第69話 聖女と夜半の会話③

「あぁそうだ。いつまでも敬称をつけて呼ばれるのもおかしな話だと思わないか?」

「……特におかしくないと思いますけど」


 だって殿下は殿下だし。いくら妻と言ってもそこは歴然たる身分差が存在する。茶会のマナーはサッパリだが、これでも仕事に関係しそうな事はちゃんと覚えている。基本的に男性社会なのだ。


「実はさっきリーンに殿下と言われてちょっと傷ついた」

「――は?」


 ……言ったか?


「私は結構リーンに対して気を許していると思っていたのだが、リーンは全く私に気を許してはいないのだなと思って」

「ぇ……そういうわけじゃないですけど……」


 じっと期待する目で見られ、頬が引き攣る。


「リーン」


 催促されて渋々口を開けるが、何故かうまく声が出てこない。


 いやいやいや、緊張する事でもないだろ自分。


 一度口を閉じて唾を飲み込んで、もう一度口を開く。


「……シャル」

「なんだ?」

「いやなんだって、呼ばせたんでしょうが」

「そうか? そうだな。まぁいいじゃないか」


 ぐしゃぐしゃと頭を掻きまわされてぐわんぐわんと頭が揺れる。

 ちょっと、力加減間違えてますよ。


 あぁもうとしつこくかき混ぜる手を掴んでぽいっとして立ち上がり後ろに回る。


「ほらもう最後にお湯で流しますからじっとしていてください」

「あぁわかった」


 楽し気に返事されてなんか釈然としない。

 それでも丁寧に流して乾かして、お湯を捨ててくると、ソファにいた筈がテーブルの方に移動して私が片付けていた本を手に取って立ったまま見ていた。


「これは先生から?」

「はい。加護や魔法を用いない医療技術に関して有用な情報があればと思って」

「加護や魔法を使わない?」

「加護とか魔法って、本当にごく一部の人の技術ですからね。

 平民はそこに駆け込む事はほとんど出来ないですし、それに加護や魔法も万能じゃありませんから。個人的には医療の本領って加護とか魔法じゃないと思うんですよ。人体構造を理解していかにして人を救うのか、その知識の蓄積とあくなき探求心と公平な精神が根底にあってその上に偶々加護や魔法があったりするだけで」

「……不思議だな。リーンほど加護や魔法の使い方が上手ければそれを至上のものと思いそうなものなのに」


 その時なんとなく、本当になんとなくそれを口にした。


「加護も魔法もない世界の記憶がありますからね」


 この人にならいいかな。と、そんな風に心のどこかで思ったのだろう。


「加護も魔法もない世界?」

「貴族も平民もない、表向き身分差の無い平和な国に生まれて定年まで働いて、それで気が付いたら私は生まれ変わっていました。魂に精霊が寄り添うというのなら、私はきっと異質な存在なんでしょうね」


 黙っていてすみませんと誤魔化し笑いで言えば、妙に納得した顔で頷かれた。


「なるほど。だからリーンはそんなに知識が豊富なのか」

「え……信じるんですか? こんな戯言たわごと


 あんまりにもあっさり言われたので驚けば、きょとんとした顔をされた。


「戯言なのか?」

「いえ、少なくとも私は前世の事をハッキリと覚えているので幻覚の類ではないと思っていますけど……」

「じゃあそうなんだろ?」

「そう……なんですかね?」

「自信がないのか」

「そうじゃないですけど……」

「違う世界からというのならリーンは精霊に導かれて来たのかもしれないな」

「ぇえ、そこも精霊?」

「不思議な事は大抵精霊が関わっていると言われているからな」


 あっさりと言われてひどい肩透かしを食らった気分になる。


 なんか、後生大事に抱えていた自分が自意識過剰みたいで恥ずかしい……


「以前、年齢の事を気にしてましたよね?」

「うん? あぁ、ひとまわり違うからな、さすがに哀れだと思ったんだ」

「実際は中身通算で七十オーバーなんですよ。言うに言えなかったんですけど、もはやお婆ちゃんですみません」


 肩透かしを喰らって恥ずかしいやらなんやらでやけくそのように頭を下げれば、首を傾げられた。


「人の魂は輪廻するのだろう? ならば私も覚えていないが前があるはずだ。リーンがそれを換算するとなると必然的に私も同じようにしなければならず、そうなるとやはり私の方がひとまわり上になってしまうのではないか?」


 真面目か。


「それに、前世がどうであれ今生きているのはリーンだろう? あまり関係ないんじゃないか?」


 ―——そう、なのか?


 記憶が蘇ってからは本当に前世の人格が前面に出てしまっているのでそう言われるとこちらも首を傾げてしまう。なにせほら、五歳でこうなってしまったから、それまでの私がどうだったかよくわからないのだ。


 ただ……関係ないと言ってもらえてほっとする自分もいた。

 今まで誰にも言わなかったのはどこかで異質なものとして拒絶される事を恐れていた……のかもしれない。


 さて寝るかと寝室に向かう殿下——シャルに、見えないようこぼれたものを袖で拭う。


 ……どうやら、前世と違う世界に一人というのは、思いの外きつかったらしい……衛生環境がと誤魔化していたけれど、本当に気になって不安だったのはこちらだったのか。


 気付かれないよう、拒絶しない大きなその背にそっと頭をさげた。


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