる誰もが理解していて、それでも幸せに暮らしていた……いや、その言葉には少しだけ不純物が、願望が、入り混じってしまったかもしれない。もう少しだけ正確に言うなら、誰もがどうしようもない寂しさを抱えて、それでも幸せに暮らそうとしていた。


 パタリ、とノートを閉じて立ち上がる。窓を開けると、さらさらとした水の音が聴こえて来る。死者の世界に風はないけど、川のせせらぎだけは絶えることがない。見下ろせば、すぐそこに綺麗な小川が流れていて、寄り添うような並木道が優しい木陰こかげを作っていた。

 この小さな家と、目の前の景色が、僕の全てだ。それでも案外、この生活を気に入っていて、今日も明日も風のない静寂の中で、小さな幸せ探しだけを続けている。


 大きく息を吸い込んで顔を上げれば、立ち並ぶ家々の向こうに大きな川が見える。この小川の大元で……そして、僕達の始まりと終わりの場所でもある『死者の川』だ。その名前にふさわしく、あの場所はいつも胸が詰まるような霧に満ちている。

 誰もがあの川を流れて、この『さよならの国』へとやって来る。ここが天国なのか地獄なのか、それとも全く別の世界なのか、誰も知らない。でも「どうせなら天国の方が良いよね」という願望から誰かが名付けたのか、死者の川のほとりに立つ、巨大で無骨な石のアーチは『天国の門』と呼ばれていた。

 ここには天使も、死者の国のガイド役もいなければ、入国審査があるわけでもない。死者が乗ってくる舟にさえはいなくて、それらは天国の門をくぐると、川のほとりにお行儀よくまるのだ。


(……今日は『迎え火』の数が少ない、ような気がする)


 毎日熱心に川を眺めているわけでもないから、正確なことは分からない。ここの人々は、それぞれが思い思いに一日という、正確なようで曖昧あいまいな時間を過ごしている。すれ違いながら、適度に関わり合いながら。この国に法律なんてものはないけれど、いくつかのルール……というか、暗黙の了解のようなものがあって、その『迎え火』も了解の一つで。

 朝のぼんやりとした霧の中を、頼りないあかりがポツポツとまたたいている。今日、新しく辿り着くだろう『新入り』を、迎えるための目印だ。誰かと約束しているわけでもないけれど、誰もがこの国に着いた時、見知らぬ誰かに迎えてもらった過去がある。だから、ふとした瞬間に「迎えにいかなくちゃ」と思わされる時が来て……僕にとっては、それが今日だったのかもしれない。


(そう……迎えにいかなくちゃ、いけない)


 名前も知らないけれど、もしかしたら大切だったかもしれない、誰かを。


 窓を閉め、長らく使っていなかったアンティークのカンテラを棚から下ろす。幸いと言うべきか、ホコリ一つ積もっていない。ここには、積もるべき時間がないから。

 カンテラの横の小さな扉を開けて、そっと息を吹き込む。窓の外を歩く灯火ともしびと同じ、ボンヤリとした優しい光が灯る。この火は命の灯火……僕達の魂の欠片かけらが燃えているのだと、いつか誰かが言っていた。

 今日はなんだか、いつもは考えないような事ばかり思い出す。迎え火を出すのは久しぶりだから、少し緊張しているのかもしれない。気を取り直すように小さく息を吸い込んで、足早に家を後にした。


 日が昇り始めた。時の流れがめちゃくちゃな死者の国では、日の出と日の入りだけ『一日』を優しく切り分けてくれる。それだって、気まぐれなものだけど。

 金色の朝焼けの中、僕の背中を押すように、霧が少しずつ晴れていく。流れ着く先は、静寂の支配する死者の川。


(もしかしなくても、出遅れたな……これは)


 とうの昔に、朝日は昇りきってしまっている。日の出と共に着く死者の舟は、既に出揃っているようだった。辿り着いた『新入り』は、見知らぬ場所に戸惑いの色を浮かべても、誰一人として取り乱したりはしない……ここに来る人達はみんな、自分が死んでしまった事を理解し、受け入れている人ばかりだった。

 川のほとりに立ち尽くす『新入り』に、一人また一人と、迎え火を携えた者達がポツポツと話しかけ、そのうちに連れ立って街の方へと消えていく。不思議と、迎え火の数と死者の数はピタリと揃う。ずっと、死ぬ前から示し合わせていたみたいに、運命的に。

 ただ、もしかしたら僕は、その運命からこぼれ落ちてしまったのかもしれない……と思い始めたその時だった。


「ぁ……」


 ささやくような、かすれたような、小さな声。それでも僕の耳は、はっきりとその声をつかまえていた。

 足首まである藍色あいいろのワンピースから、ゆるく絞れた腰へと自然に目が吸い寄せられる。別にそれは、いやらしい意味とかではなくて、そこからスラリと伸びた背筋に、大人の女性の上品さを感じたのかもしれない。特別きれいなひとではないけれど、肩くらいまでの黒髪には清潔感があった。


 他の死者達に出遅れたのか、川のほとりで所在しょざいなげに立ち尽くす彼女は、その丸い瞳をこぼれそうなくらいに見開いた……ただ、僕を見つめて。

 もしかして、どこかで会ったことがあるのかもしれないと、どうにかして思い出そうとしてみるけれど、思い出そうとする程に記憶は指先からこぼれ落ちていく。

 どうしようもない痛みに、心がきしむ。それでも、全ては失うことから始まるのだと、今の僕は知っているから、立ち尽くすことはない。きっと、歩き出すこともないけれど。


 不安に揺れる瞳。失われて行く『何か』を本能で知り、震える指先が何かを求めて無意識に伸ばされる。僕は彼女の『何か』には、決してなり得ないことを知りながら、記憶の欠片で傷付いた手を差し出した。


「ようこそ、さよならの国へ」


 *


 この場所にいると、大切なことから順番に忘れていく。自分の名前、生きてきた場所、愛した人、追いかけた夢。何もかもが泡のように溶けていって、ただ「大切だった」という暖かくて切ない感覚だけが残る。

