小林くんの不思議な仕事

カラエ智春

小林くんが変なアルバイトをしている、という話を小耳にはさんだのは去年の12月ころだったと思う。

小林くんが変なアルバイトをしている、という話を小耳にはさんだのは去年の12月ころだったと思う。


それはまさに「小耳にはさんだ」という表現にぴったりの状況だった。

小林くんの話をしていたのは私の友達でも知人でもない、顔見知りの同級生たちで、彼女たちは大学のカフェテリアのテーブル席に気だるげに腰かけ、4コマ目の授業の開始をまっていた。


私も同じ授業の開始を、ひとりでまっているところだった。

ふだんは寄りつきもしない、なんだか陽の気をはなつ人ばかり集まるカフェテリアに、勇気を出してはじめて入ってみたら、同じ授業を受ける彼女たちがいて、私は一気に原因不明の汗をかき、顔色を赤くしたり青くしたりした。


ひとりでカフェに入ってきたことを笑われるかもしれない、もしくは、「人類みなともだち」的なテンションで声をかけられてしまうかもしれない、そしたら私はうまく対処することができないかもしれない。


そんなことを想像していたら動揺のあまり真冬なのにアイスコーヒーを注文してしまい、さらに陽気なレジの人のすすめられるままにくるみのパウンドケーキまで買ってしまった。そのうえ財布の小銭入れの口を下に向けたまま開けてしまい、中身を床にこぼしてしまい、顔はまっかになり、眼鏡はすっかり私の体温でくもってしまった。


最後の五円玉拾いながら、クラスメイトの机の方を見上げてみたら、彼女たちはスマートフォンに夢中で、私の方をみてもいなかった。私は彼女たちが同じ授業をとっていることを知ってるけれど、彼女たちは私のことを知りもしないし、だから気が付きもしないのかもしれない。


そう思うと、どういうわけか目尻に涙がにじんだ。さっきまで一緒に授業の開始を待とうなんて言われたらこまるな、なんて思っていたくせに。



私はそんなふうに、この大学のなかでほとんどどこまでもひとりで行動し、地味に、ほとんど誰にも気がつかれることなく過ごしていた。地味でほとんどどこまでもひとりで行動している、という点においては小林くんも私とおなじだった。


小林くんは、背が高いのに、とてつもなく猫背で、首をひょこひょこするようにして歩く。基本的には伸びきった白のロングTシャツと穴の空いたジーンズを身につけていて、身体は細く、肌の色は真っ白だ。いつも机にかじりつくみたいにして座っているから、彼の背が本当は高いことに誰も気がついていないと思う。


私はたまたま、彼が一度教室の隅っこでぐうっと両手を上に高く上げてのびをしているところを目撃したことがあって、だから彼の背が本当はものすごく高いことを知っている。


小林くんはのびを終えると、植物のつるみたいにくるくるとまた猫背にもどった。


そしてあくびをひとつして、すこし垂れた目を中指の腹でこすった。



私と小林くんとでおおきく違うところは、小林くんはそのちょっとした変化を周りに気づかれて、噂をされたりからかわれたりするところだ。

小林くんがクラスで誰かとつるんでいるところはいちどもみたことがないのに、小林くんはよくクラスのなかで話題になった。真冬でも穴の空いたジーンズを履きつづげているところとか、まだプラスチックの下敷きを使っているところとか、着るものやもちものにまったく関心がなさそうなのに鞄だけはポールスミスなところとか、クラスの人たちは小林くんのことをよく観察していた。


とびぬけて目を引くような美麗な容姿をしているわけでもないのに、小林くんのその独特の雰囲気はどうやら無視することも難しいようだった。


彼はからかわれてもとくにきにすることはなく、ジーンズの穴を指摘されれば、たった今その存在に気がついたように「はぁ、穴ですか」とつぶやき、それからまだ続きを話すのかと思ったらひとことも喋らなくなったり、「みなさん楽しそうなことはとてもいいことですね」と老人のようなコメントをした。



