2懐古ナイフ

 私たちはカフェの一番端の席で、たくさんのことを話した。彼の声は時に懐かしむように、時に悲しみを帯びていた。

 私には彼が今の彼女を愛しているようにはとても見えなかった。独りだと寂しいから傍に置いている、そんな様子だった。或いはこれは思い過ごしかもしれないし、仮に事実だったとしても少し解釈が違っているかもしれない。私には彼が濡れた犬に見えたのだ。


「そろそろ行こうか」


 彼は私の目を見て言った。彼の右目の下にホクロが出来ていた。

 私が頷くと彼はそれを合図に立ち上がった。

 ふと、窓の外に目をやると原付を押している青色のシャツを着た男がいた。男の押している原付には小さな子供が乗っていて、男と同じようにハンドルを握っていた。子供の赤いシャツが印象的だった。

 お会計は全て彼が出してくれた。数年前ならこんなことはなかっただろうと思って私は少し笑った。学生は常に金欠なのだ。

 車が何台か傍を通った。埃のにおいがするセダンと、どっしりとしたヴォクシーと、妙な圧を感じるパトカーの順に細い道をすり抜けていった。

 私たちは何度も一列になったり隣り合ったりした。私は彼の後ろに回るたびに彼の背中を見た。何度も見返すうちに違和感は消えていった。そして、意外なことに私はその少し細い彼の背中が割と好きだった。今なら、思いっきり抱きついても振りほどくことはできないだろうなと思った。

 公園を見ると青々とした葉っぱが夏の日差しを受けてきらきらと光っていた。セミの声はまだ聞こえない。ただ、気温ばかりが馬鹿に高い。


「ここを右に行ったらすぐだよ」


 私は彼を先導するように少し前を歩いた。そして、少し振り向いて彼の方を見た。


「喉乾かない?」


 彼はシャツの襟をつかんで内側に空気を送るようにパタパタと扇いだ。頬を伝うように汗の粒がひとつだけ落ちた。


「コンビニよる?」


「近い?」


「うん、通り道にセブンがある」


「じゃ、お言葉に甘えて…」


 そうしてまた私たちは歩き出した。雀の鳴き声をBGMにして。



 私の家に男性が入るのはこれが初めてだった。でも、不思議と彼の姿はまるで昔からそこにあった置物みたいになじんでいた。彼は地べたに胡坐をかいて座った。

 彼は鏡を見るように何もついていないテレビを見つめていた。たまに髪の毛に触れたり首の皮をひっぱたりしていた。

 私は棚から映画のDVDを出していた。緑色の背景に白い顔の女性がにやりと笑っている。中でも唇の赤が一際目立っていた。


「ずっと見たかったの。2001年のフランス映画なのよ」


 私はその特徴的な表紙を彼に向かってかざした。


「いいね、面白そう。コメディ映画?」


「うん。まぁ調べた感じだとロマンスコメディらしいね」


 私はそうつぶやきながらDVDデッキに円盤を差し込んだ。デッキはするするとそれを飲み込むと、ぎぎぃ、うぃーんと壊れかけのファンファーレのような音をたてた。


 映画の中に登場する主人公はとても奇妙だった。私は彼女と自分の過去を少しだけ重ねて、少しドキッとしたしとても嬉しくなった。まるで自分が映画に出ているみたいだと思った。それくらい映画は面白くて、没入感もあった。

 私が幼い時から母はいなくて、父はついに死ぬまで母はどうしているのかを教えてくれなかった。

 空想も好きだったし、そのせいで変わり者だと馬鹿にされたこともあった。けれども、私の目には周りの人も私と同じような変わり者ばかりのように見えた。だって、みんな同じ時間に登校して同じTV番組の話をするなんて変だし、足が速い男の子がかっこいいなんて言うのも意味が分からなかった。

 ペットボトルのキャップばかり集める人もいたし、お気に入りのタオルを離さない子もいたのに何で少し空想してそのことを話しただけで変人扱いを受けないといけなかったんだろうと、私はいまだに根に持っているのだ。