 二人で話を、と言うには少し味気ないベンチに並んで、僕が彼女に語ったのはそうした事実だった。僕は話をする前にメモ帳とペンを渡して、もし覚えているなら自分の名前を書き留めるようにと伝えた。


『う、そ……どうして』


 綺麗な髪をぐしゃりとつかむ指先は、白くなって震えていた。僕はその手を取ってなぐさめたいと、全身を貫く衝動に戸惑いながら、ぐっと拳を握り込んだ。どうして、初対面であるはずの彼女に、こんなにも入れ込んでしまいそうになるのか分からなかった。

 ただ、彼女のそばにいるだけで『この人を護らなくちゃいけない』と、訳も分からない使命感と、胸をくような懐かしさに襲われて。


『焦らないで。手を伸ばすほど、指先から零れる速度ははやくなる。思い出したいことを、無理やり思い出そうとしないで』


 自分自身の感傷を押し込めるように、出来る限り落ち着いた声で彼女に告げる。怯えるような瞳が、そろそろと僕を見上げて、薄っすらと張った涙の膜が朝日にまたたく。


『取り留めのないことでも良いから、思い出したことから書いていって下さい』

『でも……』

『幾らでも付き合いますよ。メモも、時間も、無限にありますから』


 そうして僕の説明を聞きながら、彼女は時折メモにペンを走らせ、その間は静かに待つ。そんな時間を過ごしながら、彼女が少しずつ落ち着いて行くのを感じていた。

 ただ、僕とは違って丁寧で繊細せんさいな字が、メモ用紙を埋めていくのをボンヤリと見つめながら、一番最初の行が『名前』と書かれたまま空白になっているのが、どこか切ない気分にさせた。


『……きっと、その名前は貴女あなたにとって、とても大切なものだったんですね』

『……忘れてしまったのに?』

『忘れてしまったから、ですよ』


 その頃には、この死者の国のルールを理解し始めていた彼女は、泣きそうな表情で……それでも初めてかすかな笑顔を見せた。


『ありがとう』


 *


 花屋の朝は、早い。少なくとも、この『さよならの国』では、誰も時間を気にしている人なんていなくて、それでも僕は朝日と共に店を開くことにしていた。そういうルーティンを作っていないと、僕自身を見失ってしまいそうで、それが少しだけ怖かった。


 階下に下りると、ショーウィンドウの向こう側の空は既に白み始めていた。今を盛りと咲き誇る花籠はなかごを抱えて店の外に出れば、無彩色の世界に鮮やかな色がともる。

 その色に引き寄せられてか、散歩中のおじいさんがゆったりとした足取りでやって来て、厳しそうな横顔を少しだけほころばせた。良く店に来てくれる『お得意様』だけれど、僕達はお互いに名前も知らないし、言葉を交わしたこともほとんどない。

 ただ、店先に並ぶ花を眺める時間を共有して、気に入った花を持ち帰ってもらう。死者の国に金銭だとか、商売だとかの概念はない。誰かと繋がっていたいと、無意識に誰もがそう思ってる。僕にとっては、その手段が『花屋』だったと言うだけの話だ。


 その日、お爺さんは大ぶりの向日葵ひまわりを抱えて、またゆったりとした足取りで帰って行った。いつも誰にあげているんだろう、なんて不毛なことを考えて、すぐに正解へと辿たどいてしまう自分自身がいる。

 僕達に、花を贈る相手なんているはずがない。本当に贈りたかった相手のことは、とうの昔に記憶から零れ落ちてしまって……新しく『大切な誰か』を作るには、少し臆病になりすぎてしまった。僕達は、そんな冷たい古傷の痛みで繋がっている。


「お花屋さん!」

「……あぁ、さきちゃん。いらっしゃい」


 声を発することを忘れかけた声帯が、まだ少しだけ残る『人間』の部分を思い出すように、限りなく優しい声を紡ぐ。いつも一人で『おつかい』に来る女の子は、この世界にたった一人で歩き続けている。


「おはようございます!」

「うん、おはよう。今日は、どんなお花がお望みかな?」


 そんな孤独を感じさせることのない元気な笑顔に、腰を屈めて目線を合わせる。毎日のように遊びに来てくれる彼女が、最初のうちは朝になれば消えてしまう花束に泣いていたことを知っている。それでも、りずに通ってくれる彼女は、年齢に関わらず強い人だと尊敬の念を覚えるし、何よりもその姿がまぶしかった。


「えっとね、ふわふわで、元気になるの!」

「ふわふわで、元気か……」


 安直に考えるなら、白くて鈴なりのカスミソウなんか、大きな花束にすれば単体でも映えるように思う。ただちょっとな、と花籠を物色しながら、店内をのびのびと歩き回る少女を見つめた。


(……今日の咲ちゃんには、白い花よりも柔らかくて華やかな色が良い気がする)


 少しだけ背伸びした、タータンチェックのワンピースを着た咲ちゃんは、いつものように無邪気を装っているけれど、その明るさに浮いているような違和感があった。


「昨日、何かあったのかい?」


 彼女のための花を選びながら、そっと問いかける。心の隙間を、埋めるように。


「んー……向かいのおうちのりょうくんがね、いなくなっちゃった」

「……そっか」


 『亮くん』は、最近の咲ちゃんの遊び相手だと聞いていた。ただ、話に聞く限りは『亮くん』とやらが、ここには長居したくないと思っていることは明らかで、いつかはこうなるんだろうと思っていた。


「亮くんは、強いね」


 ポツリと呟いた咲ちゃんの横顔は、見た目から感じる年齢不相応に、ぞっとするほどの寂しさを抱えていて、でもそれこそが彼女の『本当』なのだろうと、かえって僕には呼吸のしやすいような心地さえした。

 その感情を胸いっぱいに吸い込んだ瞬間、彼女に相応ふさわしい花束のイメージは決まっていた。


「はい、出来たよ」

「わぁ……!」


 ふわふわと広がるドレスの裾のように、柔らかな花片はなびらをまとわせた、優しい色のタチアオイ。初恋みたいな蜂蜜色から薄紅に染まるそれは、甘くても気高い美しさがある。


「タチアオイだよ。ちょっと珍しい品種だけど」

「あらあら、これもタチアオイなの?」


 耳慣れた声と共に、見た目からして優しげなご婦人が顔を出す。


「あっ、田端たばたのおばちゃん!」

「おはよう、咲ちゃん。それと『お花屋さん』も……本当に、綺麗なお花ねぇ」


 ふくふくと笑いながら、どこか懐かしむように目を細める姿は、いつかの記憶を見つめているに違いなかった。僕達は、しばらく花を見つめながら、それぞれの散り散りになった過去に沈む時間を共有して、それから誰ともなく空を見上げた。


「雨だ……」


 ポツリ、と。


 誰かの流す涙のように、熱いような、冷たいようなしずくが僕達の頬を濡らす。反射的に身を硬くさせた僕達は、言葉もないままに軒先のきさきへと逃げ込んだ。


「あ……おねえ、さん?」


 咲ちゃんの、少し驚いたような声に、僕は目を見開いて振り返った。

 雨の中、駆けてくる人影がある。僕は息を呑んで、ついさっきまで抱いていた『雨』への恐怖心も忘れて駆け出していた。


「ぁ……」


 僕の存在に気付いたらしい『彼女』が、どこか安心したような表情を浮かべて、そんな姿に僕はどんな顔をすれば良いのかも分からなくて、ひとまず羽織っていた上着を彼女にかぶせて走った。


「……おねえさん、大丈夫?」

「ダメよ……雨には気を付けないと」


 心配そうな表情で駆け寄る咲ちゃんと、バッグから上品なハンカチを出して、僕達についた水滴を丁寧に拭ってくれる。


「えっと、その……ありがとうございます」


 僕達の反応に、どこか戸惑うような表情を浮かべる彼女に、僕はまだ肝心なことを伝えそびれていたことに、ようやく気付いた。

 どうやら、そのことに咲ちゃんと田端さんも気付いたのか、呆れたような笑みを浮かべて顔を見合わせた。少しだけ、肩の力が抜けたような、そんな表情で。


「私、行くね」

「でも、まだ『雨』が……」


 引き止める僕に、咲ちゃんはニッと笑った。


「今日はたぶん、大丈夫。お花、ありがと!」

「その、咲ちゃん」


 なおも呼び止めた僕に、咲ちゃんは目を瞬かせて振り返った。その真っ直ぐな瞳に、その奥にたたえられたかすかな不安と切なさに、彼女が押し潰されませんようにと声をあげた。


「タチアオイの花言葉は、豊かな実り……それから、気高い美。君はきっと、大丈夫だから……だから、焦らなくていい。ここは、そういう場所だから」


 雨を背にした少女は、僕の言葉に目を見開いて立ち尽くすと、ひどく大人びた笑みを浮かべて花束を抱き締めた。どうか伝わると良いと、固唾かたずを呑んで見つめていれば、顔をあげた次の瞬間には、いつもの快活な笑顔があって。


「ありがとう」


 雨の中に踏み出されたつま先が、クルリと楽しげにこちらを向いた。


「……お花屋さん、せっかく見つけた『およめさん』を大事にね!」

「へ……?って、ちょっと!」


 タッと駆けていく後ろ姿にガックリと肩を落とせば、田端さんがコロコロと口元を抑えて楽しそうに笑った。


「これは、一本取られたわね?でも……そうね、私も咲ちゃんと同じものをもらおうかしら。仕立てたばかりのドレスを身にまとって、雨の中を散歩するのも悪くない気がするもの」

「田端さん……」

「大丈夫。どのみち行きたくても……きっと、どこにも行けないわ。心の底から望まない限り、ずっとね」


 この人には……この人達には、本当にかなわないと思いながら、八重咲きで淡い色合いのタチアオイを、心をこめて花束にした。


「あっ……あおい


 それまで所在なげに立ち尽くしていた彼女が、僕から田端さんに手渡された花束を見て、ポツリとそうつぶやいた。どこからどう見ても葵の一種には見えない、八重咲きの花束と彼女を見比べて、僕は目を瞬かせた。


「よくご存知ですね」

「いえ……なんだか、パッと浮かんで」


 言葉にしがたい、遥かの記憶をつかもうとするかのように、揺れる彼女の瞳に僕と田端さんは顔を見合わせた。きっと、それは彼女の想い出の欠片なのだと、すぐに分かった。

 田端さんは、控えめな一歩分だけ彼女に近付くと、柔らかい表情で口を開いた。


「大切な記憶は、きらきらした宝石箱をのぞく時みたいに、ちょっとだけ離れた場所から眺めるの。いつでも、優しい気持ちでね。それが、ここで自分を失くさないためのコツかしら……貴女が、怖がってるみたいに見えたから。それは、少しもったいないわよ」

「もったいない、ですか」


 目を丸くして問いかける『彼女』に、田端さんは頷いてショーウィンドウの外を指差した。お天気雨で太陽が顔を出した外には、柔らかな色合いの虹がかかり始めていた。変化の乏しいこの国で、カラフルな花束みたいに……そんな、素敵な贈り物。


「例え私達の人生が終わってしまっていても、もう二度と……時計の針が進むことはなくても。本当の意味の明日は来ないとしても、世界はこんなにも綺麗よ。困ったことがあれば、暗い顔をしてないで訪ねていらっしゃいな」


 田端さんは、そう言って微笑むと花束を抱え、軽やかな足取りで雨の中に踏み出した。まるで、楽しいことを思い出した少女みたいに。僕達は、その背中を無言で見送って、しばらくして『彼女』がポツリと呟いた。


