ち【散る】

 貴方はいつも私に言って下さいました。すぐに帰って来るからと。お前は何もしないで只僕を待っていれば良いと。だから私は貴方の為に、貴方一人をずっとお待ちしていたのです。私には貴方以外の事を考えることはできませんでした。だから私は貴方の事を待ち続けていたのです。

 貴方が最後に、行って来ると私に告げたのは何時でしょう。貴方が最後に、この部屋に足を踏み入れたのは何時でしょう。貴方は本当に、帰って来るのでしょうか。嘘を仰った事は一度たりとも無かった。だから私は貴方を最後まで信じ抜きたいのです。

 何時帰って来ても良いように、私は今日も夕餉の準備をしました。私の座る向かい側には貴方の食器が並んでおり、まるで二人で食事をしているかのような錯覚に陥る事もしばしばあります。それでも本物の貴方にお会い出来ないのは寂しくて堪りません。どうか、どうか帰って来て下さい。何時までも、此処に居りますから。

 部屋の隅に寒咲き菖蒲が悲しそうに在ります。あの子はもう別の子ですが、何時か貴方は下さいましたね。お前に似合っていると、そう言って菖蒲を渡して下さいました。あの日は今日のように雪が降っていた日でした。あの日が私の誕生日であった事を、貴方はご存じだったのでしょうか。あれは私への贈り物だったのでしょうか。貴方が帰ってきたら、遅くなった理由と共にこれも聞こうと思います。

 初めて下さった寒咲き菖蒲は、一週間以内に私が足を引っかけてしまって、鉢から飛び出てしまったのでしたね。あれ以来、買わないと決めていましたが貴方が恋しくて、つい、貰って来てしまったのです。お許し下さい。貴方がこれを見たら怒るかもしれません。けれど、貴方という存在を感じられる物を近くに置いておきたいのです。貴方が帰って来る事を信じていたいのです。ごめんなさい。

 ヒラリと菖蒲の花弁が落ちました。こんなに寒い夜なのに、窓を開けていたのが悪かったのでしょうか。悲しいですね。こんな事も貴方と悲しみたかったのに、私はこの部屋に只一人。貴方を待つばかり。此処には居ない貴方に話しかけては袖を濡らすだけ。

 ねえ、どうして帰って来ないのです。私が悪いのでしょうか。私の何が良くなかったのでしょうか。お教え下さい。どうかお願いですから、私を独りにしないでください。貴方が居なくては、私は何処を歩けば良いのです。私は何が為に生きなければならないのです。私の全ては貴方が為に。だから、早く、その両腕で私を暖めて下さい。

 隣人の言う、貴方についてのお話は信じておりません。貴方が帰って来ないなど、私は信じません。貴方は、貴方はもうすぐにでも帰って来るのでしょう。そうして私の傍で笑ってこう言うのです、良くここまで待っていてくれたな、と。そうでしょう、そうなのでしょう。

 貴方が居なくなってもう五年になるなんて、そんな事は理由にはならないのです。最後に見た貴方のお顔には緊張が走っていて、こんな未来を見つめていたなど、貴方の口から聞かないと納得いきません。だから、どうか、早く、帰って来て下さい。


ち【散る】最も寂しさを感じる瞬間のひとつ

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