第75話 消えた聖女
その日は主だったメンバーで各部隊の特性と実働に回せる人員の確認をしていた。既に決まっている事の最終確認だったのでそちらに時間は掛からなかったのだが、新たに加えられた伝達部隊や工作部隊の配置についても想定されるケースの最終的な洗い出しを行なっていたので話し合いが終わったのは明け方になってしまった。
朝日が目に染みるのを耐えて館に戻ったが、さすがにこの時間にリーンの部屋に戻るのは迷惑かと久しぶりに長年使っている部屋へと戻る。
ここのところ寝付きのいいリーンの穏やかな寝顔を見ていたせいか、部屋に一人というのがなんだか変な感じがした。
それでも上着を脱いで横になると間もなくウトウトと眠気に誘われ瞼が降りる。
コンコンコンコン
ノックの音に、無意識に寝返りをうちドアに背を向ける自分がいた。緊急時であれば徹夜も問題ないのだが平時だとどうしても眠気に負けてしまう。
「殿下、アデリーナでございます」
「……どうした」
リーンに付いている筈のアデリーナが何故こんな早朝に……リーンが呼んでいるのか?いつも朝が早いからな……
「妃殿下のお姿が見えません」
ぼんやり眠りに入ろうとしていた頭が一瞬にして覚醒した。
即座に起きてドアを開ける。
「いつからだ」
「確認したのはつい先程です。もしやと思いこちらに参りましたが」
「リーンは私の部屋を知らない。それに己の立場をわかっている。あの部屋を一人で出るような事はしない筈だ。部屋に何か変わった事は?」
「見る限り何も。争ったような形跡もなく」
「警備についていた騎士は」
「何も見てはおられないようでした」
急ぎ歩き出した私に小走りについてくるアデリーナ。その表情は優れない。たぶん私も同じ顔をしているのだろう。
すぐにリーンの部屋へとたどり着くと二名居る筈の騎士が一人居なかった。残った一人は強張った顔で敬礼してきた。
「もう一人は」
「閣下に知らせにいっております」
それならば先に確認した方がいいと部屋に入る。
いつもならばおかえりなさいと出迎えの声がある部屋は、シンと静まり返っていた。
普段リーンが書き物をしているテーブルには何もなく、その姿も無い。寝る前に必ず片付けているのでそれは不自然ではなかったのだが……不安とも焦燥ともつかないものが這い上がってきて急ぎそのまま寝室へのドアを開ける。
そこにも、リーンの姿はない。いつも寝ているベッドに触れるが冷たい。冬前となり厚手の寝具になっているので、一晩寝ていた筈の人間の熱が無いという事はかなり前から居ないという事だ。
「昨日変わった事は?」
「いえ、特には。いつものように遅くまで書き物をされておられました」
「最後に会ったのは?」
「私とドロシーがお休みの挨拶に伺ったのが最後かと。ドロシーが魔法の手引書のようなものをいただきましたが……いえ、あれはドロシーが来てからずっと続けられている事ですので特段変わった事ではございませんが」
「ドロシーを呼べ」
アデリーナは頭を下げてすぐに出ていった。
もう一度掛布団の下に手を入れるが、やはり冷たい。
朝の冷たい空気が一層冷えて胸を刺すような気がした。
リーンが自分からここを出て行くという可能性はない。両親をディートハルトが押さえているというのもあるが、何よりリーンは私達に協力的で出て行く理由が見当たらない。
可能性があるとすれば外部からの侵入者だが……それを許すほどこの館の警備は緩くはない。もしそうだとするのなら、それはディートハルトの差し金という事で……
「殿下、ドロシーを連れて参りました」
無意識に握りしめたシーツから手を離し、振り向けばあの娘が侍女姿で頭を下げていた。
「昨日、何を渡された?」
「恐れながら、リーンスノー様に何かあったのでしょうか」
「ドロシー」
大きくはないが、厳しい声音でアデリーナが窘めた。
「殿下の問いに答えなさい」
だが娘は顔を上げ、強い眼差しでこちらを見上げた。その目はいっそ睨んでいると言ってもいいかもしれない。
「私は主人より、もし自分に何かあればと指示を受けました。
そのため何かあったのか聞かねばならないのです」
何か、だと?
「リーンの姿がない。これで満足か」
苛立ちのままに吐き捨てるように言えば、娘は一瞬痛みを堪えるような顔をした。だがすぐに表情を戻しスカートの合わせから白い封筒を差し出してきた。
「こちらを殿下にお渡しするようにと――」
咄嗟に奪うようにそれを掴み、急ぎ封を開け中の手紙を開けば几帳面な文字が広がった。
―—
シャルへ
先に言っておきますが、私はシャルにもきちんと計画を話すように進言しました。口留めをしたのは辺境伯様ですので、そこだけは言っておきます。
あのお方、説明と説得の労力を割いたら碌な事にならないというのに。シャルなら動くと思ってるあたり甘えですよ。甘え。そういう思い込みが人間関係の破綻を招くのわかってるんですかね。人間なんて理性だけの生き物じゃないんですよ。むしろほとんど感情の生き物なんですよ。キレた人間程恐ろしいものは無いってのに。まったく。
話がずれました。
今回少々計画変更されたという事で、私、手荒い搬送を受ける運びとなりました。が、まぁなんとかなるだろうと考えております。一応荒事にも耐性はありますので。まずいと思ったら離脱します。その辺は心配無用です。
という事でいろいろ思う所はあろうかと思いますが、少なくとも私は思っていますが、まずは目の前の事に集中しましょう。さすがに片手間に出来る事じゃないですからね。
その上で事を成した後、あの腹黒様への報復を相談させていただけると大変嬉しく思います。
私だって好き好んで危険を選ぶような被虐趣味はありませんから。ええ本当に爪の先ほどもございませんから。あと私相当根に持つタイプですから、じっくりたっぷり計画練ってやりますよ。弱点とかあったら教えてくださいね。
それとドロシー嬢にこの手紙を託した事、申し訳ありません。他の方では握りつぶされそうで確実とは思えなかったものでして。ドロシー嬢には手紙の内容を伝えていないので彼女を怒らないでください。
ところでこれ、辺境伯様に見つかったらお仕置きされるんですかね?
でも言うなとは言われましたけど、書くなとは言われませんでしたから?
構いませんよね?
では、朗報をお待ちしております。あまり無茶はしないように。
あと髪はちゃんと乾かしてから寝てくださいね。意外と細い髪で爆発したそれ直すの大変だったんですから。
―—
几帳面な字の癖に、文の定型を完全に無視した言葉が羅列していた。
だが言葉の向こうに確かにリーンがいる事を感じて自分の髪を摘まむと、口元が苦笑に綻んでしまった。
文面からしてリーンは不承不承引き受けたのだろう事がわかる。それでもそれが必要な事だと判断して。
囮にならなければならないほど、大義名分が無いとは思わないのだが……ディートハルトめ……
それにしても一番危険な役回りの筈なのに、その境遇に対する不安も恐れも心配も書いていない。それどころか私とディートハルトの不仲を心配して……そんな精神的余裕がある筈もないだろうに……
胸に渦巻いていたものが少し収まり、息を吐く事が出来た。
目の前でずっと頭を下げたままのドロシーに視線を向けると、もう苛立ちは無かった。
「よくこれを守っていた。礼を言う」
「勿体ないお言葉です」
さらに頭を下げるドロシーをアデリーナ共々下がらせ、今度は歩いて執務室へと向かう。
「なんだ、思ったよりも落ち着いているな」
執務室へと入った私を見るなり、拍子抜けしたという様子のディートハルトに溜息が出た。
「計画に変更があるなら言ってほしい」
「もうわかったのか」
「さすがにあっさり侵入されるとは思えん。昨日私をこちらに戻さないようにしたのはお前だな?」
「リシャールがいると
何でもない事のように言うディートハルトに、いつもなら苛立ちが募るところだが今は不思議とそんな事にはならなかった。リーンが報復をと書いていたからか、それを一緒に考える自分を想像したからか、平気だった。
「何故言わなかった」
「絶対反対するだろう?」
「あぁそうだろうな。だがそれでも議論すべきだったと私は思う。必要だと認めれば私個人の感情より優先するものがあるという事は理解しているつもりだ」
ふぅんとディートハルトは椅子の背に身体を預けて面白げに口の端を上げた。
「やけに冷静だな」
「リーンが置手紙を残していてくれたからな」
「置手紙? いつの間にそんなものを……何て書いてあったんだ?」
「教えない。必要性を感じないからな」
「けち臭い」
「お前が言うか? それで、この事を知っているのは誰だ」
「影とマクシミリアンと、あとお前」
なるほど。
「ならこちらは騎士団を使ってリーンの所在がつかめない振りをするんだな?」
「あぁ。その間に兵を配置する。リーンスノー嬢が大々的に拐われたとあっちで言う予定だから、それに合わせて挙兵し一気に片をつける」
「それは……下手をすれば殺されかねないじゃないか」
「影をつけている。身の安全は図っているさ」
だがそれも絶対とは言い切れない。幸いリーン自身がかなりの戦闘力を持っているのを知っているからなんとか切り抜けてくれるかと思えるが、そうでなければ無謀もいいところだ。
「兵の配置はマクシミリアンが指揮するのか」
頭痛を堪えて聞けば「いいや」と返ってきた。
「俺が行く。一応、不足の事態に備えてな。リシャールは向こうの目を欺くためこっちでリーンスノー嬢を探している振りを続けてくれ。例の伝令を使うから、知らせたら早馬で来いよ」
そしてそのまま戦闘に加わるのか。
「わかった」
早く助けてやりたいが、やるべき事をやらないとそれこそリーンに怒られそうな気がする。せっかく危険な役回りを引き受けたのに何をしているのだと。
「アイリアル侯爵へは?」
「そろそろ動くと伝えている。侯爵にはどちらかというと南のシャスの動きを封じて置いてもらう方が重要だな。まぁ積年の恨みもあってご子息のサイアス殿はミルネスト領に進軍しそうだが」
「姉上か……」
元々の婚約者だったサイアス殿と無理やり引き離されて、あの
「今を逃すとどうなるかわからんからな。それに関しては俺は何も言わんよ」
子が出来ない姉上はミルネスト領のどこかに閉じ込められてその所在すらわからない。あの男はその上で愛人を大量に囲い色に溺れているのだと聞く。
「前にも言ったが、そこまでの余裕はないからな」
「わかっている」
わかっては、いる。
姉上を探し出すまでの人員が割けない事は……
己の無力を感じ、悔しい気持ちが込みあがるが今は成すべき事を成さねばならない。リーンも言っていたが、片手間に出来る事ではないのだから。
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