「……ここの人達は、どうしてこんなに優しいんでしょう」


 僕達はみんな、あの冷たくて静かで……どうしようもなく孤独な死の瞬間を知っている。そういう仄暗い部分で繋がっていて、だから多分、少しだけ他人に対して優しくなれるんだと思う。優しくなりたいと、思う。

 僕は彼女の問いに対する答えを持っていたけれど、彼女のどこか途方に暮れた横顔が、正解を求めてるみたいには見えなかったから、ただ静かに雨音を聴いていた。


「……済みません、考え込んでしまって」

「いいんですよ。誰もあなたを、かしたりはしません」


 僕がそう告げると、彼女は「ありがとうございます」と、はにかんだような笑みを浮かべた。何故か、その笑みに引き寄せられる、と言うよりも懐かしいものを感じていると、僕の視線に彼女が小さく首を傾げる。


「いえ、済みません……急に来て頂いて」

「そんな、とんでもないです。『お花屋さん』には、本当に良くして頂いてますし……何より、私がここに来るの、好きなんです」


 いつもの藍色のワンピースが、風もないのにふわりと揺れる。ただ彼女が歩いているだけだと分かっているのに、そよ風みたいな人だと時折思う。


「今度から、雨が降っている時は、なるべく出歩かないようにして下さい。この世界には、傘もありませんし」

「……不思議だったんですけど、ここの皆さんって雨を気にしていらっしゃいますよね」


 僕は忸怩じくじたる思いで頬をきつつ、言い訳がましく口を開いた。


「済みません……お伝えするのを忘れてて。この世界の雨は、僕達を『向こう側』へと連れて行ってしまうんです。ここへ来て日が浅い方なら、いきなり連れて行かれることはないんですが、田端さんや咲ちゃんくらい長くここにいると危ないので……」

「えっ……咲ちゃんも、ですか?」


 意外そうな表情を浮かべる彼女に、僕はどう説明したものかな、と腕組みをした。


「咲ちゃんは、見た目こそ小学生ですが、亡くなった時は中学生くらいだったそうです。ここでは自分自身と向き合うために、一番適した精神と肉体になると言われてます」

「つまり……あれが咲ちゃんの望む姿、ってことですか?」

「この辺りの人なら知っていることですが……母親を亡くしたのが、小学生の時だったらしいです。それからずっと、心の底では帰りを待っているのかもしれません」

「っ……」


 息を呑んで黙り込んでしまった彼女に、重く沈んでしまった空気をどうしようか、と考えつつ口を開いた。


「とにかく万が一、と言うこともありますし、やり残したことがあったり、まだ『先』へ旅立つ覚悟が出来ていないなら、雨の日には外に出ない方がいいですよ……それと今日は、これをお渡ししたくて」


 カウンターの裏をガサゴソやって、目当てのものを取り出した僕は、キョトンとした表情の彼女にそっと手渡した。


「ノート……ですか?」

「はい。この国では、天国の門に迎えに行った『新入り』の面倒を見て、ノートを贈るのが慣習で。このノートに、忘れたくないこととか、大切な想い出とか……なんでも好きなことを書いて下さい。本当はもっと早く渡したかったんですが、女性に似合うものを考えるのに、時間がかかってしまって……」

「いえ……嬉しいです。大事にしますね」


 さわやかな空色のノートをギュッと抱き締めて、満面の笑みを浮かべた彼女に、気に入ってくれたようで良かったと胸を撫で下ろす。

 安心すると、なんだか急に二人きりで店にいることの気恥ずかしさがこみ上げて来て、舞い降りた沈黙に『何か話さなくちゃ』と言う謎の強迫観念が頭を埋め尽くす。


「……この世界には、もう馴染めました?」

「はい、おかげさまで。皆さん良くしてくれますし……特に、ここで出会った方々は、街中でもよく声をかけて下さるので。咲ちゃんなんかは、色々お話ししてくれますから、楽しいですよ」

「あはは……僕は、咲ちゃんには、からかわれっぱなしで……今日も『お嫁さん』だとかなんとか、困っちゃいますよね。ご相手、いらっしゃるんでしょうし」


 僕は彼女が右の薬指にはめた、シンプルなデザインの指輪に視線を向けて言った。


「あぁ、これですか……確かに相手はいた、と思うんですけども……彼からもらったものでは、なくて。でも、大事なものなんだと思います」


 本当に大事なものに触れるように、そっと左の指先で包み込む姿に、思わず目が離せなくなっている自分がいた。踏み込み過ぎだと、分かっていた。それなのに、いつもは理性で止められる部分が、どうしようもなく抑えられない。どうして、なんだろう。


 どうして、彼女なんだろう。


 衝動のままに、何かを問いかけようとした僕を知ってか知らずか、彼女は何かを思い出したように目を瞬かせた。


「でも、咲ちゃんはからかったんじゃなくて、その指輪を見て言ったんだと思いますよ?」

「え……」


 彼女の視線が導くままに、自分の見慣れた、もう何十年の付き合いになる無骨な手を見下ろして。

 そこには『彼女』と全く同じデザインの指輪が、当たり前のように光り輝いていた。


 *


 ドサリ、と。


 疲れた身体を横たえて、長くて短い、眠れない夜に深い溜め息を吐く。

 ランプをつけて、橙色だいだいいろの優しい灯りの中、今日何度見直したか知れない自身の手をかし見る。そこには昼間『彼女』に指摘された通り、銀色の指輪が確かに輝いていて。

 それも『彼女』と同じデザインの……こんな偶然が有り得るのか、と考えて頭を振る。既製品なら、結婚指輪なんて幾らでも同じデザインになることはあるだろう。


(でも、ノートには指輪のことなんて書かれてなかった……僕が、既婚者であることも)


