か【影】

 夜は嫌いだ。辺りが真っ暗で、その闇に誰かがいるように錯覚するから。窓の外から覗いてくる夜闇が、私を嗤っているような気がするから。今日もひとりで泣く夜が辛い。

 全部私のせいだ。朝スマホのアラームが鳴らなかったのは、設定を直すのを忘れていたから。データ入力のミスがあったのは、焦っていたから。お昼ご飯がなかったのは、お財布を忘れたから。あのとき転んだのは、堅苦しいスーツやヒールにまだ慣れていなかったから。コーヒーを先輩にかけてしまったのは、靴擦れを起こしていたから。

 本当はわかってる。これら全部私のせいじゃない。みんな私を嫌っているから、私をいじめているの。勝手にスマホをいじられて、作った文書を書き換えられて、鞄から財布を抜かれて、足もかけられて。散々だ。違う会社に勤めたかった。けれど面接に落ちたから、仕方のないこと。

 私の何がそんなに気に食わないのかわからないけど、社内の全ての人間に悪意を向けられているのは確か。私が何をしたっていうの。信じられない。

 窓を開けたままだったのか、カーテンが風をはらんで揺れた。向こう側に私を嘲笑う黒が見える。夜は嫌いだ。どんなところでも幻が見える。濃い闇が私を責めてくる。「お前のせいだ、馬鹿なお前のせいだ」なんて言葉で私を潰そうとしてくる。

 怖くてたまらない。何処にだって私の居場所はないから。実家に帰っても厳しい両親が叱ってくる。どうして逃げてくるの、どうしてこんなに出来損ないなの、って。もちろん会社にだってない。本当にお前は何も出来ないな、何をしたらこんな失敗をするんだ。友だちはもういなくなった。あんな田舎から上京してきたのは、私ただ一人だったから。画面の向こうにはいるのかもしれない。けれど、文字だけなんて真意が見えなくて、怖くなった。本当は嫌われているかもしれない、なんて考えながらやりとりをするくらいなら。連絡先は全部消して、アドレスも変えた。私はひとりぼっち。

「ひとりなんかじゃない」

 風に乗って入ってきた声は、少し不気味で不安をあおるようだった。でも私を包んでくれるこの声色は、どこか温かくて、夢を見ているような感覚になる。

「こちらへおいで」

 顔を上げて窓の外を見てみる。誰もいない。なのに何かが手招きしている、そんな気がする。私には見えない何かが、見えてはいけないものたちが、私を呼んでいる。

「らくにしてあげる」

 楽になれるならそれでもいい。きっとヒトではないものに呼ばれているのだろうけれど、こんな地獄みたいな人生から逃げられるならなんでもいい。結い上げていた髪はぐしゃぐしゃで、数日前にアイロンをかけたはずのこのブラウスもボロボロ。きっとメイクもさっきの涙で中途半端に落ちていて、目も腫れている。こんな醜い人間、私しかいない。

「こっちはたのしいよ」

 脳内で上映が始まった。いわゆる、走馬灯、なのかもしれなかった。

 その中で私は、笑っている。懐かしい友人たちと、愛すべき兄姉たちと、片想いだった彼と、微笑み合っている。もうやめて、もういいよ。そんなもの、ただのマボロシにすぎないのに。現実に起きてはいない夢物語なんだから。

 手の甲で濡れた頬を拭い、裸足を引きずりながら誘惑の場所へと進む。暗くて何も見えないトンネルの奥深く。あれ、こんなところにトンネルなんてあったんだっけ。まぁ、いいや。

 赤い光が差し込む出口付近、見覚えのある女性が目を細めているのが見えた。


か【影】どこにでもいて、嘲笑ってくるもうひとつの自分

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