第97話 聖女は足掻く③
こんなタイミングで逃げるつもりではなかった。言い訳ではないが、本当に。
もうちょっと人目につかないように待つつもりだった。その方が生存率だって上がるだろう。わかっている。そんな事はわかっている。
何で耐えられなかったんだと自分でも思うが、あの瞬間完全に負けてしまったのだ。触れられたくないと悲鳴が出てしまった。我ながら情けない。生娘かよ。生娘だけどよ。
暗い山の中をとにかく走る。
足は素足だから凸凹にやけに足を取られるし、暗くてよく見えないから茂みに突っ込んでしまうし、状況は最悪だ。
すぐ後ろから明かりを灯した人影が追ってくるからがむしゃらに逃げるしかない。
「いたぞ!」という声に、土魔法で出鱈目に穴を開けたら悲鳴が上がったのでいくつかは当たったか。でも足音がいくつも近づいてくるから走りながら後方一帯にイバラの氷を生み出す。
直後に悲鳴と魔法による爆音が上がり始め、整わない息のまま必死で走る。と、足場が崖のようになっていて転がり落ちた。
「……!」
あちこちぶつけたが、幸いあのミスリルの服を着ていたので酷い怪我はしなかったようだ。服から出ている手と足も幸運なことに痛みはない。頭は守った。問題なし。
身体を起こし、膝をついて立ち上がろうとした瞬間何かに視界が覆われた。
「静かにっ」
反射的に身体を沈めて地面に手を付き足払いを掛けたが、ふわりと飛んで躱された。
「敵ではない、静かに」
覆われた視界が少し開けると、少し肌の色が濃い小柄な青年が薄い月明りの中、息を切らせて浮かび上がっていた。
「さ、さりー?」
もしかしてと指さして言えば、口に指をあてしっと言われた。
「これを着ろ」
そう言って自分が来ていた服をいきなり脱ぎだし――思わず私は目を剥いた。
なんと、サリーさん、下にあの全身タイツを着てらっしゃった。
もしや私が作ったあれを兄がサリーさんに回したのだろうか。
だろうか、というか絶対そうだと思うが、小柄だから確かに着れるだろうと思うが、兄よ、あなたあんな目をして見ていた物体を渡すって……
状況を忘れて兄に思わず心の中でつっこんでしまった。
「その服が目立っている。あと髪も、顔の化粧も」
言われてハッとした。確かにこの服、ぼんやり青白く見えるんだった。髪も顔も、そりゃこれだけ暗い色の森の中では目立つ。何で気づかなかったんだ……
渡された暗色の服を上から被り、髪の毛を黒に染め、地面の湿った土を掴んで顔に塗りつけると、小さく笑ってそれでいいと頷かれた。
「しばらくここでじっとしていろ。あいつらが離れたと思ったらあちらに行け。南東に向かうとあいつらの伏兵にぶつかる。明るくなったら真南に行け。そちらがまだ安全だ」
「わ、わかった。あの、あなたは?」
立ち上がり離れようとするサリーさんの手を思わず掴めば、ゆっくりとそれを外された。
「大丈夫だ。ドミニクが必ず応援を寄こす」
そう言って走って行ってしまった。暗闇の中でも目立つあのタイツを上半身晒して。
囮になってくれたのだ。
なんでそこまでしてくれるのか。何者なのか。あれだけの人数を相手に切り抜けられるのか、その力があるのかそれもわからない。
私に出来るのはせっかく作ってくれたチャンスを生かして逃げ切る事だけだ。
身体を覆ってくれた黒いマントから身体がはみ出ないように包み、じっと蹲って息をひそめる。
風魔法を使って音を拾っていると、遠くで彼が見つかった声が上がるのが聞こえた。思わず目を閉じて、どうか無事でと祈らずにはいられなかった。
また目頭が熱くなって、涙がこぼれそうで、でも助けてもらっている私が泣く資格などない。私がもっとしっかりしていればサリーさんはあんな事をしなくても済んだのだ。
音が離れていくのを確認して、私はマントを腰に巻いて目立つジャージを隠し、言われた通りの方角へと走った。
走って走って走って走って――息が、肺が痛い。心臓は既に爆発しそうなぐらいで、足はとっくにガタが来ていて、加護で無理やり身体の機能を戻して走り続ける。
どれだけ走ったのか、空はまだ暗い。
そう考えるとそれ程走っていないのか。
魔力回復薬を飲んだのは何回か……カウントを忘れた。魔力残量を計り間違えて過剰摂取した感じもある。
だけどもうそのせいで痛みがあるのか、走り続けているせいで痛みがあるのかわからない。
走り続けて、ガサリと茂みを抜けると急に木々が開けて山を抜けた事を知る。
「少しは散歩が出来て気が晴れたかな?」
開けた先に、あの男がいた。
何故?
どうやって先回りを?
サリーさんは?
浮かび上がった疑問をそのままに即座に踵を返し森の中へと入る。
開けたところでは隠れられないと逃げ込んだのだが、背後から光と熱気を感じて咄嗟に氷の壁を張った。
ごうごうと燃え上がる青い炎が木々や地面を舐めつくし、炎が消えた後には周囲一帯炭化した跡だけが残っていた。
「あの会場での術者がまさか聖女殿とは……いやはや、見くびっていて申し訳ない」
表面が解けた氷の壁を消せば、むっとする熱気が身体を包んだ。
ぜひとも見くびったままでいて欲しいが、笑いながらも笑っていない昏い目がその可能性を否定している。
……魔法の力量的に、同等か、それ以上か。レンジェル以上なんじゃないか?こいつ。
「子飼いのあれは直に捕まるだろう。我らはお前達のように加護に胡坐をかき魔法を疎かにしていないからな」
なんか言ってるが、こっちはそれどころじゃない。
身体の内側があちこち痛いし、頭だってガンガンしていて思考も邪魔される。視界もちょっとぼやけ気味。加護でどうにかしようにも、先ほどから効かなくなってきているので、これはあれだ、魔力回復やり過ぎた反動だ。たぶん。わからないけど。たぶん。そうなんじゃないかと。加護も万能じゃないんだなと新発見。ははは。最悪だ。
泣き言なんて言ってられないけど……
はあはあと乱れっぱなしの呼吸を整える事も出来ないが、あちらの動きを見逃さないように集中だけはしておく。ここで捕まったら最後、逃げ出す事は相当な困難になるだろう。正念場だ。頑張れ自分!
ふっと男の背が縮んだと思った瞬間、男の顔が目の前にあった。恐ろしい速度で肉迫されていたと理解した時には右腕に衝撃を感じて腕が跳ね上げられる。肩関節ごと持っていかれそうになりながら後ろに後転し、膝をつきつつ氷の檻で絡めとろうとすれば、どうやって察知したのか男も後ろに飛んで避けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます