　　　第二十一章　マトゥラー国

　ここはマトゥラー国。スターネーシヴァラ国の南にあるヤムナー川沿いの豊かな国。この国のとある町でちょっとした事件が起きた。

　いつものようにソーハンとモーハンが川で洗濯物（せんたくもの）をしていると、一隻（いっせき）の小船（こぶね）が流れて来た。

　「おい、ソーハン、小船（こぶね）が流れてくるぞ。」

　最初に小船（こぶね）に気がついたのはモーハンだった。

　「本当だ。誰も乗っていないみたいだな。」

　ソーハンが小船（こぶね）を目で追いながら言った。小船（こぶね）の上に人影（ひとかげ）はなく、誰も乗っていないかのように見えた。

　「なあ、ソーハン、誰も乗ってないってことは持ち主がいないってことだよな？」

　モーハンがソーハンに言った。ソーハンはモーハンが何を考えているか分かった。

　「そうだろうな。ということは俺たちがもらっても問題ないわけだよな？」

　二人は顔を見合わせてニヤリと笑った。

　「よし、行くぞ。」

　ソーハンがそう掛け声をかけて、二人はばしゃばしゃと川の中に入って、流れてくる小船に飛びついた。先に小船にたどり着いたのはソーハンだった。ソーハンは小船の中を覗き込んだ。

　「子供だ！」

　ソーハンは驚いたような、がっかりしたような声を上げた。

　「子供？」

　モーハンも小船の中を覗き込んだ。小船の中には金糸（きんし）の刺繍（ししゅう）が施（ほどこ）された衣装（いしょう）を身に纏（まと）い、赤い宝石をはめ込んだ金の耳飾（みみかざり）と指輪（ゆびわ）をつけている少年が横になって寝ていた。