 どちらかと言えば、僕の『ノート』に書き連ねられているのは取り留めのない記憶の欠片ばかりで、僕が何者だったのか、どんな人生を送って来たのかがまるで分からない。

 自分が何者なのか、と言うことが分からないのは、結構こたえる。突き詰めてしまえば他人だらけの世界で、なく一人で立ち続けることは、とてもじゃないけど無理だ。

 だからこそ、僕は『花屋』をやっているのかもしれない。


 ギシリ、と。


 ベッドを軋ませて立ち上がり、今日幾度となく立った棚に、もう一度だけと手を伸ばす。パラパラと所在なくページをめくりながら、やっぱり僕の求める『指輪』の記述がそこにないことを確認する。

 きっと僕は、このノートをもらった頃には、既に指輪のことを「忘れていた」んだろう。昨日も、その前も、ずっとこの手に指輪は輝き続けていたのかもしれない。

(……なんだか、青い鳥みたいだ)

 ぐっと手を握り締めて、見ているそばからこぼれ落ちてしまいそうな記憶を閉じ込める。眠れぬ夜の供にと、ノートのページをめくり続けていると、とある記述に目が止まった。


『ノートを、失くした』


 バサリ、と。


 勢いよく立ち上がったはずみに、ノートが床へと落ちた。震える指先で拾い上げ、読み返しても書かれている事実がくつがえることはなく。

 ……どこだ?どこにある?

 僕の性格上、プライバシーの塊みたいな『ノート』を屋外に持ち出すとは思えないし、かと言ってこの家に物を失くせるような広さも、しまい込めるような家具もない。

 ガランとした棚に、シンプルな机と椅子、それからベッドだけ――


「っ……」


 唐突に、感覚が蘇る。

 忘れたかった記憶。封じ込めた僕の全て。

 大切だった、想い出達。


 そろそろと、ベッドの下に手を伸ばせば、冷たく硬い感触が指先に触れた。確信を持って引き抜けば、手の中には執拗しつようなまでに鎖の巻きつけられた、分厚い黒革のノートがあった。

 耳の奥に、警鐘が響いてる。このノートを開いてはいけないと、開けば絶対に後悔すると、記憶の奥底から呼びかける声が聞こえる。

 それでも、僕の手は何かに急き立てられるようにして、鎖の封印を解いていた。


《僕の名前は、本多真ほんだまこと。僕は既に死んでいて、『さよならの国』と呼ばれる死者の世界に住んでいる。ここで僕は花屋をしながら、妻を待っている。妻は音楽をやっていて……》

 その後に続く膨大な情報に、パラパラと目を通しながら、目眩めまいを覚えた。この国では、大切だったことから忘れて行く……そして僕は、このノートに記されたことのほとんど全てを知らなかった。ここには、僕の人生の全てが詰まっていて、こんなにも大事なものを、どうして失くすなんて……いいや、意図的に『隠す』ような真似をしたのかと、心底から過去の僕自身を恨む。

 そして、その答えはすぐにノートが教えてくれた。


 ぐちゃぐちゃと黒く塗りつぶされた、明らかに不自然なページ。そこで記録は途切れていて、僕は嫌な予感を抱えながら、潰された言葉を読んだ……読んで、しまった。


 走り書きされたその言葉に、呼吸が止まる。それでも、鮮烈に刻まれた言葉は、消えない。


《妻は既に死んでいる》


 *


「『お花屋さん』」


 耳をすり抜けていった呼び声に、自分が呼ばれているのだと言うことに気付けなかった。

 のろのろと顔をあげれば、いつもと同じ『彼女』の柔らかな笑みがそこにはあって、それでも言葉を返すことが出来なかった。


「田端さんから、今日はお店を閉めていらっしゃる、と聞いたので……お隣、いいですか?」

「……どうぞ」


 零れた言葉は、どうしようもなく掠れていて、自分のものとは思えなかった。

 しくも、彼女と出会った時のベンチに並んで腰掛けることになった僕達は、川のせせらぎだけを聞きながら、いつまでも言葉を探していた。それは決して気の詰まるようなものではなくて、むしろどこか懐かしくて。

 ようやく呼吸の仕方を思い出した僕は、鼓動がなくとも痛む心臓をさすりながら、彼女の横顔を見つめた。彼女がどうしていま、こうして寄り添ってくれるのかは分からない。それでも、僕にとってはこの沈黙が何よりの救いだった。


「……ありがとう、ございます」


 心からの感謝は、自然とつむがれた。

 彼女はやんわりと笑んで、首を横に振った。


「済みません、急に店を休んでしまって……午後からはちゃんと、開けますから」

「いえ……誰にだって、そういう時はありますよ。今日はこのまま、お休みにしましょう?」

「へ……?」


 僕が間の抜けた声で顔をあげると、彼女はパッと立ち上がって、イタズラっぽい笑みを浮かべた。


「だって、こんなに天気が良いんですもの」


 逆光の瞬きに、思わず目を細める。

 そこで初めて、今日の彼女が白いワンピースを着ていて、空がこんなにも美しいことを知った。

 僕に女性の服のことはよく分からないけど、いつもの藍色のワンピースと比べても、彼女に似合っていると思えた。


 不意に、泣きたいくらいに懐かしい感覚がこみ上げて、胸が詰まる。

 無意識のうちに伸ばした手が、空を切る。


「っ、あなたは……」


 僕の、奥さんですか。


 そんなこと、有り得るはずもなかった。そうであって欲しいと、願望でしかないと、分かっていた。

 僕の妻は、僕よりも先に死んでいて、もうこの世界のどこにもいなくて。

 それなら僕は、いったい何のために……誰のために、この場所で待ち続けているんだろう。たった一晩で、泡のように消えてしまう花を抱いて、ずっと。


「どうか、しましたか?」


 振り返るあなたが、僕の待っている人なら、どんなにか良かっただろう。

 そんな残酷なことが言えるはずもなくて、僕は曖昧あいまいに笑うことしか出来なかった。

 この、青空の下で。


 *


「髪、伸びたんじゃないかしら」


 ある日の昼下がり、唐突に『彼女』が呟いた言葉に、僕は目を瞬かせて顔をあげた。

 あれから僕達の距離は少しだけ縮まって、彼女は用がなくても会いに来てくれるようになったし、僕は店を開けている時でも『お花屋さん』ではない『本多真』の顔を見せるようになった。