小林くんの変なアルバイトの内容は、どうやらスピリチュアルな内容らしかった。


あの日のカフェテリアにいた、ミルクティー色の髪をくるくるに巻いた、綺麗な卵型の顔のかたちの同級生が、「小林がスピリチュアルて」と言い、周りのひとたちと一緒に笑った。そこには、いやなもの、怖いものを笑い飛ばすような雰囲気も、悲壮感も、ばかにした感じもなく(いや、すこしばかにしている感じはしたかもしれない)、「小林って本当に変わってるよな」というほのぼのとした空気だけがあった。


大学に入学してすぐのガイダンスで、「宗教や、過激な思想をもつ政治的な団体には充分に気をつけるように。彼らは別の仮面をかぶって接近してきます。すこしでも変な空気を感じたら、すぐに学生課に相談に来てください」と言われ、すっかりそういうものに縮み上がっていたけれど、「小林くんがスピリチュアルな仕事をしているらしい」と聞いても、とくに怖いとも不気味だとも思わなかった。


むしろ、それで私は小林くんへの関心をますますつのらせた。

いったい彼は、具体的にどんな仕事をしてるんだろう。ていうか、なに考えて生きてるんだろう。


彼もカフェテリアで話しかけてもらえなくて涙ぐんだりするんだろうか。

いや、きっと小林くんはカフェテリアに同級生がいても気がつかないだろう。気がついたとしても気にしないだろう。私のみたことのある小林くんは、いつもうつむいているし、猫背だし、前髪が瞳にかかるほど長いけど、彼が怯えたり、怖がったり、気を使ったりするところはぜんぜん想像できない。きびしい環境でひとりで暮らすネコが、道端で日向ぼっこをしている時のような、暗くも明るくもないけれど落ち着いた雰囲気が小林くんにはあるのだ。



いくら私が一方的に関心をもっているからといって、私が小林くんに話しかけることはなかった。そうこうしているうちに私たちは二回生になった。


小林くんの姿は相変わらずよくみかけたし、彼は相変わらずひとりだったけれど、どんな話題で話しかけたらいいのか、想像もつかなかった。そもそも私は、小林くん相手ではなかったとしてもどうやって人に話しかけたらいいのか忘れてしまったのだ。高校に入学した時はどうしたんだっけ。あの子とはどうやって一緒に下校することになったんだっけ。まったく思い出せなかった。


それに私のこの関心がいったいどういう種類のものなのか、それがわからないのが気持ち悪かった。

もしもこれが、珍しい動物を観察したい、なつかない動物を手なずけたい、そういう種類の暗い欲望からくる感情だとすれば、それは心の中にしまっておくべきだと思った。


私は小林くんへ向かうこの私の感情を、小林くん自身の観察よりもずっと、深く観察しなければならないと思った。答えがでるまでは近寄ってはいけない。



そんなふうに半年、平穏に、いつもどおりに過ごしていたのに、その年はじめて紫陽花が咲いているのをみた日に、学食の向かいの席に小林くんが座った。


小林くんはメンチカツが3つ、キャベツの千切りが山盛りにのった皿と、大盛りのご飯とお味噌汁をお盆にのせ、「ここいいですか」と私に話しかけた。


私はびっくりして動揺しながらも、「どうぞ」といった。小林くんの声は意外と、混雑した学食の中でもよく通った。


それにしてもメンチカツ3つって。


味いっしょすぎて飽きない?ひとつはアジフライかコロッケでもよかったのでは?めちゃくちゃメンチカツ好きとか?など、様々な疑問が思い浮かんだけれど、それを口に出すことはぐっとこらえ、私は私の和風おろしハンバーグに集中することにした。


「山本さん法政史のIIは取らなかったんですか」


と小林くんが味噌汁をすすりながら呟いたとき、私はそれがはじめ、自分に話しかけられたのだとは気がつかなかった。


「え、は、私ですか」

「え、ちがいましたっけ、山本さんですよね」


と小林くんは言った。

大学に入って、あまりにも名前を呼ばれることがなかったから、私は自分の名前が山本であることを忘れつつあった。


それをそのまま言うと、小林くんはウンウンと首を振ってうなずき、「わかります、わかります、よくわかります。ぼく最近クマラってばかり呼ばれてるから、自分が小林だってこと、忘れます」といった。


