小説「父さんを殺したのは誰」
有原野分
父さんを殺したのは誰
一
朝は四時過ぎ。悪い夢を見た訳でも無く、尿意が迫ってきた訳でも無い。また寝たという満足感も無くHは目が覚めた。目覚めが悪い中、明日の仕事、そして起きなければならない時間を考えまた眠りに就こうとする。後二時間弱は眠れる、と。
問題はただ眠れなかった。Hの部屋は二階の階段を上がり廊下を挟んで二部屋左右に分かれている所から向って西日の射す場所にあった。幽霊が怖い訳でもない。幽霊を信じていない訳では無いが、特に怖くは無かった。下の階には母と弟が眠っている筈だった。
ただ、Hはこのように眠れない夜が頻繁にあった。彼は特に母と弟には何も言わず、疲れてる、とだけ言っていた。ただ、一度だけ酔った勢いで怖いと言った事があったが誰も何も言わなかった。
トイレは階段を下りたすぐ横にあった。トイレの横には弟の部屋がある為、夜中の清らかな空気を排水の汚い音で壊すのは何かと気が引けた。その為か彼は余計に眠れなかった。尿意は無いが何故かトイレに行きたくなる。彼は暗闇の中、布団に包まり音を良く聞いていた。外からは虫の鳴く声が遠くから聞こえてくる。それがだんだんと近づいて来たかと思うと、次の瞬間、音が部屋の中に入って来たかの様な感覚に陥った。寝がえりをうつ。布団が擦れる音が耳を虫の声から遠ざけた。
Hの反対側の部屋からは何も聞こえないが、時折、誰かが居る様な気配がした。彼はその度に眠れなくなっていた。
Hは夜中に起きるたびに陰鬱な気分になった。それは虫の声と同じで夜中に紛れてゆっくりと部屋に入ってきた。この世が自分を残して全て消えてしまったのでは、と考えては目を堅く瞑る。瞼の裏の世界。奇形な何かが鬱を運んで来ては彼を苦しめた。彼の心は不安と惨めな気持ちで膨張し、明日がまた始まると考えただけで嫌気が差した。それでも朝日は必ず射すだろう。――もう、いいんだ。何もかも。このままで。
彼の父親が自殺したのは丁度その部屋であった。
二
Hの父親が亡くなったのは今から十九年前、彼が七歳の時であった。某大学病院の精神科で助手をしていた父親は休みが不定期であった為、なかなか息子と遊ぶ事は無かったが、まだ幼かったHはそれでも父親に威厳を感じており、単に好きであった。それは幼い彼が父親は大きい病院のお医者さんだと思っていたからである。しがない助手だと知ったのは大人になってからであった。
週末の夜は街も人も落ち着かない。かじかむ指をポケットの中で擦りながらHは駅から家の帰宅路とは逆の道を歩いていた。五分も歩けば人通りは減り、より夜が深くなっていく。自分の靴の音が聞こえる。Hはとあるバーの前で立ち止まり中の様子を伺い、ほっと溜息をついてドアを開けた。温かい空気が安物のコートを優しく包んだ。狭い店内で数名の客が彼に振り向いたがすぐに首を戻した。店の名前もあながち面白いものだなと思いカウンターに座った。――夜の宿り木に集まるは「フクロウ」か。
Hは月に数回ここに来ては一人酒を飲んで物思いに耽るのが習慣になっていた。初めに来た時はただ泣いていた。ここのマスターと父親が同期のよしみだったのでただ話を聞きたかったのだ。どういう人だったか、何故結婚して子供を作ったのか、そして何故死んだのか。
髭面のマスターは如何にもという風貌で淡々と酒を作り、淡々と話をし、淡々と泣いてくれた。マスターの話によると、Hの父親は昔から物腰が柔らかく(確かにHは父親に怒鳴られた記憶が無い)いつもにこやかで、困っている人を放って置けない性質だったらしい。誰とも喧嘩をせずに決して自分を出さなかったが、人当たりが良く皆からはとても好かれていた、とマスターは話してくれた。Hはその度に良く泣いていた。
