第30話 婚約者

 俺は先生の元に急いで駆けつける。


「先生!」

「八神君……!?」


 基本ポーカーフェイスの桜子先生だが、さすがに驚いている。


「どうして先生がここに!?」

「それは――」


「それは私が招待したからだよ、八神君」


 真後ろから声がする。

 俺はゆっくり振り向いた。


「あなたは……」


 さきほどキックボクサーを故障させた柔術家、早乙女諒一だ。


「初めまして。桜子さんの婚約者、早乙女諒一だ」

「婚約者……?」


 紫乃が、先生の縁談は破談になったと言っていたはずだが? また別の話が舞い込んできたということか?

 しかし、こいつと結婚などして大丈夫なのだろうか? どう見てもまともな人間とは思えないが。


「1回振られてしまったんだが、君のおかげで寄りを戻すことができた。礼を言うよ。――これ、受け取ってくれたまえ。今日のファイトマネーだ」


 早乙女諒一は、俺に封筒を手渡してきた。おそらく数十万円が入っているだろう。


 つまり先生とこいつの縁談は1度破談になったものの、俺が何かに関わったことで、婚約するに至ったということか。


「……先生、いったいどういうことですか?」


 桜子先生は、ばつが悪そうに押し黙る。


「八神君。君の停学処分を、桜子さんの御父上が揉み消したことは知っているかな?」

「はい、先生が頼んでくれたと聞いています」


「うむ。その時、桜子さんにある条件が出されてね。――率直に言うと、私との婚約だ」


 何だと!? 先生は俺の停学を避けるためだけに、好きでもない奴と結婚しようというのか!


「先生! 別に停学くらい、どうってことないですよ! まったく割に合ってません!」

「分かってないな八神君。君が殴った鬼頭君だがね、あの家はかなりの資産家なのだよ? 私の家とも関わりがあるくらいにね。学校にも、かなりの額を寄付していたそうだ。これがどういうことか分かるね?」


 そうか……鬼頭は親に頼んで、自分の停学を揉み消し、俺を退学にすることもできたということか……。

 それを潰したということは、先生のお父上は相当な金額を積んだか、誰かに大きな貸しを作ったに違いない。


「先生……すみません……! 俺のために……!」

「ん、いいの……元は私が悪いから」


 最悪だ……まさか俺のせいで、先生がこんなことになってしまうなんて……!


「という訳だ。本当君には感謝している。いつか礼を言おうと思っていたんだが、君から来てくれて助かったよ」


 俺は無言で、じっと早乙女諒一を見据える。


「あんまり良い目じゃないな……君もボクサーなのだから分かるだろう? 格闘家を威圧すれば、どうなるかを……」

「諒一さん、やめて」


 早乙女は「ふっ」と笑う。


「冗談ですよ桜子さん。――ところで、私の戦いぶりはいかがでしたか? 初めての光景に興奮してしまったのでは?」

「最悪だった」


 早乙女は再び「ふふっ」と笑った。


「それは残念です。ですがいずれ、うずいて仕方なくなるほどの興奮を味わえるようになるでしょう。約束しますよ」


 こいつ、マジ気持ちわりいな。

 ナルシストでドSで、先生が縁談を断った理由がよく分かる。



「――じゃあ、行きましょうか。ホテルのスイートを予約してあります」


 早乙女諒一は、先生に手を差し伸べた。


 なに……? ホテルだと……?

 俺の心の底に、ドス黒いものが渦巻く。


 俺は、早乙女に金が入った封筒を突き返した。


「おや……? どういうことかな?」

「先生があなたのものになるなど、俺は認めない」


「ふん……男のジェラシーはみっともないぞ、八神君」

「違う! 俺は先生の父親と、あんたの卑怯なやり方が許せないだけだ!」


 正直言おう。早乙女の言うとおりだ。

 俺の心に沸いた怒りは、正義感からくるものだと思っていた。

 だがこの感情は、嫉妬や独占欲といったものに近い。要するに俺は、先生を他の男にとられたくないのだ。

 1人の女に執着するような性格だとは思っていなかったので、俺自身驚いている。



「調子に乗るなよ小僧……私は早乙女医院を継ぐ男なのだ。本来君のような一般庶民が、たやすく口を利いて良い存在ではない」

「そうですか。では黙りましょう。あなたを止めるのに、言葉は必要ないので」


 早乙女は腹を抱えて笑う。


「まさか、この私を力尽くで止めるとでも!? ははは! 愉快! 実に愉快だ!」

「ええ、やってみせますよ」

「八神君! ダメ!」

「八神、やめておけ! まだお前は1か月未満のヒヨッコなんだぞ!?」


 迫田さんの話を聞いて、早乙女はさらに大笑いする。


「ははははは! なんだそれは!? 素人にうぶ毛が生えたようなものじゃないか! ははははは! 傑作だ! 八神君、君は良いお笑い芸人になれるよ!」

「……おや、じゃあ逃げるんですね?」


 早乙女はピタリと笑うのをやめ、冷酷な表情を見せる。


「……いいだろう。そこまで言うのであれば相手してやる」

「諒一さん、八神君、やめて!」


 桜子先生が悲痛な表情で、俺達の間に入る。



[1、ファイトマネーを受け取り、黙って去る]

[2、早乙女諒一に、紳士的な振る舞いをお願いしてから去る]



 は!? なぜ戦う選択肢がない! ふざけるなよ!

 このまま黙って帰ることの何が青春、何が恋か!

 こんな選択肢は無視してやる! 災厄上等だ! かかって来い!


「じゃあ、対戦の受付をしに行きましょう!」

「うむ。覚悟しておけよ?」


「八神君!」

「すみません先生。ここで退くことはできないです」


 平穏を愛する超絶陰キャの俺が吐いた台詞とは、とても思えない。

 俺の中で、何かが変化し始めている。


 こうして俺は、外科医にして柔術家、早乙女諒一と戦うこととなった。

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