四話『カキツバタ』

 信心が必ずしも報われるとは限らない。

 祈りを捧げたところで、それが届く保証はなかった。

 『玉座』がもたら恒常こうじょうの平和に恩恵をあずかる国、スノーフレーク王国。

 しかし、人々は考えもしなかった。恒常であったが故に、平和の尊さに気が付けなかったのだ。

 国王の裏切りで崩壊した平和は、隣国マリーゴールド王国の侵略をもって、狂乱の幕開けを示した。

 国民は何も知らない。ただ、当たり前のように享受していた平和が失われ、混乱するだけだ。戦争の規模も、流通の停止も、わからないことばかり。

 『玉座』の存在を知るは、王家に連なる者と、元老院に身を置く者だけ。無論、訳あって『玉座』の存在を知る者は他にも居たが、大半の国民は知りうる術を持たなかった。故に、連綿と受け継がれてきた平和が、どのようにして維持されていたのかすら知らない。

 開戦から半年。

 持つ者と持たざる者が明確に差別化される、原初の争いが始まり。

 再びの平和をと祈りを捧げる者が、教会に集まった。

 しかし。

 数多の祈りを捧げえてなお。

 戦禍は広がり続ける。

―――

―――

―――

 レルム歴2014年、12月23日。

 一人の少女が、今にも倒れそうな、青ざめた表情で走っていた。王都の端に位置する教会から、商業区へ繋がる道。並木の先には円形の噴水と、それに向き合うよう等間隔で並べられたベンチ。その広場と思しき場所には何人かの人間が居たが、誰も少女のことは見向きもしない。

 此処は王都の中でも『治安が良い』区域。『教会』は、狂乱との『境界』になり、周辺は『弱者』の集い場となっていた。教会という場所に特別な力があるわけではないのだが、それでも神聖な雰囲気は、『強者』たる悪鬼の気を削ぐ程度の効果をもたらしていた。

 雲一つない快晴。戦禍に身を置いてはいても、ベンチに座りながら紅茶の一つでも飲めば、ひと時の安寧を得られようかという昼下がり。

 彼女を追いかけるように、下卑げびた笑みを浮かべた男が5人。武器を持っているわけではないが、素手でも体格に劣る少女を拘束するには十分だろう。子どもと大人では一歩ごとに進める距離も違うのだ。余裕をたたえた下品な笑みが、じわりじわりと、まるでなぶるかのように距離を詰めていく。

 少女は必死だった。必死で祈りを口にし、迫りくる恐怖に耐えながら、神の助けをうていた。その言葉が届いたのか、男の一人が一笑する。

「こりゃ傑作だ。大した信心だなぁ?」

 同調するように残りの四人も哄笑こうしょうする。腹を抱える者まで居た。

「大人しく俺たちのモノになれよ。繰り返すが、殺すわけじゃねぇんだ。飯だって食わせてやる。なっ?悪いことは言わねーから、とっとと、」

「汚らわしい!」

 気丈きじょうに言葉を放つが、その声は震え、怯えを隠しきれず、男たちをいたずらに悦ばせるだけだった。

「これは参った、汚らわしいと来たか。でもな、あんな『気味の悪い』ことをする奴に言われたくねぇよなぁ」

―――

―――

―――

 戦争で親を亡くした孤児は、教会に引き取られた。傍から見れば、この上ない慈善事業だろう。引き取られた孤児は、限りある中とはいえ、寝床と食事が与えられる。今の時代、生きる場所を与えられるというのは、それだけで幸福だ。食うにも困る人は大勢いるのだから。そんな中、孤児という理由だけで安易に命を繋がせて貰える。

 そうしてかくまわれた子どもたちは、神父や修道女と共に、再びの平和をと祈る。勿論、そんな甘い話はないのだが。

 『教会』は慈善団体ではない。しかし、教会が秘密裏に行っている『商売』を知る者は、関係者に限られる。このご時勢、何故孤児を引き取ることができるのか。それは勿論、『商売道具』を確保するために他ならない。

 困窮極まる中、それでもなお、欲望のけ口を求める者は居る。その者たちは、裏で貴族とのコネクションを持っていた。『教会』は莫大な寄付を受けて成立していたのだ。当然、平和が崩壊してはその寄付もままならない、はずだった。

