ぺしゃんこのライオン
@chased_dogs
ぺしゃんこのライオン
ここはとある美術館。国中から集められた絵画や写真、彫刻や造形物、歌や詩が納められ、館内を飾っています。
その中の一つに、美術館のエントランスを飾る、大きなライオンの絵がありました。まるで生きているかのような迫力を湛えた絵に、来る人来る人が驚かされます。
「どこから見てもこっちを見てるみたい!」
「すごいねえ。大きな口だね」
「本当に立派だ! まるで生きているようだ」
そうだ! あなたも、折角だから近寄って見てみてください。こっちへ、どうぞこっちへ。
どうです、立派でしょう? 大きく開いた口に、きれいに生え揃った牙。乱れた鬣には躍動感がありますし、四肢から尻尾に至るまで、力強さを印象づけます。
しかしなんと言っても極めつけ、私の一番のお気に入りはこの両の眼です! 見てください、この表情。身体の力強さに対してアンバランスな、恍惚とした顔が良いのです。何かを訴えているような、まるで生きているような……。
いや実際、このライオンは生きているのです! あの眼をじっと御覧なさい。あなたを見つめています。眼球が動いています。分かりましたか? 彼は本物のライオンなのです。
では何故、今は絵になっているのでしょう? それにはこういう話があったのです。
◆◆◆◆
ある日、ライオンは買い物をしに街まで出掛けました。街に着くとライオンは、あまりの人集りにビックリしました。
ライオンはときどき、用があれば街まで出掛けていたのですが、お祭りの日に出掛けるのは初めてだったのです。
「あんず飴! りんご飴!」
「チョコバナナあるよ!」
「あ、イナゴとアサリの佃煮ください」
「こら! 箸巻き加えたまま走らないの!」
「あと御幣餅を四つ」
「ピエロギとシャシリクとワイン、人数分ね」
どこを見ても人だらけ。ライオンは目を回しました。
「うわあ。まるで人が多くって、どこが何処やら分からない……」
ライオンはぶつぶつ言いながら人混みの中を歩きます。
「うーん。この床の模様には見覚えがある。あの辺りだとすると、ここで右に曲がればいいはずだ……」
そうやって記憶を頼りに歩いていますと、ライオンはすっかり道に迷ってしまいました。
「しまった。全然違うところに出てしまった。どうしよう、僕はただネジと釘を買いたいだけだったのに」
ライオンは途方に暮れ、またとぼとぼと当て所なく歩きました。
「ああ、僕は椅子を直したかっただけなのに……」
と、その時です。
「……ゴアァァァァァ!」
遠くの方から大きな音が聞こえ、何かが近づいてきます。
「ゴアァァァァァ!」
それはお祭りのため荷物を満載したトラックでした。トラックは狭い道幅をいっぱいに使って進行し、ライオンの方へ猛然と走ってきます。
ライオンはハッと気がついて、向こうにある十字路を曲がろうとし、――ライオンはトラックに押し潰され、道路の上にぺしゃんこになってしまったのでした。
「……」
ぺしゃんこになったライオンは何も言えませんでした。
「……」
いつまでそうしていたでしょう。おじさんが煙管を咥えながらやってきました。
「やや、これは見事な絵画だ」
おじさんは美術商でした。
「しかし誰が作ったのだろう? こんなところに突然」
おじさんはライオンをぐるりと見回しました。それから煙管を懐にしまい、代わりに取り出した巻尺でサッと寸法を測ると、近くのコーヒーショップから電話を掛けました。
「ああ、もしもし。急で悪いんだけども、美術館の倉庫に空きを作って欲しいんだ」
『あら、また新しい美術品の売り込みですの?』
相手は美術館の館長さんのようです。
「そう。見つけたんだ、新しいのを。――」
『――お待ちになって。当てましょうか? 油画でしょう』
「お生憎、油彩じゃないよ。バカにでかい路上アートだよ。彩色は、正直分からん」
『路上アートと仰りました? 寸法はどれくらいですの?』
「……うん、寸法は、縦三六〇〇ミリの横二八〇〇ミリメートル。それでね、道路の地面に描かれてるから――」
『――切り出すんでしょう。それなら市長へ連絡が必要ですわ』