 店の中には少しずつ彼女の居場所が出来て、他人に自分の世界に踏み込まれることが嫌いなはずの僕は、むしろ彼女にとって居心地の良い場所であれるようにと心を砕くようになって。僕達の心の距離は、そのまま物理的な距離と、交わす言葉の密度に現れた。

 彼女は良く本をたずさえてやって来て、僕がお客さんに応対している時は読書をして、そうでない時は僕と言葉を交わして、気まぐれにお客さんとおしゃべりに花を咲かせて……そうやって、すっかり店の一部になっていた。


「伸びた……かな。言われてみれば」


 彼女の視線のままに、手を伸ばして少し野暮ったく伸びた前髪に触れる。この国に来てから、ずっと髪なんて伸びていなかったのに、と首をひねりながら。

 以前なら、こんな風に自分が『変わってしまうこと』が怖かった。でも、今は少しずつ変わり始めている自分自身を、ひどく穏やかな心で眺めている僕がいて。

 それでも、不安が消えたわけじゃない……ただ『それでもいい』と、思えるようになった。それだけで、よかった。


「切ってあげましょうか?」

「えっ……確かに床屋さんなんてないけど」


 本当に大丈夫なのか、と恐る恐る表情を伺えば、彼女はすっかりやる気まんまんで腕まくりの仕草を見せた。


「任せて!」


 そこからは大騒ぎで、花屋の店先に椅子を出して、シーツをお化けみたいに首の回りに巻きつけて、そんな即席のヘアカット広場に座らされて。道行く人々がちらちらと僕達を見ていくものだから、気恥ずかしくて仕方なかった。

 でも、どのみち誰もが知っている人達で、何より彼女が楽しそうだから、そのうち僕まで楽しくなってきて。

 今日も死者の国は良い天気で、彼女は宣言通り危なげないハサミ使いをしていて、規則正しいハサミの音が心地よくて。


(……この瞬間を、知っている)


 じわり、と。


 胸の奥に浮かんだ感覚に、言葉があふれた。


「……どうしてかな。前にも誰かに、こうして髪を切ってもらった気がするんだ。それなのに、その人の顔も名前も思い出せない」


 きっと、それは顔も名前も思い出せない、僕の妻だったんだろうと、そう思っていた。そのことは彼女も気付いているのか、しばらくまた静かなハサミの音だけが響いて。

 ふと、彼女が言葉を落とした。


「それならきっと……あなたにとって、大切な記憶だったのね」

「っ……」


 ふと、涙がこぼれた。

 いまきっと、僕にとってひどく大事なものに、指先が届きかけているのだと感じていた。それでも、どうしたって思い出すことは出来ないんだろうと、分かっていた。ここは、そういう場所だから。

 でも、だからこそ痛くて、悲しくて、切なくて、やりきれなくて……


 どうしようもなく、愛おしくて。


 風のない死者の国に、花の香りがけぶる。

 ただ遠くに、雨を運ぶ雲が漂っていた。


 *


 死者の国の夜は、ひどく静かだ。

 生前の街よりずっと暗い世界は、冷たい死を通り過ぎて来た僕達にとっては、星明かりだけでもまぶしいくらいで。それでも、好きこのんで夜闇を歩こうとする人はいなかった。

 例外は、大切な人が旅だった夜だけ。皆で川辺かわべに集まって、夜まで同じ時間を共有する。それは別に誰が強制したことでもなかったけれど、いつか来る自分の旅立ちに備えるためにも、僕達にとって必要な儀式だった。


 一人、また一人と去って行く。

 その足音を聞きながら、僕はベンチに腰掛けたまま、立ち上がることが出来ずにいた。

 誰の気配もしなくなった頃、僕はようやく実感を持って、その『空白』を感じた。


「……本当に、行っちゃったんですね」


 ポツリ、と。


 誰もいなくなったはずの川辺に、そんな声が響いた。もう既に耳慣れた、彼女のものだと気付いていた。


「……最後に言葉を交わしたのは、僕だったんです」


 *


 今日は朝から雲行きが怪しくて、雨が降りそうだと空を見上げていた。


『お花屋さん』

『咲ちゃん』


 少女はいつものように、いつもの笑顔でやってきて、それでもいつもとは少し違うことに、僕だって気付いていた。

 ただ、彼女は僕に疑問を差し挟むことを許さずに、困ったような笑顔で告げた。


『元気に……ううん。勇気の出る花束、ください』


 そのオーダーに、僕はオレンジ色のフリージアを花束にして応えた。


『フリージアの花言葉は、むじゃき、あこがれ……未来への期待』

『……未来への、期待』


 噛みしめるように呟いた彼女に、僕は頷いて慎重に言葉を落とした。


『本当は、ガーベラの花言葉……常に前進、とかと迷ったんだ。でも、たまには立ち止まったっていい。立ち止まって、じっくり考えて……それでも、君が歩き出したいと、心から辿り着きたいと、そう思えた場所に行けばいい』


 ポツリポツリと、僕が落とす言葉を、彼女は真剣に聞いていた。いつも僕をからかってばかりの咲ちゃんだけど、こういう時は誰よりも真剣であることを、僕は良く知っていたから、いつものように熱をこめて。