 映画のラストシーンはキスで終わっていた。私は世の中の恋愛はおおよそこの映画みたいに遠回りと少しの関心と分かち合える趣味で成り立っているという仮説を心の中で提唱した。

 映画が終わると私は自分のベットに腰を掛けた。彼の体のすぐ横に私の足が寄り添うようにやさしく鎮座する。

 映画が始まる前にカーテンを閉め切ったので、部屋の中にはかすかに漏れる月光だけが漂っていた。私は何も言わなかった。彼もおしゃべりな人間ではなかった。今ここには何もない気がした。音も香りも自分の質量さえどこかに吸いこまれてしまったようだ。


「女の子が好きなんでしょ?」


 彼が子供のように言った。


「ええ、けれどあなたは別かもしれない」


 私はそのままの気持ちを伝えた。断言するには証拠が少なすぎるし、かといって何も言わなければ今度は彼の方から私を拒絶するような気がしたから。

 私はそのまま、シーツに背中をつけて足をベットの中に収めた。天井はかすかな光を受けて薄暗く怪しげに光っていた。

 少し間があって、私の足元が沈んだ。それは、彼の体重によるものだった。脛あたりから太ももにかけて彼はゆっくりと私を撫でた。

 彼の掌が私の中に滑り込んでくる感触を久々に感じる。彼の体がベットの中に侵入してくる。彼の顔が暗がりの中に浮かんでいるように見える。



 私は彼に悪いことをした。やはり、彼は悪い人ではなかった。ただ、私の右頬ばかり触るので過去のトラウマが想起されてしまった。

 そして、触れるたびに腕輪が月光に照らされて眩く光るので、自分の行為が、或いは好意が禁忌のような、許されないもののような気がしたのだ。

 私は彼の体を無理やり突き飛ばした。彼は案外簡単にベッドの奥に転がって、壁に背中をぶつけた。

 私はまだ、下着しか脱がされていなかった。


「どうしたんだよ」


 その彼の声も無視して、そのまま部屋を出ていってしまった。

 彼に悪いことをした。真夜中、蒸し暑い真夜中。私はただ、その暗がりの中に、溶け込んでいた。

 虫の声がするが姿は見えない。この夜を少しでも慰めるためのチンケなSEのように聞こえた。

 公園に立っている電灯の情けで、私は自分の体の一部をなんとか視認できる。

 部屋での私の気持ちとカフェでの気持ちはまるっきり違っていた。きっと、彼の姿を鼻先三寸にまで感じて、私の心はあの頃‥‥つまり、中学生の心に戻ってしまったのだ。

 アイデンティティーも情緒も不安定だったあの頃に。


「探したよ」


 わざとらしい程の柔らかい声がした。

 顔をあげると、彼が立っていた。私はまだ、自分の考えや言葉を整理できていなかった。

 私が何も言わないでいると、彼はスッと左手を差し出してきた。


「鍵が机の上にあったから閉めてきた。あとこれ、履かずに行ったから‥‥」


 手には私が脱いだ下着と家の鍵が握られていた。

 彼は悪い人ではなかった。ただ、デリカシーがないのだ。


「じゃ、もう帰るから。悪かったな、無理にしたみたいで」


 彼はそう言うと小さく手を振った。その後、私の前から消えるように歩き出した。


「ごめんね」


 私は立ち上がって彼の背中にそう言った。


「こっちから誘ったのに」


 私がそう言うと、彼は少しずつ振り返った。


「いいんだよ。次は声かけないようにするから」


 彼は困ったような微小を浮かべながらそう言った。


「あと、ブレスレットは彼女じゃなくて、彼氏に貰ったんだ」


私は聞き間違いをしたのかと、自分の耳を疑った。


「俺も同じ性の人が好きだから、美咲の気持ち少しだけ分かる。だけど、こんなことは今日でおしまいにしておこう」


私は頷いた。驚いたまま。


「大丈夫、美咲。君は間違ってないよ」


 土を蹴る音が消えて、コンクリートの上を音もなく歩いていく彼を、私は見送った。



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同性・同盟・すれ違い Lie街 @keionrenmaro

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