「そう、切り出して運びたい。だから、工事の許可と、美術品運搬ができる人足を見繕って欲しい」
『それぐらい、御自分でなさったらどうなんですの?』
「おい、俺はしがない美術商だよ。工事の依頼なんてとても――」
『――あら、しがないだなんて。私は結構あなたのことは買っているんですよ? 優秀な方だって』
「分かったよ。工事はこっちで持つから。市長への連絡、よろしく頼むよ」
『分かりましたわ。それでは』
「そいじゃ。……ふーっ、やれやれ」
おじさんは通話を終えると、また煙管をふかし始めました。
「……」
その様子をライオンはただじっと見るしかありませんでした。
数日後、ライオンの周りにはパイロンが並べられ、幾人もの人がやって来て、ライオンの張り付いた道路を剥がし始めました。
体のすぐ近くで轟音が鳴り、振動が全身を伝わるのでライオンは生きた心地がしませんでした。
二日ほど掛けて、ライオンが地面から切り離されました。鉄のワイヤで固定され、コンテナまで運ばれます。コンテナの中で崩れないように、固定器具が取り付けられ、コンテナの扉が閉まります。
「いったい、どこへ行くんだろう」
暗闇の中、ライオンが考えていると、――ガガッ、ブオロロロロォォ……――エンジンの開始する音が鳴り、コンテナがゆっくり動き始めました。
それからしばらく心地よい揺れが続くと、ライオンはだんだん眠くなってしまい、
「どこへ行くんだろう。どこへ……」
そしてとうとう眠ってしまいました。
目を覚ますと、ライオンは美術館にいました。足元には来館者がひしめいています。
「みて! ライオンだよ」
「陰影が、良いね」
「良い」
「これは路上アートでね、このあたりで寝そべってこそ本来の構図が分かるんだよ!」
「ちょっとそこでお茶してかない?」
ライオンは呆気にとられ目を回しました。それから、自分が生きていることを伝えようと必死に訴えかけました。
それから何日も何日も過ぎた頃。一人の女の子が、ライオンの前に立っていました。
「わあ、生きているみたい」
女の子は感心しました。本当に生きているんだよ、そう伝えようとライオンは女の子をじっと見つめました。
女の子が矯めつ眇めつライオンの周りをぐるぐる歩き回ると、ライオンの目も女の子を追いかけてぐるぐる回りました。
「あれ? このライオン、あっちから見てもこっちから見ても目が合う」
女の子が右に動くと、ライオンも右を見ました。
女の子が左に動くと、ライオンも左を見ました。
「やっぱり。きっとあのライオンの絵、生きているんだ。可哀想に、ぺしゃんこになって絵と間違えられてしまったんだ」
女の子はライオンがぺしゃんこになるところを想像しました――ライオンの身体がぎゅうっと押し潰されて、濡れたスポンジを絞るみたいに水が零れていきます。太陽の光が降り注ぎ、じわじわとライオンの身体は干乾びていきます――恐ろしい想像に女の子は身を震わせ、そして閃きました。
「そうだ、水をかけてあげれば元に戻るかも!」
女の子は早速、外の噴水から水を汲んで、ライオンに掛けようとしました。しかし入り口のところで守衛さんに呼び止められ、水はバケツごと取り上げられてしまいました。
しかし女の子は諦めません。
「そうだ、お尻の方から空気を入れてあげれば膨らむかも!」
ライオンの尻尾のあたりに駆け寄ると、息を吹き込もうと大きく息を吸いました。それから女の子が息を吹こうとした瞬間、
「あぶない!」
守衛さんの手がグンと伸びてきて、女の子の顔を覆いました。
「いたずらしたら駄目でしょう」
守衛さんが言いました。
「ごめんなさい。でも、このライオンは生きているの。戻してあげなくっちゃ」
女の子が言うと、守衛さんは困ったような可笑しいような、よく分からない表情を浮かべました。
「そうだね。それなら、館長さんに相談してみなさい。話して、館長さんにいいって言われたらライオンに水をかけたりしていいから」
「ありがとう!」
女の子は早速、館長さんの部屋へ行きました。ドアをノックすると、
「どうぞ」