 そこで提案されたのが、秘密裏のビジネス。新たな需要と供給。

 人間を突き動かす三大欲求の一つ『性欲』

 三大欲求は、生存本能そのものである。その中でも『性欲』は、危機感にさいなまれる状況下において、簡単に暴走する。

 身寄りのない子どもは、教会の庇護が無ければ生きられない。

 教会は、貴族の庇護が無ければ存続できない。

 貴族は、庇護を与えるかたわら、欲を満たすための供給を求めた。

 結果。

 『教会』は神聖とは程遠い、欲望の捌け口を解消するための『工場』と成り果てたのである。孤児は命の保障と引き換えに、その身体を『売る』ことを強要された。

 それでも、死ぬよりはマシかもしれない。どれだけ辛い目に遭っても、生きてさえいれば、未来を掴み取る可能性が残される。

 皮肉なことに、このビジネスのおかげで、『教会』周辺は、王都の中で二番目に治安が良いという結果を作り出した。

 そして少女もまた、工場に『出荷』される身、のはずだったが。

「俺たちのおかげで平穏無事に生きられるってのになぁ?」

 男は他の四人を見て、呆れたように言葉を紡ぐ。

「わざわざ『貴族様』が助けてくれるっつーのに、それでも逃げるのか?」

「欲に塗れた愚者の捌け口になるつもりはありません!」

 一週間前に孤児となった彼女は、暫く路上生活を続けた末、教会に助けをうた。そこで見た、残酷な現実。

―――

―――

―――

 扉を開いた先、前室に立つ修道女は、快く少女の願いを聞き届けた。案内されるがまま、中へ。

 進めば、奥の祭壇に向けて伸びる身廊。左右に信者向けと思われる椅子が並ぶ。側廊の高窓から、薔薇を模したステンドグラスを通して控えめながら神秘的な光が差し込んでいた。そして最奥のチャペル前、天高くドーム状になっている明り取りから惜しみなく日が差し、今が戦禍であることを忘れさせる。

 しかし、側廊や袖廊、薄明りの下には孤児と思しき子どもたち。その一様に曇った表情は戦禍故と判断した。

 信徒が使うであろう小部屋に案内され、修道服を渡され、『後で来るから』と修道女が去った。他にすることもないのでさっさと渡された服に着替える。ちょうど着替えが終わったタイミングで、ノックも無しに扉が開かれた。

「おっ、新入りじゃん!」

 修道女かと思い振り返った少女の視線の先には、教会という場所にはあまりに不釣り合いな、下卑げびた笑みを浮かべる男が一人。生理的に不愉快と思わせる存在。

「……どなたですか?」

 それでも少女は、眉をひそめそうになるのを堪えて、訊ねた。

「あー、名乗るほどのモンでもねぇから気にすんな。お前の名前にも興味はねぇ」

 粗暴な言葉遣いで言い放ちながら、その男は彼女の身体を不躾に、舐め回すように上から下へと視線を動かす。それだけで少女の全身に緊張がはしり、思考の片隅で危険信号が点った。

「おっと、逃がさねぇぜ。残念だったな、お嬢ちゃん。助けを求めて此処に来たんだろうけど、ざ~んねん、お嬢ちゃんの『望む』助けは来ないのさ」

 そんな少女の挙動を察したのか、男は扉の前を塞ぐような姿勢を見せつけながら続ける。

「お嬢ちゃんはこれから、俺たちの商売道具になるってわけ……って、それだけじゃわからねぇか。あー、じゃあなんて言えば良いんだ?えーっと……」

 言葉の意味はわからなかった。それでも、此処に居てはいけないと、本能が告げた。

「ま、なんでも良いか。どうせ逃げられないんだからなぁ?」

 逃げろ、と声が聞こえた。

「お嬢ちゃんはな、俺たちやお偉いさん方の玩具になるってことだ」

 とにかく、此処を脱出しなければもっと酷い目に遭う。本能がそう、語りかけてきた。

「教会を工場にするたぁ、お偉いさん方も良い趣味してるよな、本当に」

 しかし、少女の力では目の前の男を突破することは叶わない。体格からして敵わないのだ。どうやったところで簡単に捕まる。そのことを感じ取り、彼女の表情を絶望がいろどった。

「良いねェ、そのツラ!わかるぜ?俺も同じ立場だったらそうなるし、同情もしてやる。けどな……」

 一度言葉を区切り、男は続けた。

「安心しな。別に殺すわけじゃねぇんだぜ?住む部屋も、飯も、命の危険からだって!守ってもらえるのさ。代わりに俺たちやお偉いさん方をよろこばせな、って話よ。な?ギブアンドテイクってやつ。それくらいわかるだろ?」

 再び言葉を区切り、舌なめずりする。

「お嬢ちゃん。見たところ『初めて』だな?」

 そのまま、ゆっくりと、距離を詰めてくる。少女の元、手が届く距離まで。

 何かが弾けたような気がする。湧き上がったおぞましいという感情が、恐怖に勝ったのだ。思考が白紙になり、新たに何かが刻まれる感覚。

 彼女はゆっくりと手をかざし、『念じた』。その瞬間、男の顔が混乱に塗り替えられる。電気でも流されたかのように全身が痙攣し、自重を支えられず膝を突いた。

 『魔法』の発現。大したダメージにはならない、せいぜい不意を突いて相手の注意を逸らす程度の『帯電呪文』。しかし、『魔法』を見たことのない人間を得体の知れない恐怖に陥れるには十分だった。