それからというもの、Hは度々この店に顔を出しては酒を飲み、色々と考えた。家に居ては考えられなかった。家族の中、特に母親の前での「父親」と言うセリフは暗黙のタブーになっていたからだ。当時は時間が経てば解決するはずだと信じていたが心の傷は火傷みたいに死ぬまで消えはしないと最近理解した。――せめて理由が欲しい。
遺書も無く首を吊った。Hは自分のせいだと思っていた。まだ幼い時分、幼稚園で書いた父親の似顔絵を見せた時だった。父親は何も言わずにっこりしていたが、どこか悲しそうな目をしていた。愛情が無かったとは思わなかったが、彼はどこか他人行儀な気がした。当時はそれが普通だと思っていたが、今考えると夫婦の仲も良くも無く悪くも無く、静かだった。――つまりはそういう事か。
Hの考えでは、父親は妻を、つまりは母親を愛してはいなかったのだ。何故結婚したのか。自分が生まれてしまったからだ。人の良い父親は責任を感じ嫌がなしに結婚したんだろう。もしかして何か夢もあったかも知れない。ただ、子供と家族の為にしがない助手をして自分を殺していたのかも知れない。Hはいつもこう考えては深い闇に入りビールをおかわりしていた。そして弟の事を考えた。
弟のTはHの四つ下で今年大学を卒業する。Hは特に何も聞いていないが、就職するつもりは無いみたいで暫くはアルバイトで過ごすみたいだ。少し前は極たまにこのバーで一緒に飲んだものだが、最近は無くなった。飲むと言っても特に会話は無かったがそれでもHは楽しかった。自分にも仲間が、兄弟が、家族が居るんだという気持ちで不思議と心が軽くなっていた。前は居酒屋のバイトをしていると言っていたが、今は何をしているかも分からなかった。
Hはふと携帯を取り出し、Tにメールを送った。――今から、来れないか?
三
夜中の三時、まだ帰らない客のおかげでなかなか閉店作業が進まずにTは心底苛々していた。彼の働いている居酒屋は通常二時閉店なのだが、この日に限って一組のカップルがいつまでもぐだって帰る様子がない。今しがたもお帰りの催促に行ったのだが、何やら喧嘩の様でお互いの目が血走り、女の方は涙も見えた。店にはこの一組と店の店長に彼しか居ない。
Tは早く家に帰りたい訳では無かったが、早くこの状況から抜け出したかった。明日は昼間からバンドの練習があるし、店長とぐだぐだ話をするのが億劫だった。何より今日は朝までのクラブイベントに行く予定であったのだ。早く行って酒を飲んで仲間と遊びたかった。
Tが客の見えるカウンターから無言で睨みを飛ばそうがこのカップルは微動だにせず、空っぽのグラスを握りしめている。そこにレジを閉め終わった店長が戻ってきた。彼は舌打ちしそうになったのを抑え、ぎこちない笑顔を作った。店長は良くこう言ってきた。「君は本当に偉いよ。お父さんが居ないのを苦にもせずに。若いうちは苦労しろと言うが、君は大丈夫のようだね」と。彼はそれを聞く度に言い表せれない怒りと悲しみが胸に込み上げてきたが、普通の顔を装い適当な事を言っては孤独に苛まれていた。
三十分後、最後の客が帰ったのを見届けるとTは急かす様に作業を終わらした。店長が着替え終わるのを待つより先に挨拶をし店を後にした。夜中の冷たい空気が火照った体を突き刺す。彼は煙草に火を点け、携帯を取り出しながら自転車に跨った。先にクラブに行っている友達に電話をしようと見たら新着メール有り。何か嫌な予感がしたTは一瞬目を携帯から逸らした。そして煙を吐き、ボタンを押した。――今から、来れないか?
