@gurasaaaan


物心ついた時にはすでに、親というものの存在はなかった。親に抱っこしてもらった記憶もなければ、一緒にどこかへ出かけた記憶もない。でも周りにもそういうやつが多かったから、特段寂しく感じたことはなかったし、それが当たり前だと思っていた。普段の生活においても同じだった。起きて、お腹が空いたらご飯を食べて、疲れたら休憩する。その繰り返しで、それが当たり前だった。

ただ一つ僕が他と違っていたのは、何も考えずにぼうっとするのが好きなことだった。ぼうっと、空気中に漂うように浮かび、この世界とか、自分の存在とか、そういったもの全てから解放される時間が好きだった。あるときは木の上で。また、あるときは花畑で。色んな場所で、ただぼうっとしていた。周りからは、「どうしてそんなことをするんだ」「危険だからやめておけ」「いつ死ぬかわからない」等、散々言われたし、いつの日だったかぼうっとしたままうっかり道路に飛び出してしまい、車に撥ねられそうになったことがあった。それでも止めることはできなかった。その時間だけが生きている実感を僕に与えてくれた。僕の意思は、そこにだけ存在した。 

ぼうっとして何の気なしに人の家に入ってしまうこともよくあった。そんな時には、家主にバレないよう、隙を見計らって窓から出て行くことにしている。普通の人間は何と無く他人の家に入ったりはしないらしい。


ある日たまたま入ってしまった人の家で、あいつに出会った。

「なにしてるの?」冷蔵庫の影からダイニングを覗くあいつに僕は聞いた。

「リンゴを食べてみたくてね」

なにを言っているんだろうこいつは。そう思った。

「お前も行くか?」

「どういうこと?」

「あっちに行ってあれをとってくるんだよ」

「そんなの、だめだよ。そもそも人の家に勝手に入っちゃいけないし、それに」

「じゃあどうしてお前はここにいるんだよ」

「それは、僕はただぼうっとしてて、気づいたら……」

「ああなんかシケたわ。やめたやめた、じゃあな」

そう言ってあいつは窓から出て行った。


それからも何度かあいつを見かけることがあったが、どう考えてもあいつは変わっていた。あるときは、「俺は本能に逆らう」とか言ってみんなとは反対方向の暗闇に消えていった。またあるときは、「己の力を試す」とか言って僕たちが踊っているのには目もくれず、街ゆく女の子に声をかけていた。あいつを「気持ち悪い」と言うものもいれば「顔はいいのになあ」と残念がるものもいた。あいつの言動は、僕にも何一つ理解できなかったが、あいつが今度は何をするのか、いつも楽しみにしていた。

そんなある日、気づくとまたどこかの家に入り込んでいた。窓から出て行こうとした時、ふと何かが視界に入った。いつもなら気にもとめず脱出を図るのだが、なぜだかその日は気になった。外に出かかっていた体を反転させ、その何かに近づいていった。それは綺麗な色をした巨大な丸い石だった。光は感じるがいつも見ているそれとは違う。吸い込まれるような模様で、このままずっと見つめていたい、そんな事を考えていた時、どこからか気配を感じて慌てて窓から外に出た。外から中を覗いてみると家主がいた。危ないところだった、もし見つかっていたらはただでは済まなかっただろう。次はもっと用心しなければ。


次にあいつを見かけた時、隣には女の子がいた。色白で可愛らしくて、礼儀正しい子だった。周りには「なんであんな良い子があいつなんかと」とやっかむ声もあったが、あいつはそんなことは全く気にしていない様子だった。それどころか「この子と一緒になる」とまで言っていて、さすがにそれは無理だろうと思ったが、不思議と二人に対して嫌悪感などを抱くことはなかった。

僕はと言うと、たまにあの巨大な石を見に行っては、家主に見つかりそうになるぎりぎりまで、その美しさに見とれていた。この石はいったい何なのか、どうして光っているのか。他の家にも同じようなものはあるのか。そんな疑問が頭に沸いてきて、他の場所へ行ってみようかなんて考えてもみたけれど、それ以上のことはしなかった。何日もそうしているうちに、そんな疑問すら消えていた。


「知ってるか? フィクションの中では、虫は都合のいい場面にしか登場しないんだぜ」

それからまた何日か経ったある日、あいつは突然僕の所にやってきてそう言った。またいつもの調子で意味の分からないことを言い出したと思い、相手にもしなかった。冷たいリアクションに傷ついたのか、心なしか少し悲しそうな顔をして去って行った。あいつの隣に例の女の子はいなかった。

 その日以来、あいつを見かけることはなくなった。何を考えてるのかわからないやつだから、どこかに消えてしまったなら、もう二度と会うことはないだろうなと思った。しかし、その奇行はやはり周りからも注目の的だったようで、すぐに消息を知ることとなった。

「あの女、死んだらしい」

 風の噂でそう聞いたのは、あいつが消えてからわずか二日ほど後のことだった。噂はすぐに広まり、「自殺だったらしい」とか「恋人と駆け落ちしたらしい」とか、様々な情報が好き勝手に足されていった。死んだのはおそらく事実なのだろう。思ったほどすんなりとそれを受け止めている自分がいたが、あいつが自殺をするようなやつだとは、どうしても思えなかった。特別あいつと親しかったわけでもないし、結局最後まであいつの考えていることはわからなかったから、何か特別な悩みを抱えていたのかもしれない。思い描く理想と現実のギャップに絶望していたのかもしれない。それでも、あいつが自らの旅の終着点に、自らの命を絶つ選択をするとは思えなかった、いや、思いたくなかったのかもしれない。


それからどれだけの月日がたったかはわからない。僕の生活は、あの日を境に一変した、などということはない。毎日ご飯を食べて、疲れたら休憩する。その繰り返し。それが僕たちみたいな生き物の性だからだ。あいつみたいに本能に逆らったりはできない。光にはついつい集まっちゃうし、パートナーを探すためにはみんなと一緒になって踊る。相変わらず、ぼうっとするのも好きだ。でもあの時と違うのは、それを『選択』するようになったことだ。今日は天気が良いから、風が気持ちいいから、綺麗な花を見ながら、ぼうっとする。己と現実を引き剥がして、ただ繰り返される毎日から目を逸らしていた日々とは違う。だから、間違って誰かの家に入ってしまうなんてこともなくなった。今はただ、もっと色々な所に行って、色々な景色を見てみたいと思う。

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