1 虫食いの手紙
椅子にのけぞり、盛大に溜息をつく。
「ずいぶんお疲れみたい。肩でも揉んでやろうか?」
赤いベルベットのソファでだらしなくくつろいでいる布雪が、ホットアイマスクをずらしてこちらをみる。ネルのナイトウェアをだらしなく着くずして、素足が肘置きのうえに放り出されている。寮の部屋で、私しかいないとはいえ、気を抜きすぎだろう。疲れ切ったOLのようだ。二年生ともなれば、一年生の比ではなく大変なのかもしれない。
「いえ……それよりも課題手伝ってくれません?」
「それはダメ。分からないところがあれば教えてあげるけど、今やってるのは個人研究のレポートでしょ。手伝えることないじゃない。テーマ決めて、調べて、まとめて書けばいいの。考察とかも適当でいいし、難しく考える必要ない、ない」
布雪は手をひらひらと気楽に振る。
青純女学院のカリキュラムは単位制で、高校時から大学と同じシステムを採用している。非常に融通の利く、というか自由気ままに授業計画を自分で立てることができる。互換性はないのに大学の授業を飛び級でとったり、三年まで一切基礎科目の授業を取らなかったり。留年はなく、卒業時に単位数さえそろえばよいので、人によってはやりたい放題らしい。ただ、高校の一年次はオリエンテーションを兼ねているので、一応のクラス分けと推奨授業計画に沿った単位取得が一般的となっている。私も学院の推奨計画に従って、一通りの授業を履修している。
推奨授業には国数英の基礎三教科と理社選択科目の他に、テーマ研究やら個人研究といった、一見しただけではなにをすればいいのか分からない授業がある。基礎科目の授業は進行こそ早いものの、教員の授業は分かりやすく、授業さえ真剣に聞いていればテストで爆死することはない。ひとによっては全国模試や学年順位のでる定期考査を受ける。学力に応じた資金援助を期待する者は、この定期考査で何位以内という規定があったはずだ。私は学費外のお金は必要としていないので、期日の近づいた定期考査も気楽なものである。
やっかいなのは研究授業である。基本的に自主研究の時間で、教員は論文の書き方と大学の研究室一覧、資料室の使い方、学外調査の申請などのやり方を一通り紹介するだけしたら、二ヶ月に一本のレポート提出を命じたのみ。先輩曰く、本当に何でもいいらしいが、何でもいいと言われると却ってなにで思いつかないものである。レポートの審査基準は教員によってまちまちで、面白さを最重視されるという噂もある。
「そう言われても、私読書感想文とかも苦手で。そもそも、テーマ自体なんにすればいいか」
「私は一年通して
なにか、危ない言葉が聞こえた気がしたけれど、聞かなかったことにした。一般家庭出身とはいえ、布雪も学院生の例に漏れず変人奇人の類いなのだ。ひとことで言えば、極度の偏食家。幻覚作用のある葉っぱを食べたり、毒々しい色の虫を食べたりなどはまだ食べ物っぽい。美味しい段ボールのメーカーだとか、土壌の成分の味覚判別だとか、美味しい食品サンプルだとか。口に入るものは何でも食べようとする、赤ちゃんのようなひとなのだ。
実は寝ているときに、文字通り味見されたこともある。足首には、そのときの噛み痕がまだ残ったまま。味の感想は怖くて聞けていない。
「どうせ、私は退屈な子ですよーだ」
「そんなこと言ってないじゃないの。ホラ、この前話してくれた事件をレポートにすれば? なんだっけ……思い出した。『純血会吸血鬼事件』なんて、どう?」
「いや、それは……」
私は口ごもった。
溜息の理由は、なにも課題レポートが片付かないからだけじゃないのだ。純血会の夜、事件ですらなかった事件を共に経験した稲生令とは、一方的に険悪な状態に陥っていた。