　「岸に寄せよう。」

　ソーハンが言った。二人は小船を岸に寄せると子供の息があるか確かめた。

　「大丈夫だ。生きてる。」

　ソーハンが言った。

　「医者に見せたほうが良くないか？」

　モーハンが言った。

　「そうだな。町医者のニルマダのところに連れて行こう。」

　二人は男の子を抱えて町の診療所（しんりょうじょ）に連れて行った。

　「おーい、ニルマダ先生、患者（かんじゃ）を連れてきたぞ。」

　モーハンが診療所（しんりょうじょ）の戸を開けると大声で言った。

　「おーい、いないのか？」

　ソーハンも大声を出した。

　「静かにしろ！ここをどこだと思ってるんだ？病人がいるんだぞ。」

　診療所（しんりょうじょ）の奥から眼鏡（めがね）をかけた白髪（しらが）交じりの男が出てきた。

　「悪い悪い。」

　二人は憎めない愛想（あいそ）笑いを浮かべた。

　「患者（かんじゃ）というのはその子か？」

　ニルマダはモーハンが抱えている男の子を見て言った。

　「ああ、そうだ。流されてきた小船に一人で乗ってたんだ。」

　モーハンが答えた。ニルマダはじろじろと男の子を見た。

　「どうかしたのか？」

　ソーハンがニルマダに尋ねた。

　「いや、何でもない。その子を奥のベッドに運んでくれ。」

　二人は言われたとおりに男の子をベッドの上に寝かせた。ニルマダは男の子の脈（みゃく）をとり、呼吸（こきゅう）を確かめ、目を調べると二人に言った。

　「この子は眠っているだけだ。心配はいらない。」

　「ああ、良かった。ここに連れてくるまでピクリとも動かなかったからもしかしたら、どっか悪いんじゃないかって心配してたんだ。」

　ソーハンが言った。

　「俺もだよ。小船に一人で乗ってたこと自体変だし、何かあったんじゃないかって思ってたんだ。」

　モーハンが言った。二人は安堵（あんど）の表情を浮かべた。

　「小船に一人で乗っていたというのは確かか？近くに他の小船は流れて来なかったか？」

　ニルマダが尋ねた。

　「ああ、確かに一人で小船に乗ってた。小船はこれ一隻（いっせき）。後から何も流れて来なかった。」

　モーハンが答えた。

　「念のために確かめに行ってこようか？親が捜（さが）しに来てるかもしれない。」

　ソーハンが言った。

　「そうだな。そうしてくれるかソーハン。もしかしたら、もしかするかもしれないからな。」

　ニルマダは男の子がはめている指輪（ゆびわ）を見ながら言った。

　「もしかすると、もしかするかもしれないって何だよ？」

　意味ありげな言い方が気になってモーハンが尋ねた。

　「この指輪（ゆびわ）を見ろ。」

　ニルマダが男の子の右手の人差し指にはめられている指輪（ゆびわ）を指した。

　「この指輪（ゆびわ）には何が描かれている？」

　ニルマダが質問するとソーハンとモーハンは争うように指輪（ゆびわ）に顔を近づけた。

　「象（ぞう）だ。牙（きば）が八本ある象（ぞう）だ。」

　ソーハンが先に答えた。

　「そうだ。それはスターネーシヴァラ国の王族の印象（いんしょ）だ。」

　「ええっ！」

　二人は同時に声を上げた。

　「驚くのはまだ早い。」

　ニルマダはすかさず言った。

　「スターネーシヴァラ国の王族は昔、王の一家以外、人質（ひとじち）として他国に送られた。その時、印象（いんしょう）がついた指輪（ゆびわ）はすべて取り上げられた。他国でスターネーシヴァラ国の印象（いんしょう）が使われるようなことがあると困るからな。つまりこの印象（いんしょう）がついた指輪（ゆびわ）を持っているのは現スターネーシヴァラ国王ラージャ・ヴァルダナ王とその弟ハルシャ・ヴァルダナ王子だけだ。」

　「ということはつまり…。」

　ソーハンが言いかけた。

　「この子は王様（おうさま）ってことか？」

　モーハンが続きを言った。

　「違う！王子の方だ。」

　ニルマダは鋭（するど）く言った。ソーハンは呆（あき）れたという目でモーハンを見た。

　「どうするんだよ。王子様なんか拾っちゃって！」

　モーハンは騒（さわ）ぎ出した。ハルシャ王子を厄介（やっかい）なものだと言わんばかりだった。

　「迎えが来るのを待てばいい。本当に王子だったら必ず迎えが来るはずだ。心配することはない。」

　ニルマダが落ち着いた口調（くちょう）で言った。

　「そうだけど、もし、誰かに追われてたり、命を狙われてたりして、ここに逃げてきたんだとしたらどうする？俺たちも危（あぶ）なくなるじゃないか。」

　モーハンは本能的（ほんのうてき）に何かを感じてか、鋭（するど）い予想（よそう）をした。

　「まさか。そんな小説みたいなことあるわけないだろう？」

　ソーハンが笑いながら言った。けれどもニルマダはモーハンの考えもあり得ると思っていた。

　その時、三人の話し声がうるさくて、ハルシャ王子が目を覚ました。三人は息を呑（の）んでハルシャ王子に目を向けた。

　「ここは？」

　ハルシャ王子が上半身（じょうはんしん）を起こして目をこすりながら尋ねた。

　「ここはマトゥラー国、ニルマダの診療所（しんりょうじょ）です！」

　ソーハンが軍隊（ぐんたい）の指揮官（しきかん）から尋ねられたかのようにキビキビとした口調（くちょう）で、早口に答えた。

　「そうか。」

　ハルシャ王子はまだ寝ぼけているようだった。マトゥラー国と言われても、スターネーシヴァラ城のどこかにいるような気がして、ぼうっとただ前方を見つめていた。

　「お尋ねしますが、もしかしてあなたはスターネーシヴァラ国のハルシャ王子ではありませんかな？」

　ニルマダハルシャ王子の視界（しかい）に入るよう一歩前に進み出て尋ねた。ハルシャ王子の目が反射的（はんしゃてきに）に声のした方を見てニルマダを映（うつ）した。見たことのない顔だとハルシャ王子は思った。頭の中でもう一度ソーハンの言葉が浮かび上がった。『ここはマトゥラー国』。ハルシャ王子の頭が覚醒（かくせい）した。すべての出来事が頭の中で繰（く）り返された。

