10杯目

「ただいま……誰もいないか。」


というか、居たら怖いよ。


一人暮らし初めて数日が経ったのに、なんとなく「ただいま」と言葉が出てくるのは、長年の実家暮らしのせいだろう。家に帰ると、母がいて「お帰りなさい」といつも返事が返ってきた。そんなことが、とても幸せに感じていたんだね、私。


実家でお母さんにあれこれ口うるさく世話をやかれて、思春期過ぎても、多少『たまにはひとりでゆっくりしたいのになー』と、その存在を軽んじていたのも、今は懐かしい。


そして、申し訳ない気持ちが溢れてくる。


目に見える家事……料理に洗濯、掃除といった家事以外に、生活していくためには、気を配らなければならないことが多すぎる。それを今までずっと、私は気付きもせずに、ただ甘えていただけなんだと、たった数日の一人暮らしと、喫茶店 太陽の様子から、痛感した。


明日からは、そのお店で自分が働く。


明日の服を何にしようと思い立ち、試しに着替えてみることにした。そして、店長さんから頂いたお店のエプロンをつけて、姿見の前に立ってみた。服は何でも、と言われたけれど、とりあえず動きやすさと清潔さということで、シンプルなシャツとジーンズ、それに、紺地に黄色い太陽の刺繍が入ったエプロン。うん、これなら大丈夫かな。あとは……。


私は自分の頭に手を当てて、そして、髪に沿って下ろしていく。胸元まである、クセの無い黒髪。学生時代はいつも、友達に羨ましがられたっけ。カラーやパーマができない学生時代には、髪そのものの美しさだけで、見た目の印象が大きく左右される。普通の、お母さんと同じシャンプーとリンス使っていたの、サラツヤの私。その頃から「切るなんて勿体無いよ!」と言われ続けて、肩より上の短さにしたことがない。仲のよい友達からは「その髪は花子の宝だからね。」とまで言われていた。


髪は女の宝なんだから!だっけ。そう力説したいた友達は、今は美容師になっている。その彼女も誉めてくれた髪。私の、唯一の自慢でもある髪。


でも。


「飲食店だからねぇ。」


そのまま下ろしっぱなしという訳にはいかない。前の会社では、下ろしていても特に仕事に影響が無かったから、時々、シュシュでまとめるくらいだったし。少し考えて、私はポーチから黒ゴムを出し、髪を1つにまとめて、背中に落とした。

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