その日Tはクラブには行かずまっすぐ家に帰った。ゆっくり玄関を開け、そっと自分の部屋に入り寝仕度を始め、一日を終わらそうとした。布団に入り電気を消し天井を眺めた。時間がゆっくりと落ち着いていく中、彼は考えた。この上の部屋で親父は死んだんだな、と。そう考えると彼は胸が熱くなってきた。今にも天井が崩れ落ち、そこから首を吊った親父が落ちてくる。彼は殴った。ひたすら殴った。――もし会えたら、殺してやる。
Tは父親を恨んでいた。何故自分を、兄弟を、そしてお袋を残して死んだのか。彼はまだ四歳であった。幼い彼の心は穴が開いた。とても深くどこまでも暗い穴。無責任すぎると彼は思った。そんなことなら初めから俺を作るなよ、と。彼は泣いた。天井を睨みながら、声を殺し、親父を殺し泣いた。――…兄貴はもう、寝たのかな。
次の日のバンド練習を休んだTは夕方まで布団の中に籠っていた。日が傾き始めた頃、家を出た。向った先は宿り木「フクロウ」
彼は今日初めてそのバーに一人で入った。
四
ごめんなさい。でも私は今でも貴方を愛しています。
貴方は私の事をどう思っていたのかは今となっては分かりませんが、
いえ、きっと私のせいなのです。
貴方を苦しめるつもりはありませんでした。
本当にごめんなさい。
それでも私は幸せ者でした。心の底からそう思います。
今までは只々不束な私でしたが感謝の言葉もありません。
最後に、
子供を恨まないで下さい。
皆、今でも貴方を愛しております。
妻・Rより
五
夕方の影が、冷気を吐き出しながら街を徘徊する。店の鍵を開け暗い店内の電気を点けたマスターはまず昨晩の余韻の残ったカウンターに座り煙草を吸った。店を始めてもう約二十年の店内は老舗とはいかないがそれなりの寂れた雰囲気が漂っていた。マスターは壁や天井を見廻し、自分の髭を掻きむしった。――俺も歳を取ったな。
開店作業、店内清掃、発注業務、いつもと変わらない毎日だった。ただ時間は過ぎ行く。物は朽ちていき、また新しい物が作られる。木は枯れてはまた花が咲く。年寄りは死んでいく。大人が年寄りになる。そして子供は大人になっていく。
昨夜、店にはHが来ていた。マスターは彼を見る度に昔を思い出す。まるで若い時のあいつそっくりなHは今にも自分を過去に連れて行く。
地元が同じことで良く一緒に遊んだが高校ぐらいからはあまり連絡を取らくなった。それからはもう光の様に時間が過ぎ去った。お互い仕事に家族に、気が付いたら亡くなっていた。あまりの事で涙は出なかった。マスターは葬式の一週間後に退社し、夢だったバーを開いた。――人はいつか死ぬんだ。でも一体…。
時間は止まらない。店を開き十数年経ったある日、彼はふと全てが空虚に思えた。人生は長い。人の一生はあっと言う間だと言うが、俺には長すぎると思っていた。そんな矢先だった。Hが店に来たのは。昔のあいつと瓜二つ。マスターは思い出と懐かしさをHに語った。そして泣いた。こんなにも苦く切ない酒があるなんて思いもしなかった。
それからは定期的にHが店に来る様になった。たまに弟とも来ているが極稀だった。二人はぎこちなかった。ただやはり兄弟だった。不自然な程に。
日常は穏やかに崩される。そして何かが消えては生まれる。平穏の中には影がのっそり座っている。マスターは昨日来たHを思い出し、そんな事を考えていた。店の看板を表に出し、小一時間が経つ頃に、風が店内を駆け回った。
マスターの目の前には弟のTが座っている。ビールを三杯飲み終わる頃には店はにぎわってきた。始めて一人で来たTを気遣ってマスターはサービスでミックスナッツをそっと置いた。Tは無言のまま会釈をし、下を向いたままゆっくり食べてはビールを飲んだ。一口一口を確認するかの様にゆっくりと。目は潤んでいた。真っ赤に燃えていた。
Tは五杯目のビールを半分残し、帰って行った。また来ます、と一言聞こえた気がしたがマスターには分からなかった。――もう、俺も歳だな。
六
走馬灯が見える。
意外と苦しくは無い。
H、T、そして最愛のR。
…私はまだ死にたくない。
ごめん。そしてありがとう。
故・Yより
七
「…結局の所はこういう事ですよ。あの患者はまず治る見込みが無くてね。肩書きは助手でしたが実際は通勤では無く通院ですよ。分かりますか。つまり自殺でも他殺でも無いんですよ。所謂ところの病死ですかね。ええ、それは勿論、奥さんは立派でしたよ。みんなが幸せかは分かりませんが、人間は自分勝手ですからねぇ。今回のケースは残念でしたよ。ただただ切ないしか残りませんでした。そう、切ないです。
ところで、話は変わりますが私はサスペンスが嫌いでね。いえいえ、別に意味なんて無いですがね。現実には何もありませんよ。ここに来る患者だって皆同じですよ。あなただって至極同じなんですよ。…ではもう仕事もありますし、お引き取り下さい。」
小説「父さんを殺したのは誰」 有原野分 @yujiarihara
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