　「そうだ。僕はハルシャ・ヴァルダナ。現スターネーシヴァラ国王の弟だ。」

　ハルシャ王子は打ちひしがれ、疲れているように力なく質問に答えた。けれど王子らしい威張（いば）った口調（くちょう）は変わりなかった。

　「おおーっ。」

　恐（おそ）れ敬（うやま）うような声が診療所（しんりょうじょ）全体から沸（わ）きあがった。

　三人は話に夢中になって、周りにほかの入院患者（にゅういんかんじゃ）がいることも忘れて、声を落とさず話していた。会話はすべて筒抜（つつぬ）けだった。三人は今頃になってしまった！という顔をして患者（かんじゃ）たちを見回した。

　「僕は追われている。命を狙われているんだ。」

　ハルシャ王子は心細（こころぼそ）げに言った。

　「ほら、俺の言った通りだ。」

　モーハンが得意（とくい）げに言った。けれどニルマダもソーハンも診療所（しんりょうじょ）に入院している患者（かんじゃ）の誰もが無視（むし）した。全員ハルシャ王子の言葉に耳を傾けていた。

　「誰に狙われているんですか？」

　ニルマダが尋ねた。

　「覆面（ふくめん）をした王宮警備兵（おうきゅうけいびへい）だった。」

　「謀反（むほん）ってことか？」

　モーハンが驚いた顔をして言った。ハルシャ王子も青ざめた顔をした。

　「いや、たぶん違う。謀反（むほん）を起こしたのなら覆面（ふくめん）をする必要はない。堂々（どうどう）と襲（おそ）ってくるはずだ。」

　ニルマダが的確（てきかく）な推理（すいり）をした。ハルシャ王子はほっと胸を撫（な）で下ろし、ニルマダに目を移した。ニルマダはかなり頭が良いと見えた。

　「うかつに王宮には帰せないな。命が危なくなる。」

　ニルマダは困ったように言った。

　「追ってもやって来るかもしれない。」

　モーハンが不安を煽（あお）るように言った。

　「じゃあ、どうするんだ？」

　ソーハンが言った。

　「僕はタール砂漠（さばく）の砂（すな）の牢獄（ろうごく）に行く。どうしてもそこに行かなくちゃ行けないんだ。」

　ハルシャ王子が覚悟（かくご）を決めたような口調（くちょう）で言った。

　「タール砂漠（さばく）の砂（すな）の牢獄（ろうごく）？ニルマダ先生、あんた知ってるか？」

　ソーハンが尋ねた。

　「いいや、知らん。」

　ニルマダは腕を組（く）んで首を横に振った。ハルシャ王子は絶望的（ぜつぼうてき）な顔をして、ため息をついた。

　「マルラーリーばあさんは？」

　病室のどこかから声がした。声の主はベッドの上に横になって片足を天井（てんじょう）から吊（つ）るされている親切（しんせつ）そうな女だった。

　「ああ、マルラーリーばあさんか！」

　モーハンはその人を知っているようだった。

　「あのばあさんなら知ってるかもしれないな。魔女（まじょ）だもんな。」

　ソーハンが言った。

　「魔女（まじょ）？」

　ハルシャ王子は聞き返した。

　「そうですよ。大なべの中で得体（えたい）の知れないスープをグツグツと煮込（にこ）んだりする人のことですよ。」

　ソーハンが答えた。

　「マルラーリーばあさんは町外れの森に住んでるんだよ。」

　病室のどこかから声がした。ハルシャ王子よりも小さな男の子の声だった。青白い顔をしていて具合（ぐあい）が悪そうだった。それでも笑顔でハルシャ王子の役に立ちそうな情報を小さな頭の中からひねり出したのだった。普段面倒を見てもらってばかりいる入院患者（にゅういんかんじゃ）たちは何か役立つことをしたくてウズウズしているようだった。病室のどこかから次々に声が上がった。

　「マルラーリーばあさんは亀（かめ）を飼っているんだ。」

　首固定されてベッドの背もたれに寄りかかっている若い男が言った。

　「違うわ。飼っているのは蛇（へび）よ。」

　さっきの親切そうな女が言った。

　「両方飼ってるんだ。名前はクールマとシェーシャだよ。」

　その隣のベッドにいるさっきの男の子が言った。

　「マルラーリーばあさんは二匹をサンガムで拾ったと言っていたのう。一生に一度はサンガムに行ってみたいものじゃ。」

　うつぶせに寝ている老人が言った。老人は腰（こし）を痛（いた）めているようだった。老人が言っているサンガムとはプラヤーガ国にある巡礼地（じゅんれいち）で、ヤムナー川とガンジス川の合流（ごうりゅう）地点のことだ。伝説では地下にサラスヴァティー川が流れ、三つの川がここで合流していると言われていた。

　話はマルラーリーばあさんから亀（かめ）、蛇（へび）、サンガムと逸（そ）れていったが、ニルマダの一言でまた元に戻った。

　「残念だが、マルラーリーばあさんは一週間前死んだ。孫のルハーニが葬式（そうしき）をあげていた。」

　「ええっ、あのばあさんが死んだのか？不死身（ふじみ）だと思ってたのに。」

　モーハンがその場にいる全員の気持ちを代表して言った。皆マルラーリーばあさんのことを不死身（ふじみ）だと思っていた。

　病室が静まり返った。また振り出しに戻ってしまった。けれどハルシャ王子は怪しげな老女に助けを求めずに済んでほっとしていた。

　「なあ、ルハーニはどうだ？ばあさんの孫（まご）だ。道が分かるかもしれない。占いか何かで。」

　突然、ソーハンが思いついたように言った。

　「何言ってるんだ。ルハーニはまだ九歳だぞ。そんな子供に何ができる？」

　モーハンが言った。ハルシャ王子は自分と同い年だと心の中でつぶやいた。

　「それでも魔女（まじょ）の孫（まご）は魔女（まじょ）だ。何かできることがあるかもしれない。」

　ソーハンはそう言ってニルマダの顔を見た。自分の意見に賛成してくれるのを期待（きたい）しているようだった。

　「ああ、確かに。何か役に立つかもしれない。」

　ニルマダは一応賛成したが、心の底からそうは思ってはいなかった。ニルマダ多少なりともルハーニについて知っていたので、不安だった。

　「よし、そうと決まれば早速行こう。ハルシャ王子、町外れの森まで案内してやるから、さっさと支度しな。」

　ソーハンはさっきまでの丁寧（ていねい）な言葉遣（ことばづか）いを忘れて、もともとの粗野（そや）な言葉遣（ことばづか）いに戻って言った。ハルシャ王子はこんな無礼（ぶれい）な口の利（き）き方をされたことはなかった。ソーハンを一睨（ひとにら）みして、わざとゆっくりベッドから降りた。

　「もたもたすんな。日が暮れちまう。」

　モーハンが急（せ）かした。ハルシャ王子は眉（まゆ）を吊（つ）り上げてモーハンに向き直り口を開きかけた。その時、ニルマダがハルシャ王子に言った。

　「ハルシャ王子、二人の無礼（ぶれい）な口の利（き）き方を許してやってください。悪気はないんです。ただ育ちが悪いんです。」

　ソーハンとモーハンは眉（まゆ）を顰（しか）めてニルマダを睨（にら）んだ。

　「けれどハルシャ王子、今頼れるのはここにいる者たちだけ。寛容（かんよう）な心を忘れて、二人を怒らせて敵に回すのは賢い者がすることではありません。」

　ニルマダはさり気なく注意（ちゅうい）した。ハルシャ王子は二人に言おうとしていたことを押し戻した。

　「さあ、行くぞ。」

　ソーハンがハルシャ王子に言った。ハルシャ王子は二人の無礼（ぶれい）な口の利（き）き方に腹が立つし、魔女（まじょ）の孫（まご）なんていう自分と同い年の子供に、タール砂漠（さばく）の砂（すな）の牢獄（ろうごく）までの道を知っているか聞きに行くのも気に入らなかったけれど、他に選択肢はないので、おとなしく二人に連れられてマルラーリーばあさんの家に行った。