 それは、少女自身にも当てはまる。だが今はそれどころではない。

―――逃げなくては。

 ただ一つの目的のため、彼女は男の横をすり抜け、駆けていく。

―――

―――

―――

 教会で発現した『魔法』について、少女は理解していなかったが、今は何よりも此処からの脱出が最優先だった。はやく在れ、と己を叱咤しながら走る足に力を籠める。

「……仕方がねーなぁ。オィ、るぞ。旦那様の商売が知れちゃ俺たちの身が危ういからな」

 それまで弱者をなぶるような表情を見せていた男たちの表情に、殺意が浮かんだ。このリーダー格と思われる男は、先ほど教会内で少女を襲おうとした男だ。得体の知れない現象からすぐさま復帰し、近くに居た仲間と共に追うという選択肢を採った。

 肉体に直接作用する代わり、大したダメージの伴わない『魔法』は、最初こそ不意を突けるものの、繰り返しの行使により、簡単に耐性が付く。帯電呪文のような、無意識でうっかり発現する程度の『魔法』であればなおさらのこと。此処に至るまでに何度も行使してきた帯電呪文は、既に僅かな隙を作ることすら叶わない。

 男たちが加速したように、見えた。それまで軽いジョギングでもする程度だったモノが、獲物を追い詰める狩人のモノになる。

 此処で少女を逃がしては、教会のビジネスが成立しなくなる恐れがあった。彼らはビジネスの末端、用心棒と言ったところだ。しかし、秘密の露呈という失態を犯せば、その上に居る貴族連中が黙ってはいないだろう。そうなれば、今の生活を続けられなくなる。最悪消されるかもしれない。

「お嬢ちゃん、死にたくなかったら立ち止まりな。これが最後だぞ」

 男の最後通牒さいごつうちょうを聞いて、少女の脳裏に死が過った。

 立ち止まれば精神的に死に、足掻けば肉体的に死ぬ。どちらの結果も受け入れ難かった。思考が行き詰まり、再びの白紙。

 これは神の御業みわざか、悪魔の所業か。

 白紙になった脳裏に再び、『イメージ』が刻まれた。無意識であるが故、彼女はそれがどんなモノなのかを理解していない。ただ、迫り来る脅威を一心に排除しようとする、防衛反応からの行為。

 少女の足が止まった。それを見て男たちは『やれやれ』とばかりに肩を竦め、近寄る、はずだった。

 彼女の指先が、天を指している。

 先程までの晴天が嘘かの様に、暗雲が垂れ込め始めた。そのままゆっくりと光がさえぎられ、乾いた空気に『湿気』が混ざる。

 そして、在るはずのない『稲光いなびかり』が、そらほとばしった。在るはずのない『稲光』を視認した瞬間、それらは大気中の水分と混ざり合い、五本の剣となりて、五人の男、それぞれの心臓部に突き刺さった、ように見えた。

 一瞬の停滞は、教会と同じく『驚愕』を与え、次に『恐怖』を植え付ける。

 停滞の後。男たちは絶望そのものの表情を浮かべ、仰向けに伏していた。少女自身、『稲光』に目を瞑ってしまったから、何が起きたのかはわからない。

 ただ、身動みじろぎ一つしない彼らを見て、『死』が少女に示された。得も言われぬ恐怖が、彼女を包み込む。心の底から這いより、凍り付くような怖気おぞけはしった。

 幸いなことに、周囲の人間は少女たちを見ていなかった。

 『魔法』の発現を見られることも、なかった。

 ぽつり、ぽつり、と。雨が滴り始める。

 少女は、無意識に己を掻き抱き、座り込んでいた。それは急な天候の変動による寒さが原因、ではない。物理的な寒さとは違う。

 精神が冷え込む感覚。

 冷え込むではなく、凍り付くような感覚。

 『人を殺してしまった』ことによるモノではない。害意は排除されたというのに、その心には強い『恐怖』が刻まれていた。

 咄嗟に身体から手を放す。うつろな記憶の中、教会で、この場で、指先より何かが放たれたという事実が浮かび上がった。得も言われぬ現象を引き起こしたその指を慌てて遠ざけようと、精一杯に手を伸ばした。当然、腕の長さ以上に引き離すことなどできないのだが。

 5分ほど経過しただろうか。じっと己の指先を見つめ、何も起きないことを確認し、気が付けば震えも止まっていた。

 何が起きたのかは把握できない。ただ、当初の目的を思い出した。とにかくこの場を離れなければ、という目的を。

―――

―――

―――

 斯くして、得体の知れない現象『魔法』は。

 少女を生きながらえさせる『道具』として、顕現けんげんすることになった。

 彼女にとって、それはまさに『奇跡』

 平和の世に在っては発現することもない、奇跡。

 しかし、奇跡は必ずしも希望の象徴とはなり得ないのだ。

 それでも少女は、祈りを捧げた。

 神の御業と信じ、天を仰いだ。

 邪悪は正義の鉄槌をもって排除され。

 祈りは天に届いたのだと。

 救われたのだと。

 神はやはり存在する。

 修道服をまとい、目を瞑り、手を組んで祈る様は。

 まさしく修道女。

 こうして、修道女『カキツバタ』は生まれた。

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