すぐに返事が来ましたので、女の子は中に入りました。中に入った途端、油と溶剤の混ざったような臭いがしたので女の子は閉口してしまいました。
「あら、お嬢さんがこんなところに何の用事かしら」
「ライオンを元に戻して欲しいの」
「ライオン? あれは無許可の作品でね、元あった場所に戻したとしても結局、原状復帰のために壊さないといけないの。だからライオンを戻すことはできないわ」
館長さんは宥めるように言いました。
「そうじゃない。そうじゃなくて、ライオンは生きてるの。だから戻すの。付いて来て」
女の子はかぶりを振りながら答え、そして館長さんの手を取ってズンズン歩きだしました。
「あの眼を見て」
ライオンの前に着くと、女の子は館長さんに言いました。館長さんは言われるがまま、ライオンの瞳を注意深く見つめました。
「ずっと私を見てる」
女の子は右に左に歩くと、ライオンの目も右に左に動きます。
「それに、こうやってじっと見ていると――」
その瞬間、ライオンの瞼がピクリと動き、
「――たまに瞬きをするの」
女の子が向き直ると、館長さんは狐につままれたような表情で立ち尽くしていました。
「確かに、このライオンは生きているようですね」
館長さんの言葉に女の子はパッと顔を明るくしました。
「じゃあ、元に戻してくれる?」
「それは――」
「それは?」
「――考えさせてください。少し時間を」
ガッカリしている女の子を尻目に館長さんは考えに耽りました。――ライオンの展示のお陰で来館者が増え、今も殆どの客はライオン目当てに来ています。増えた来館者に対応するため多少の無理はしてきましたが、それでも、スタッフの給与や美術品の保全を滞りなくするには、ライオンの手を借りなければなりません。もし仮にライオンがいなくなって、来館者が途絶えたら、スタッフや残された美術品はどうなるでしょう。私はその決断の責任を果たせるでしょうか――暗い想像がつい頭をよぎります。
――でも、このライオンは生きているのです。故意ではなかったとはいえ、はたして生きたライオンの自由を奪ってまで、一時の金策のために展示を続けて良いものでしょうか? ライオンがいなかったときでさえ、この美術館はずっとやって来れたのです。それが元に戻っても、美術館がなくなったり、来館者がいなくなったりすることはないはずです。――館長さんは自分を奮い立たせ、そして言いました。
「分かりました。元に戻しましょう」
それから女の子はバケツいっぱいに水を汲み、ライオンに掛けました。館長さんも女の子を手伝います。
ライオンの身体が水に濡れると、ぷくりぷくりと膨らみました。それでもまだぺしゃんこです。
それから女の子は力いっぱい息を吸い、ライオンの尻尾のあたりを掴むと、ふーっと息を吹き込みました。でもライオンの尻尾は風にたなびくだけで、ちっとも膨れ上がりませんでした。
「どうしよう。うまく行かないみたい」
女の子は首を傾げました。
「前後から引っ張れば元に戻せるのではないかしら。私がこちらから引っ張りますから、あなたはあちらから引っ張ってくださいな」
女の子は言われた通り、ライオンを引っ張りました。女の子が力を込めると、ポコポコポコ、とライオンの身体が伸びて膨らみました。女の子が驚いて手を離すと、たちまちライオンの身体が膨らんでいき、すっかり元のライオンの姿に戻りました。
「ふーっ、助かったよ」
ライオンは嗄れ声で言いました。
「無事で何よりでしたわ。気が付かなかったとはいえ、美術館に展示してしまってすみませんでした」
館長さんは深々とライオンに頭を下げました。
「いえ、とんでもない。顔を上げてください。僕が不注意だったのです。トラックに轢かれるなんて」
「トラックに? 本当に生きていて良かった。どこも、大事はないですか?」
「ハハ、あまりライオンをべたべた触るものでは」
館長さんが心配そうにライオンの身体をあちこち触ると、ライオンはくすぐったそうに身を捩ります。それでもなお館長さんはライオンの身体を撫で続けました。
「ハハハ、止めてください、止めてください。ほらこの通り、元気です」
ライオンが力こぶを作ると、
「そのようですね?」