「クマラ?下の名前?」

「いや、なんだろう、仕事をするときにつかう名前です。ぼく除霊の仕事してるんですよ」


と小林くんはメンチカツをかじりながら、なんてことないように呟いた。


そんな、まさか、「居酒屋でバイトしてる」とか「映画館で働いてる」的なノリで、こんなにつるりと「除霊」って言葉がでてくるとは思わなかったから、こちらの方が動揺してしまった。そうでなくても、ただでさえ私は「人と会話をしている」というシチュエーションに参ってしまっていたし、その相手が小林くんだったから許容量をはるかに上回り、かえって冷静になった。


「除霊?ってことは霊がみえるの?」


「いや、見えないすよ。ぼくはクマラの声が聞こえるだけ。クマラのいうことを、いうとおりにやるだけですね」


と小林くんは言った。



「クマラっていうのは」と質問しようとしたが、私たちの隣に座っている女の子たちがけっこう前から無言であることが気になっていた。どうやら私たちの会話に聞き耳を立てているようだった。


小林くんは、仕事の話をするときも別に声のトーンを落としたり、声をちいさくしたりはしないから、聞かれても気にしないのだろうけれど、私は小林くんとのこの会話を聞かれるのが嫌だった。

隣の子たちは無言のまま小林くんが話をするたびに目を見開いたり、唇を歪めてニヤニヤしたり、とにかく私たちがいなくなればそこから堰を切ったように私たちの悪口を言うんだろうな、と言う感じがした。


とはいえ、小林くんの話をさえぎりたくはなかった。せっかくのチャンスだったし、これから先私と小林くんがこうして話をするチャンスなんてほとんどないんだろうな、と思ったからだ。


「小林くん、その話のつづきは、このあと中庭のベンチで話さない」と言うと、小林くんは「いっすよ」と言い、黙ってメンチカツをかじり始めた。


そんなに簡単に中庭で話をすることが了承されるとは思わなかった。



私はコーヒーを買い、小林くんは水筒にお茶をいれてきたからいらない、と言い、私たちは中庭に移動した。

梅雨だったからベンチが湿っていないか心配だったけれど、乾いていたからホッとした。


「それで、クマラって誰なの」と私は切り出した。

「それがぼくにもよくわからないんすよね」と小林くんは言った。


ある日、「よくわからないもの」との交信がはじまったこと。その「よくわからないもの」の名前がクマラだということ。クマラがそう名乗ったのだということ。クマラが「仕事」をしているとき、小林くんはクマラに体を貸しているのだということ。口コミでクマラの話がじわじわと広がっていき、いつの間にかそれを「小林くんの職業」として引き受けることになったこと。誰かがいつか小林くんのやることを「除霊」と呼んだから、自分のやっていることが除霊だということに気がついたこと。


小林くんはそんな話をゆっくりと、季節の変わり目の服装について話すかのような口ぶりで話した。


私はただ、呆気にとられ、どう相槌を打てばいいのか、なにを質問すればいいのか、よくわからなかった。


ただ、小林くんがあまりにもすべらかにその話をすることと、さっき彼が「自分が小林だってこと、忘れます」と言ったことがあまりにもあまりにも気になって、「ねぇ、それ、自分が消えちゃうような気分にならないの。それは怖くないの」と仕事とは関係のない、気持ちのことを質問してしまった。


「さぁ、どうでしょうね、消えるのかもしれませんね」と小林くんは無邪気な感じで、実に無邪気な感じで笑った。自体の深刻さが、なんにもわかっていない子どもを見たときのような感情が、肺いっぱいに広がって、私は一瞬息苦しくなった。


「嫌じゃないの」


というと、小林くんはぱちぱちとまばたきをして、水筒を開け、蓋に湯気のたつお茶を注いだ。蓋がコップになっているタイプの水筒って、ものすごく久しぶりに見たな、と、脈絡のないことを思った。


