2-2

 ナッツの塩と油で汚れた手を、丁寧に洗ってから、美夜は私のピアノを弾き始める。小柄な身体に似合わず、指はすっとして長い。鍵盤を弾くのにはもってこい、というような形だった。


「あんまり暗譜してないんだけど」


 なんて、言い訳しながら、ショパンとかドビュッシーとか、適当に選んだ曲を弾いてくれた。


「美夜、誰が一番好きなの?」

「え、柚月は?」


 好きな作曲家の名前を、せーので言い合うと、ハモった。『音楽の父』なんて言われる、その人。私たちは同じ作曲家に焦がれていたのだった。


「グノーのさ、『アヴェ・マリア』弾ける? メロディラインだけでいいから」

「あー、それならわかる」


 グノーの『アヴェ・マリア』は、J.S.バッハの曲を伴奏にする形で、聖句を歌詞にしてメロディラーンが付け加えられたものなのだ。声楽だけでなく、色々な楽器でアレンジして演奏されることが多くて、私もそのメロディラインを、フルートで吹いたことがあった。


 私の返事を聞くや否や、さっそく美夜は弾き始める。私は慌てて、指を鍵盤に乗せる。ささやかな連弾が始まった。


 そもそも連弾用の曲ではないから、メロディを弾くために変に密着することになる。美夜の息遣いが耳元で聞こえて、少しだけくらっときた。酔っているから、仕方ない。


 酔っ払って演奏するのは気持ちがいい。誰かと合わせるのなんて久しぶりだから尚更だ。日付が変わる時間まで、私たちはそうやって弾いて遊んでいた。


「もう疲れたから、おしまい」


 美夜はそんなことを言ってテーブルに戻って、スミノフの瓶を開ける。グラスに注ぐこともせず、瓶に直接口をつけて飲む。一口飲んで、私に渡してきた。まわし飲みってことか。


 こういうの、意識したら負けなんだろうな、と思いながら、私も瓶から一口飲む。やっぱり、美夜の唇がなんとなく気になってしまう。


 美夜の唇は、お風呂上がりで口紅もしていないのに、綺麗な赤だ。アルコールのせいで血色が良くなっているのだろう。彼女はあまりお酒に強くなさそうだった。


 しかし、スミノフとシードルを飲み終わってからも、美夜はまだ何か、物足りなそうな顔をしていた。


「冷蔵庫、牛乳ある?」

「あるけど、今から飲むの?」

「……じゃーん」


 美夜は上着のポケットから、カルーアの小瓶を取り出した。


「なにそれ」

「カルーアみたいな女になりたくて」


 理由になっていない理由を述べると、美夜は私の冷蔵庫を勝手に漁って、牛乳を取り出した。


「このグラス、もらうね」

「どーぞ」


 美夜が私の分も作ってくれる。カルーアミルク。甘くて、カフェオレみたいな可愛いお酒。


「甘いからって油断してると、足腰立たなくされちゃうからね」


 どこまで冗談なのかわからない、そんなことを言う。


「ほんと、甘いね。どうにかなりそうだわ」


 そんな返答をしたかどうか、というところだった。私の唇に柔らかなものが触れていた。頭の中がかあっと熱くなる。長い髪が揺れて、香る。ローズ、かな。なんて思う間に、舌を差し入れられ、カーペットの上に押し倒された。カルーアミルクのせいなのか、身体がうまく動かない。


 まったく想定外だった。爪が短い、なんて話で察するべきだった。まさか、『そっち』だったなんて。


「ずるい。……私が押し倒す予定だったんだけどな」


 そんな精一杯の恨み節をぶつけるも、美夜は許してくれない。首筋に舌を這わされる。お腹の底が、じんわりと熱くなる。だめだ、これ。


 『する』のは初めてじゃないけど、『される』のは初めてだった。


 美夜は私の胸の先を指で弄ぶ。声が漏れた。こーいうのも、たまには悪くないな、なんて思っていたのも束の間で、すぐに考え事なんてしている余裕はなくなる。


 服を一枚ずつ脱がされ、直に肌に触れられる。


「可愛いね、柚月」


 つい、びくっとなった私をからかって言う。


「慣れてないだけだから」

「ん、されるの、初めて?」

「……うるさい」


 指を動かしながら話しかけてくるものだから、ろくに返答なんかできないのに。触れてほしい場所を巧妙に外しながら、いろいろな触れかたをする。焦らされる。


「柚月、本当は猫ちゃんなんでしょ?」


 そんな意地悪を言う。完全に美夜のペースに飲まれていた。何度も何度も、上り詰めては、すんでのところで止められる。苦しくて、懇願するまで、許してくれなかった。


「やっぱり猫ちゃんだったね」


 そうして私は、いとも簡単に、籠絡されたのだ。




 翌朝、何も身につけていない美夜を捕まえて、私は言った。


「……私たちさ、ちゃんと付き合わない?」


 胸がドキドキして、声が震えた。実際私は、美夜の肌の感触が忘れられなくて。この時にはすでに、手放したくないと思ってしまっていたのだ。


「んー……」


 美夜は悩ましげに、なんだか乗り気じゃないような声を出す。


「私さ、他に好きな人いるんだよね。だからダメだ」


 そんなことをしれっと言う。


「そんな……」


 想定外の反応に、驚く。胸がきゅっとなって、思わず泣きそうになる。こんなの、初めてだった。


「そんな、落ち込まないでよ。したくなったら、またいつでも気持ちよくしてあげるから」


 あまりに酷い台詞に、私の目は耐えられなくなっていた。熱い液体が込み上げてくる。


「……ほら、泣かないの」


 そう言って美夜は、また私に口付けてくる。彼女が何をしたいのか、全然わからなかった。抵抗もできずに、そのまま押し倒されて、私は再び彼女に抱かれてしまったのだった。

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