館長さんはやがてしずしずと手を引きました。
「やあ、こんなところにいたのか」
するとそこへ美術商のおじさんがツカツカとやってきました。
「あら」
「ライオンの展示はどうしたんだい? 展示の移動なんて聞いていないが。あー、」
忙しなく懐を探り煙管を取り出すと、おじさんはそれを口に咥えようとし、
「あ!」
「……館内は禁煙、火気厳禁ですわ」
煙管は館長さんに取り上げられてしまいました。
「いけない人ね」
女の子がおじさんに注意すると、
「でも悪い人じゃないのよ」
館長さんは宥めるように言いました。
「そうだぞ。善良で、優秀なおじさんだ。……ところで、そちらの方は?」
おじさんがライオンの方へ目配せしました。
「僕がそこで展示されていたライオンです。ずっと展示されていたのを彼女ら二人が戻してくれたのです」
ライオンの言葉におじさんは目を剥いて驚き、
「あの絵がアンタだって?」
「はい」
「本物のライオン?」
「はい」
そして天を仰ぎました。
「すると、俺が呼ぶべきは工事業者じゃなく、……救急車だったのか!」
「……それはもう、時の運ですから」
ライオンは申し訳無さそうに言いました。
「そうはいかない、そうはいかないよ。何かお詫びをさせてくれ」
「私からも、お願いします。何かお役に立てることがあれば」
おじさんと館長さんが言うと、ライオンは困ったような顔をして言いました。
「分かりました。では、お願いといってはなんなのですが。……ちょっと恥ずかしいな」
ライオンは女の子の方を見ました。女の子はライオンのそばに駆け寄ると、少し背伸びをして耳を傾けました。ライオンは女の子にだけ聞こえるよう小さな声で何か話しました。
女の子はゆっくり頷いて言いました。
「それは良い考えね!」
◆◆◆◆
それから、ライオンの絵はなくなっても、美術館の来客が絶えることはありませんでした。美術館の中を人々が絶えず行き交っています。
その中に、あのライオンの姿がありました。ライオンは来館者の質問に答えたり、館内の案内をしたり、美術館の色々な仕事をしています。
熱心な働きぶりは、美術品ではなくライオンに会うために来るお客さんもいるくらいです。
こんなことを言うと、ライオンはガッカリしてしまうかもしれませんね。
ライオンはまたときどき、館長さんとお茶を飲んだり、おじさんと一緒に美術品を収集したりしています。
おじさんは館長さんに会うといつも、
「君と二人で仕事してた頃が懐かしいよ」
なんてことを言ったりします。けれど本当はおじさんもライオンと仕事ができて嬉しく思っているのです。
今日もライオンは三人でお茶を飲んでいました。館長さんの部屋は相変わらず油や溶剤の臭いがしましたが、お茶が特別美味しかったので誰も気にしませんでした。
しばらくするとライオンがソワソワし始めました。
「トイレかい?」
おじさんが言うとすかさず、
「バカ言いなさい、何か用事があるのでしょう?」
と館長さん。
「ええ、実はあの僕を助けてくれた女の子に、改めてお礼をしようと思っているんです」
「そういうことね」
館長さんが納得した様子で頷き、そこで何かを思い出したように立ち上がりました。
「あらいけない。私の部屋の時計、少し遅れているんだったわ。あなた、ちょっと時計を調整して下さらない?」
「俺かい? ……ああ、分かったよ。で、何時に合わせればいいんだい?」
「そうね。五十七分ほど先へ回して下さる? ……ああ、もう三時だわ! お茶の時間はこれくらいにしましょう。ライオンさん、今日は早番でしたね」
言いながら、館長さんは急かすようにライオンの背中をドアの前まで押しました。
「いや、僕は――」
「それでは今日の勤務はこれでお終いですね。お疲れ様です。ではまた」
館長さんはそう言うと、ライオンの言葉を待たず部屋の錠を下しました。
ライオンは少しの間ポカンと立ち尽くしていましたが、それから少し飛び跳ねると、足早に去っていきました。
ぺしゃんこのライオン @chased_dogs
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます