限りなく夢に近い現実

 何かとても重いものだ。それにひどい臭いがする。ただ猛烈な臭いがするというものではなくて、明らかに普段生活していて鼻にする臭いではなかった。

 手に持っていたランプを襲われた勢いで手放してしまい、目の前の存在がわからない。息が当たる位置で今にも頭を喰らわれそうな状態なのに闇との境界線が見えなかった。

 グルル、グルルと耳元で音がする。両腕で必死にそいつの腕のようなものを抑える。危険だ、そんなの誰が見てもわかるのに、声が出ない。

 少し先に仲間の灯りが見える。気づかせなければ、呼ばなければ、助けを呼ばなくては。

「...う、ぐっ...!」

 うなり声のようなものしか出なかった。

 妖の爪が体に食い込んだ。鋭い痛みが横腹を襲った。このままじゃ本当にやられる。

「あれ、フウリは?」

 アイジュの声が聞こえた。フウリは振り絞れるだけの声で叫んだ。

「...こっちだ!俺の上にいる!」

 灯りが一斉にこちらへ向かってくるのがわかった。眩しくて目をつぶりそうになったが、目の前のそいつの姿を把握しなければならない。必死に目を開けた。

 それの顔はびっしりと毛で覆われ、真っ赤に染まった大きな目がこちらを凝視していた。獣のような顔つきで口元には大きな牙を今にも突き刺さりそうな位置で何度も噛み付こうとして動かされていた。脇腹に食い込んだのはそいつの後ろ足だった。

 その形相に少しだけ、力を緩めてしまった。牙が一気に喉元へ振り下ろされた。

「フウリ!」

 呼ぶ声とともに強い衝撃を感じる。ぐっと体が動かされるような感覚がしたが、そうなったのは上にいた妖だけだった。

 タイトが思いっきり妖を蹴飛ばした。その横でアイジュが刀を構えている。54班も各々戦闘態勢に入っていた。

「フウリ大丈夫!?...よかった、傷は浅いよ」

 タイトたちの後ろで守られたフウリの元にキイノが駆け寄ってくれた。傷口を確認すると、真っ白な隊服に赤い染みが広がっていた。

 しかしすぐに蹴飛ばされたそれの方へ目を向ける。こちら側が持つ火の明るさにわずかに照らされて、その姿が見えた。

 獣のような体だ、しかし明らかに大きさが違う。それにあの真っ赤な目は、到底山の中の動物なんかじゃない。何かが変容し、人にとっての敵である。

 妖だ。本物の、紛れもなく。

 手が震えた。なぜか止まらなかった。

 止まれ、止まれ、止まれ止まれ止まれ止まれ。

 早く腰に下げた刀を抜け。そして戦うのだ。戦わなければならないのに、体が動かない。

「...まずい、くるよ!」

 アイジュが言った。フウリはその声でようやく刀を抜くことができた。

 妖はぐっと体を縮めたと思いきや、すぐにこちらの目の前まで来た。とてつもない速さだった。

 それの行き先は54班の元だった。全員妖の一撃をなんとか交わす。それぞれ四方八方に散り、攻撃を分散させる位置をとった。

 大丈夫だ、速いけれど追えないほどではない。

 そう思った時だった。

 妖がくるりと向きを変えた。そして、空中へ逃げた二人に向けて駆けた。

 だめだ。逃げろ。

 しかし、その願いは届かなかった。

 誰もこの妖の想像よりはるかに速い反射速度に気づけなかった。だから咄嗟に身動きができない空中へ二人は逃げたのだ。

 あっという間に妖は二人の間へ着く。そしてなすすべのないホウカとウルの身体を長い爪で切り裂いた。

 やめろ。

 空中から何かが降ってきた。生温かくて、不快そのものだった。

 ドサっと地面を揺らす音がした。微かな灯りのもとで、何かが横たわって起き上がらなかった。

 だめだ。そんなわけない。

 大丈夫だ、すぐに手当てすればどうにだってなる。養成学校で学んだのだ、きっとどうにかなる。

 悲鳴のような声が聞こえた。自分を呼ぶ声がする。だめだ、答えている暇はない。彼らを助けないと。

 その瞬間、ごおっと耳を何かの音が刺激した。

 振り返った時、すでにそれが目の前に来ていた。

 赤い、赤い目だった。

 黒い影が覆いかぶさる。フウリは目を閉じた。

 しかし、次の瞬間にフウリの体はなんの衝撃も訪れなかった。

 恐る恐る目を開けると、妖の姿はどこにもなかった。代わりにあったのは、大量の火の灯りと、女性の後ろ姿だった。

 橙の灯りにその銀色の髪がキラキラと輝いていた。真っ白の隊服が目の前でたなびいた。

 その後ろ姿がゆっくり振り返り、金色の目がこちらに向いた。

「よく見つけたね」

 そう言うとゆっくりと刀を鞘に収めた。

「ハクロウ長官、玄武に連絡できました。もうすぐ来ると思います」

「そうか。わかったよ」

 隊員と話すハクロウの足元には、先ほどまでフウリを襲おうとしていた妖が横たわっていた。

 フウリは何が起きたのかわからず、しばし呆然としていた。しかし、すぐに思い出す。

 その場所を見つめる。痛む脇腹を抱えながらなんとかそこへたどり着いた。

 灯りが増え、その場所が鮮明に見えるようになった。横たわる人の姿、そこから流れる赤い液体、それを囲み肩を落とす仲間の姿。

 それでも近くまで行って確認するその時までフウリは信じていた。大丈夫だ、まだ間に合うと、そう信じていた。けれど、何もかも遅かった。

 仰向けになって倒れる体は肩から腰にかけて大きく切り裂かれ、白い隊服なのに赤く染まっていた。その目にはもう憧れた彼の輝きはない。うつ伏せになったもう一人は長い髪の隙間からその頬がのぞいていた。もうそこにあの笑顔が浮かぶことは二度とないのだ。

 泣き声が聞こえる。悲鳴のような泣き声だった。

 なんで。どうして。嘘だ。こんなの現実なわけがない。

「だって...だってさっきまで...」

 生きていたのだ。ついさっきまで、生きて会話をして、戦っていたのに。何かの間違いだ、だって、こんな現実があり得るわけがない。

 きっと今日一日をずっと夢に見ているだけなのだ。そうすれば何もかも納得できる。長官と話したことも、奇妙な茶会も恐ろしい妖も、全部全部悪い夢に違いないのだ。

 くしゃりと髪をかいた。その手を下ろしたとき、手のひらに赤い血がべったりとついていた。

 先ほど暗闇から降ってきたそれは彼らの血だった。

 フウリが気を失う最後に見た景色は真っ赤に染まった自分の手だった。


 初陣という悪夢は終わりを告げた。

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