 いつものように、これを最期さいごの花にするつもりで、伝えた。


『僕達は、どんな時だって君の味方だよ。君の行きたい方へ、行くといい。いつでも傍には居られないけど……いつか忘れてしまうとしても、君を想った過去は消えない』


 僕の言葉に、彼女は黙って夕焼け色のフリージアを抱き締めた。


「……ありがとう。私、行くね!」


 パッと顔をあげて、いつものように、いつもの笑顔で。

 それが、咲ちゃんを見た最後になった。


 *


 僕が語り終わるまで、あの優しい沈黙を『彼女』は保ってくれていた。


 予感は、していた。

 いつかはこんな日が来るんだろうってことも分かっていたし、来るべきだとも分かっていた。それでも。


 もう二度と、彼女の声が聞こえないことが、こんなにも寂しい。


「ああ……そうか」


 あふれこぼれた感情は、もう止めることが出来なかった。


「僕はずっと、寂しかったんだ」


 もうきっと思い出すことの出来ない『誰か』が、こんなにも恋しい。確かに触れて、大事に大事に名前を呼んで、寄り添って生きて来たはずなのに。

 ずっと『誰か』を待っていたはずなのに、忘れてしまったことが、こんなにも悲しい。


 雨に溶けて消えて行ってしまった人達は、いったいどこへ行くのか、僕達は確証を持ってるわけじゃない。ただ不安で、どこに行けるのかも、どこかに行けるのかも分からなくて、それでも『先』へ進むことを選んだ勇気を、本当に凄いことだと思う。

 それでも。


「そばにいて、ほしかった……」

「うん」

「どこにも、行かないでほしかった」

「……うん」

「独りにしないで、ほしかったのに」


 誰に言っているのかも分からない言葉を、それでも『彼女』は全部ひろいあげて、優しく包んでくれた。

 そっと、肩にかけられた重みに、そのぬくもりに、抱き締めてしまいたくて。それでも僕が手を伸ばすことは、決してなくて。


「どうか、僕を忘れないで……」


 忘れて欲しい。忘れないで、欲しい。

 僕を大切だと、思わないでくれたら、誰かの……せめて、あなたの記憶に残れるだろうか。


「……それならもっと、教えて下さい。楽しかったこと、幸せだったこと……あなたの記憶の欠片を、ぜんぶ。いつか忘れてしまうとしても、あなたの言葉が、私の過去に残るように。私がどこに、向かうとしても」


 彼女の言葉に、その覚悟に、僕はしばらく答えを返すことが出来なかった。


「……ノートを、見つけたんだ」


 取り留めもなく、僕は語った。

 妻が花を愛していたこと。妻の名前はあおいと言うこと。彼女は音楽をやっていたこと。僕達は、こんな風に星空の見える場所で出会ったこと。愛していたこと。結婚式の夜は、朝日が昇るまで二人で踊り明かしたこと。彼女の弾くピアノを愛していたこと。子供が生まれることになって、幸せだったこと。

 どれもこれも『ノート』の受け売りで、自分の言葉で自分の記憶なのかなんて分からなくて、それでも言葉にするほど心はぐちゃぐちゃになった。そんな風に傷だらけになっても、いま彼女に語りたいと、伝えたいと思った。伝えなくちゃ、いけないと直感していた。

 そうして、そこに、辿り着いた。


「約束……したんだ。生まれて来る子供の名前を、店の名前につけようって……っ」


 ガタリ、と。


 僕は立ち上がって、いま掴んだばかりの記憶を、引き止めるように拳を握った。そうだ……思い、出した。

 その、名前は。


 僕は、言葉もなく走り出した。彼女がついて来てくれているかなんて、確認する余裕もなかった。

 ただ、これだと言う、確信だけがあった。

 この時間から、この世界から、歩き出すための最初の一歩が、確かにあると。


「あっ……った……」


 夜の闇に立ち尽くし、街灯に浮かび上がる、見慣れすぎた店構えに、心臓が軋んだ。

 ずっと、ここにあった。


「フラワーショップ・カナデ……」


 ポツリ、と。


 囁くように落とされた言葉が、長年親しんだ音のように、響いた。

 その音が、この瞬間に、彼女の声で落とされたことが、きっと大事だったのだと分かっていた。

 にじむ視界に、星だけが映りこむ。


 そして、その日から『彼女』は店に来なくなった。


 *


 雨が、降っている。


 あれから、何度か彼女の家の前をストーカーよろしく通りがかって、人影はあるからまだ『旅立った』わけではないのだと勝手に安心して。でも、このまま彼女を独りにしていいのか、それとも赤の他人である僕が、これ以上踏み込むべきではないのかと、今更なことを勝手に心配したりして。

 そうして日々は過ぎていって、僕はまだ、この場所に立ち尽くしている。


『最近、あの子を見ないけど……何か、あったのかしら?』


 心配そうな表情を見せる田端さんに、僕は何一つ告げることができなくて。


『でも、時には待つのも大事ね……それが、一番むずかしいことだけど』


 その言葉に、ストーカーよろしく『彼女』の家の前をうろつくのもやめて、覚悟を決めて待ち始めたのはいいものの、早くも僕は途方に暮れ始めていた。

 何が、いけなかったんだろう。何かが、いけなかったんだろうか。

 考えれば考えるほど、全てがいけなかったような気がする。

 僕はいつだって、僕の事情と記憶を押し付けてばかりで、彼女のことを知ろうと努力して来なかった。だからこんなにも途方に暮れていて、どこにも歩き出せない気分に逆戻りしているんだろう。


 そうしてまだ、雨はやまない。


 その、はずだったのに。


「……っ」


 ショーウィンドウの向こうに見えた姿に、僕はガタリと椅子を蹴って立ち上がった。


 からんころん、と。


 いつもは開けっ放しで鳴らないベルが、その訪れを現実に告げる。


「……まだ、間に合うかしら?」


 ずぶ濡れで、あの藍色のワンピースを真っ黒に染めて、それでも凛とした表情で、彼女がそこに立っていた。


「君を、待っていたから」


 僕は頷いて、いつもの椅子を彼女に勧めた。

 ポタポタと雫を落として、水たまりを作る彼女に、それでも僕はタオルではなく、花を準備することに決めた。

 もう、時間がないことに、気付いていた。


「ノウゼンカズラ……花言葉は、女性。元々は誰かに寄り添う姿が、女性らしいからって意味らしいけど……あなたが僕に寄り添ってくれたように、今度は僕があなたに寄り添いたいと思うから。だから、これを贈らせてください」


