し【幸せ】

 男は夜闇のようなマントの中で小さく震えていた。目の前には真っ赤なベッドと、それに横たわる年老いた女がいる。男はそのベッドの真横に置かれている椅子に腰掛けて、しわだらけの女の手を辛そうな表情で強く握りしめる。

 わかっていた、男は小さく呟いた。

「全てわかっていたつもりだった。お前が先にいってしまうなど、簡単なことだ。理解していたはずなのだが……」

 ぐっと痛みに耐えるような表情で、男は苦しそうに息を吐く。

「お前はもう、死んだのか?」

 返事など来ないとわかっていても、美しいその表情に喋りかけてしまう。寝ているだけのように見える。頬をつついてみれば「やめてくださいな」なんて微笑んでくれるかもしれない、と勘違いさせられる。

 男は立ち上がり、その手を離した。そうしてゆっくりと、彼女に口づけをする。おとぎ話のように自分の姫は起きないだろうかと、望みをかけながら。当然、女が目を覚ますことはない。しかし何となく、微笑んだように見えてしまったのは、男の心の内を投影しただけなのだろうか。脳が勝手に作りだしただけなのだろうか。男は悲しみを含めながら微笑んだ。

「私はね、嬉しいのだよ。自分にもまだ感情があったのだと知ることができて」

 男は涙をこぼすまいと、天井を見上げながら部屋を歩き回る。ふと目についた化粧台の方へと足を動かす。ここでいつもお前はお前を作っていたのだね、と男は鏡に手を触れる。ふっ、と自嘲気味にひとつ笑って、それに背を向けた。それは、鏡に映った自分の哀れな表情ではなく、鏡に何ひとつ映らない自分自身への嘲りであった。

「私がお前と同じであれば、こんなことはなかったのだろうか」

 男の頬に小川が流れる。

「忘れていた。これが悲しみか。これが涙か」

 左手でそれを拭い、ハッと気付いたように指を見つめる。薬指に光るのは、小さな宝石のついた指輪だった。あの日、女と交わした契りを思い出す。死んでも一緒にいようね、彼女はそう言った。それにどんな言葉を返したのだったか、男には思い出せなかった。彼女を愛していたことも、些細な幸福も全て昨日のことのように覚えているのに。

 男は赤い宝石のついた指輪を外し、それを飲み込んだ。顔をしかめながらも、内蔵へと押し込む。

「お前は以前、子が欲しいと言っていたな」

 ゆっくりとカーテンを開きながら、男は言葉を紡いでいく。

「私は知っていたのだ。私とお前の間では子ができないことを」

 眩しいくらいの陽の光が入ってくる。見下ろした街は人で賑わい、喜ばしい叫びが鼓膜を震わせる。ありふれた、しかし美しい昼だ。

「お前を私の眷属にしたならば可能だったかもしれない。しかしそれは――」

 さらさらと、音を立てながら男は徐々に灰になっていく。いつの間にか開かれていた窓から、風に乗って飛んでいく。

「私が嫌だったんだ。イザベラ、お前はお前のままが一番美しい」

 そう言うと、男の存在は消え去った。ただひとつ、ルビーの指輪のみを残して。


し【幸せ】誰もが求めるそれは、蜃気楼

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