「嫌、嫌……嫌なんでしょうかね。どうなんでしょうかね。自分でもよくわからないですね」と小林くんは言い、お茶を一口飲んだ。

彼が水筒の瓶を揺すると、香ばしい匂いの湯気がたちのぼった。どうやらほうじ茶のようだった。


「お客さんに、自分とは別の名前で呼ばれて、ぼくの目を見ながら聞き馴染みのない名前に向かって、「クマラさん、ありがとうございます」と言われているときはたしかに、『ぼくは一体誰なんだろう。何者なんだろう』と思っているかもしれません」


と小林くんは言った。


「でもね、仕事自体は気に入っています。うん気に入っています。なんていうんだろう、クマラとつながっているときぼくは、極度に境界線のない場所にいます。そこでは光も闇も溶け合い、輪郭も溶け、ただ、『わかる』の球体みたいなものが存在し、ぼくはただその中にいればよく、それはものすごく原始の記憶のようなものに似ていて、未分化の細胞よりもぼくには存在というものがなくなるんです。

そのときのぼくは、自我から解放され、ぼくという存在が存在しないことに対する恐怖からも解放され、ただ、ただ、とてもいい場所にいる、ということがわかります。ぼくの口からは言葉が漏れて、こぼれ落ちます。クマラのやっていること、言っていることがいいことなのか悪いことなのか、正義なのか敵なのかぼくにはわからないし、ぼくにわからないものをそうやって、無防備に、無配慮に垂れ流すことがいいことなのかもわかりません。

ただぼくはやってきたものを右から左に渡しているだけだけど、もしもぼくのやっていることが悪いことで、誰かに指をさされ、激しく糾弾されることがあるのなら、それはぼく、小林であり、ぼくの肉体であり、ぼくの人生であり、ぼくの将来に危機が訪れる、ということであることもわかります」


小林くんはそこまで話すと、意外にもまんぷくのネコのように目を細め、遠くの方を見た。


「でもねぇ、こんなデタラメな世界でねぇ、正しいことをしていたとしても道をふみ間違えるような世界でね、ぼくができることって、これしかないんですよね」


と小林くんは言った。



私たちはそれから、3コマ目にべつべつの授業が控えていたから、そこで別れた。


私が想像したとおり、小林くんと私がそれから話をすることはほとんどなかった。避けていたわけではない。おたがいに廊下ですれ違う時なんかは頭をぴょこっとさげるけれどそれだけだ。

そのうち、私はぱっとしない恋愛を開始し、そのぱっとしない恋愛にそれでもすこしはのめり込み、しばらく小林くんのことは忘れた。忘れた、というか、意識にのぼってこなくなった。


3回生になり、四季報をバラバラとめくるようになり、模擬面接を繰り返し、インターンシップの申し込みをする頃には、私はふたたび小林くんのことを思い出すようになった。


ぼくは未分化の細胞よりもずっとぼくという存在がなくなるんです。

ぼくは一体誰なんだろう、何者なんだろうと思います。


私はみんなと同じスーツを着て、同じ靴を履き、同じ髪型をして、未分化の細胞よりもずっと私という存在がなくなるんです。

私は一体誰なんだろう、何者なんだろうと思います。


と、私は就活スーツのままベッドに寝転び、くらい天井を見上げながら頭の中で呟いた。目から涙がつるりとこぼれ、鼻の奥がツンと痛くなった。


そこまでは小林くんと一緒だけど、それでも私は小林くんのいうような、「いい場所」には居ない。ここが「よくない場所」ということだけはわかっていて、私にとってのいい場所がいったいどこにあるのか、どうすればわかるのか、クマラに聞けばわかるのか、それもよくわからない。


小林くんはいまもいい場所にいるのだろうか。


そう思い、目を閉じると、植物のつるみたいにまるまった小林くんの猫背がまぶたの裏に浮かんだ。

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小林くんの不思議な仕事 カラエ智春 @chiharu-kalae

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