 本当は燃えるようなオレンジの花であるはずが、春の訪れを告げる淡い薄紅に染まって、優しさを溶かし込んだような色のノウゼンカズラ。

 花束にするのは難しいそれを、彼女に似合う小さなはなかごに詰めて、胸に湧く想いの全てをこめて手渡した。


「……ありがとう」


 壊れものに触れるように、そっと花片に触れた彼女は、意志の灯る力強い瞳で、最高の笑顔を浮かべた。


「これを、あなたに渡したくて」


 ずぶ濡れの彼女が、大事そうに抱き締めていたバッグから、一通の封筒を取り出した。それが手紙だと……これを受け取れば、本当に『最後』なのだと、知っていて、伸ばした指先が否応なしに震えた。


「大丈夫」


 彼女の言葉が魔法みたいに響いて、微笑みと頷きに促され、僕は目をそむけることなく、確かに手紙を受け取った。


「……もう、行くのかい?」


 僕の未練がましい問いかけに、彼女は迷いなく頷いた。だから僕も、それ以上、引き止めることは出来なかった。


「それなら……最後に、一つだけ。伝えたい、花言葉があるんだ」


 立ち上がる彼女の前に立ち、その手の中にある花籠に、そっと触れた。


「この花の、ラッパみたいな形から連想されるのは、高らかに響くファンファーレ。祝福をかなでる、無数の花々がうたうのは『華のある人生』」


 心が、言葉が、震える。

 それでも、これだけは伝えたかった。


「生まれて来てくれて……一生懸命生きて、こうして出会ってくれて、ありがとう。君の道行きに、いつでも美しい花が咲いていることを、祈ってる、から……っ」


 呼吸が、止まった。

 僕の胸に飛び込んできた、その熱に、記憶の底を揺さぶる匂いに、こみ上げる懐かしさに、前が見えなくて。


「……行ってきます」


 その言葉だけを残して、彼女は僕から離れると、迷いない足取りでこの店を出ていった。

 雨の降る、さよならの国へと。


 後から後からこぼれる涙を拭って、僕は彼女が残した手紙に手を伸ばした。

 膨らんだ封筒には、分厚い手紙と、彼女の指輪が入っていた。

 そこには、僕の知らない『彼女』の人生と、取り留めのない言葉が、出会った時と変わらない、丁寧な字でつづられていた。


 早くに両親を亡くしたこと。孤独だったこと。それでも、愛し合える最高のパートナーに出会えたこと。

 母親が音楽をやっていて、その影響なのか、自分の名前に引きずられてなのか、ずっと音楽の先生になりたかったこと。

 何度もくじけそうになったけど、諦めずに歩き続けてきたこと。


《私は、この国に住む大半の人達みたいに、待たなくちゃいけない人も、どうしても守りたい過去もなくて……ただ、きっと『誰か』に、私は一生懸命生きたんだってこと、知って欲しかっただけなんだと思います。でも、だからこそ、私の時間は永久に止まったままでも構わなかった》


 手紙に記された言葉に、苦い後悔が湧き上がる。どうしてもっと、彼女の言葉に耳を傾けなかっただろう……どうしてもっと、と。


《でも、あなたと出会って、互いの過去を知らなくても手を伸ばし合うことは出来るし、自分の過去を知らなくても、歩き出すことは出来るんだと思ったの。誰かに過去を認めてもらわなくても、今の私を愛せるなら、それでいいって……何より、愛してくれた『誰か』の記憶から消えてしまっても、怖くないって思えるようになりました。愛していたことは、変わらない過去だもの》


 君は、強い。

 あっという間に僕を追い越して、僕がたどり着けない場所に行こうとしている。たった、一人きりで。

 僕には到底、真似できそうもないと思いながら、もう一度手紙に目を落とす。


《私が折れずに前を向けたのは、あなたのお陰です。あの日、立ち尽くしていた私を見つけてくれて、ありがとう。すくいあげてくれて、そばにいてくれて、ありがとう》


「……そんな、凄いことなんてしてないよ」


 ポツリ、と。


 誰もいない部屋に、雨音と僕の声だけが響く。


《どうか、私のことは忘れてください。それくらい、あなたにとって大切な存在だったと思いたいな。でもきっと、あなたは私を忘れてくれると思います……そう思う理由は、封筒に入れてある指輪がきっと教えてくれるでしょう。これをあなたに返すために、私はきっと、この場所に辿り着いたんだと思うから……さあ、指輪の内側を覗いてみて》


 あぁ、と。


 声にならない、声がこぼれて。


《それじゃあ、今度こそ本当にさよなら。最後に会えて、良かった。生まれた時から、ずっと愛してくれて、ありがとう。

 またいつか、会える時まで。

 大好きな――さんへ》


 僕のものか彼女のものか、涙の滲んだ文字が愛おしくて、何度も指先でなぞって。

 気付けば僕は、雨の街へと駆け出していた。


 何度も何度も、声の枯れるまで『彼女』の名前を呼んで、どうか忘れてしまわないようにと手紙を握り締めて。

 離さないようにと抱き締めたはずの想いが、花片のように雨へと流され、さよならの街に溶けていく。

 いつしか声は枯れ果てて、何を……誰を、探していたのか、そもそも探していたのかも分からなくなって。


「っ……あぁ……ああぁぁあああっ」


 ただ、愛しいと、その感覚だけが残っているのに。


 気付けば、僕は『天国の門』へと辿り着いていた。雨の降りしきる川のほとりに、誰一人としているはずもないのに、ついさっきまで『誰か』がここにいたような気がして。

 覚えている。カンテラに命の灯をともして、この道を歩いたことを……ただ、それだけ。

 それだけの記憶の欠片が、どうしようもなく暖かくて。だから僕は、僕が役目を終えたことを、悟った。


「……ありがとう」


 確かに大切だった、何かに、誰かに。

 この岸辺に立って、見送ろう。

 どうか幸せであれと、祈りながら――



 死者の川を、一輪の花が流れていく。






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彼方の岸より 雪白楽 @yukishiroraku

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