「虚無とぐるぐる」

蛙鮫

「虚無とぐるぐる」

「お客さん。終電ですよ」

 微睡みと酒気が入り混じる意識の中、謎の声が頭の中に響く。声の主の方に目を向けると車掌だった。


「降りてください。終点です」


「ああ、すみません」

 ふらついた足で車両の外に踏み出すと、そこは見知らぬ駅だった。今日は会社の仲の良い同僚と呑みに行き、話が弾んで呑みすぎてしまった。


 その結果、目的地の駅を通り過ぎて、終点まで来てしまったらしい。


 同僚との会話は基本、同じ趣味の話か、合コンの誘いだ。今まで何度も誘いがあったが、ことごとく断って来た。もちろん、今回もだ。


「痛え」

 呑みすぎたせいか、頭の中でドラムを演奏しているような頭痛が何度も轟いている。目が少し回っているせいか、視界も安定しない。


 千鳥足でなんとか改札をくぐり駅の外を出ると、そこは夜の闇に包まれた田舎だった。虫やカエルの鳴き声が辺りから聞こえて来る。


 幸いにも明日は会社が休みで仕事はないので、始発に乗ってゆっくり家に帰る事が可能だ。


 そばを見渡すと腰を下せば今にも壊れそうな程、年季の入ったベンチがあった。雨風に晒されていたせいか、所々錆びついている。


 それでも今の俺には足を棒にしながら、星空を見る余力はなかった。


「よっこらせ」

 脱力したようにベンチに腰掛けて、満天の星空に目を向けた。どこまでも煌びやかで美しい。


 都会のビルや建物なので人工的な光とは違う、心の底から惹きつけられるような自然の光だ。


 星空を眺めていると、自分が日頃、悩み苦悩している事が馬鹿らしく思えてしまう。


 この地球という一つの惑星にも自分と同様、またそれ以上に過酷な目に遭いながらも地に足を貼っている人々がいるのだ。


 星を見るたびに俺はそれらと心を通わせている気がした。大昔、人間が目に見えないものを信じていた時代からもおそらく、自分と同じ考えを持っている人がいたであろう。


「ん?」

 突如、貼り付けられたような星々が動き出し、無数の星が天から大地にかけて降り注いだ。流れ星である。


 あまりに神々しさに頭からつま先にかけての筋肉、内臓、骨から細胞に至るまで総動員で痙攣を起こし、嘔吐した。


「おえー!」

 吐瀉物とともに不快感が体外に排出されていく。胃の中に残留物は残っていないはずなのに、吐き気が止まらない。搾り出そうとすると胃液が出てきて、口の中に苦味が広がる。


「神様、誓います。もう二度と酒なんて飲みません。だからこの苦しみから解放してください」

 俺は震える両手を重ねながら、幾千の星が煌めく夜空に向かって許しを乞うた。


 体の中を蹂躙していた老廃物を粗方吐き出した後、口から出た食物の残骸を見た。原型を留めていないその姿に虚しさすら感じた。

 僅かに酒気を帯びた意識と涼しい夜風に晒されていると、ふと昔のことを思い出した。これまでの経緯だ。


 俺は母子家庭でお袋の二人暮らしだった。両親は俺が五つの時に離婚し、母に引き取られた。


 小学校の頃、俺はろくに勉強もせず、放課後は家の玄関にランドセルを投げ捨て、日が暮れるまでダチと遊んだ。


 お袋は夜遅くまでパートに行っていたため、俺は毎日、お袋が作り置きした晩飯を食っていた。しかし、心の中にはどこかぽっかりと穴が空いたようなそんな気がしていた。


 中学に入り、友達や同期の連中が部活動に励む中、俺は帰宅部を選択した。


 別に入部しなければならない規定はなかったし、特にやりたいことも見つからなかった。勉強は学生の本分だから、仕方なくやっていた程度だった。


 受験シーズンに差し掛かり、俺は家から自転車で通える近くの高校に入学する事に決定。


 偏差値もさほど高くないため、入試にはさほど苦労はしなかった。高校に入学して人生初、彼女ができた。


 一年の体育祭で同じ班になった事がきっかけで、彼女の方から告白してくれた。身長が俺の顎ほどの高さでやや茶髪のストレートに端正な顔立ち。おまけに愛嬌もあった。俺には勿体無いくらいの女性だった。


 恋人が出来ると自分がどこか他に人よりも大人になった気がして、心地よかった。それから放課後や休日はよく二人で出かけた。日に日に心中を包んでいた虚無感が消えていくのを感じた。


 やがて、年月は経ち高校三年の秋頃、同期の連中が進路に頭を悩ませていた。無論、俺もその一人だ。


 金が欲しかった。変わりたかった。何より早く大人になりたかった。そして高校卒業後、俺は地元の精肉工場に就職。


 ひたすら仕事に打ち込んだ。金を求め続けた。入社してから二年が経ったある日、俺は突然、働く気力を失った。


 まるで真っ直ぐに硬く張った糸がぷつんと切れたように。大人になった実感も持てなくなった。


 金銭を求め、働くのには限界を感じてしまった。それ以上に何かを見出せなくなったのだ。今思えば、俺は単に焦っていただけなのかもしれない。


 大人になりたいという一時の焦燥感で俺は俺を失った。さらにそこに追い打ちをかけるように彼女が別れを切り出して来た。


 別れ際に彼女が俺の目を見て、口を開いた。


「見てくれなかったね。何も」

 抑揚のない声で吐き捨て、踵を返した。彼女は気づいていたのだ。自分が求められていない事。


 大人になるという自身の目標に固執するあまり、彼女との関係が疎かになっていた。


 俺の心の中に絶えず残り続けた虚無感に。彼女に幾度なく向けた優しい言葉や笑みに一切の温もりがない事。


 彼女の事も好きだったのだろうか? きっとあの時も周りより先に大人になりたいという幼稚な言動が働いてしまったのだろう。


 彼女自身も気づいていたのだ。俺がかけてきた言葉が少し小突けば崩れ去るほど脆い物だと。自分という人間が心底、嫌になった。軽蔑した。


 あれ以来、俺は恋をしていない。意図的にしないのか、諦めたのか定かではないが、他者に好意を抱く事がなくなったのだ。


 戻ってこないのは分かっている。あの日々が訪れることはないのは重々、承知だ。全ての人間に一分一秒が分け与えられる。もっと彼女のことを理解して上げれば、今ここで酒の勢いで嘆く事もなかったのかもしれない。


 こうして酒を飲んでいるのも理由も、したくない仕事のストレスを忘れるためだ。金の執着はない。ただ、何もしない事に異常な虚無感を抱いていた。


 それから逃げるために回し車の動かすハムスターのように働き、呑んでを繰り返す毎日。きっと世の中の大半はそんな人ばかりだ。


 大人になるという夢も叶えた。金欲も満足できるくらいに貯まっている。俺があと手にすべきものはなんなのか、自分でも分かっている。


 しかし、一度失敗している分、踏み出す一歩がとてつもなく重く感じるのだ。


「上手くいくかな?」

 気がつくと俺の目に涙が溜まっていた。大人になって初めての涙だ。きっと酒が未だに残っているから感傷的になっているだけかもしれない。

 

 それでも涙を浮かべるほど、思い悩んでいるのだ。この感情は本物だ。


「合コンいこ」


 


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「虚無とぐるぐる」 蛙鮫 @Imori1998

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