事件の数日後、私は彼女が体調を崩していやしないかと心配して部屋を訪ねた。なにしろ、土砂降りのなか外に駆けて行った彼女は、一晩経っても戻ってこなかったからだ。衣里からはそっとしておけと言われていたが、どうしても気になった。
彼女の部屋を訪れた私を迎えたのは、罵声と怒りの暴風雨だった。
「あのとき、オマエが『窓が開いていた』、なんて言わなければ、私は間違えなかったッ! 少しでも怪異の存在を信じた私が馬鹿だった。冷静に考えればすぐにわかる話だったんだ。被害者が協力者である時点で、気付くべきだったッ! 三階から飛び降りなくても、血を採る時間も場所も、どうとでもなったのに。愚かな私、馬鹿なオマエに惑わされた私。そもそもオマエが私に関わらなければ、巻き込まれることもなかったッ! 二度と私の前に現れるな、この疫病神ッ!」
開けた瞬間に怒鳴りはじめ、一方的に吐き出すだけ吐き出したら力いっぱいドアを閉められた。私には口を挟むすきもなく、飛んでくる唾に体を晒していた。これほどストレートに怒りをぶつけられたことは15年の人生で初めてだった。どう反応していいのかも分からず呆然と、閉じたドアの前で放心していた。
「だから、言ったでしょ。今はそっとしておきなって」
様子を見ていた衣里が私の頭に手を置いた。彼女の部屋でもあるはずだが、今は入らないようにしているらしい。朱華の部屋に居候しているとか。
その場は大人しく引き下がるしかなかった。それからもう二週間が経過した。令は授業には出ているようだが、寮で見かけても拒絶オーラ全開で話しかけられる雰囲気ではない。目が合っても無視され、私以外の他人とも一切関わらないようにしているようだ。
令の態度は完全に八つ当たりなのだが、他人に怒りを向けられたことがなによりショックだった。平凡ながらも幸せに生きてきたという証拠であるが、いかに私が他人と向き合ってこなかったのか思い知らされた気がした。生まれて初めて他人のことで悩みを抱える羽目になったのだ。
思い出したら、また溜息がでた。
「すこし散歩してきます」
時計を確認して、椅子を引いた。20時前、門限まではまだ余裕がある。
「遅くならないようにね」
布雪はアイマスクを下げて、再びだらけはじめた。
私はブラウスの上からカーディガンを羽織って、部屋をでた。
寮を出て外をふらついていたら、一枚の紙きれが飛ばされてくる。夜の空を漂う様は、どこぞの布妖怪のようで少し不気味だった。こちらの足元に寄ってきたので思わず拾い上げてしまう。罫線が引いてある縦書きの紙片は、どうやら便箋のようだ。
どうやら、というのは、ひどく汚れているうえに、破れて判読が難しいからである。文字はにじみ、皺だらけの手紙。まるめて捨てられるはずだったのか、それとも風で飛ばされてしまったのか。
『親愛……様へ
どうか、愚かにも……裏切……自らの罪……ます。
……、こころ、はやせに酷いことを……の欲求を満たすための道具でし……
ごめんなさい。謝っても……償い……て誓をここに……
……為が悪なら……する。……が■なら、秘密に……。
許されたいとは思いません。
■■窓』
手書きの文章は虫食いだらけで、内容のすべてを読み解くことは叶わない。しかし、筆圧から伝わる悔恨の念は強く、私の奥底にまで突き刺さるものがあった。文字の止めで溜まったインクのあと、筆跡の震え、塗り潰した文字、傍線での修正。
私はそれほど感受性の強い人間ではない。映画やドラマでも、あまり感情移入しない方だ。そんな私にも、この手紙からは書き手の迷いや苦しみが伝わってくるようだ。
「まど……そう、かな。ソウさん」
苗字の潰れた名前を読む。聞いたことのない名前だ。少なくとも一年生の同じクラスや、葵寮の知り合いではない。肝心のあて名は潰れて読めないし、文章中に出てくる人名らしい『こころ』や『はやせ』にも心当たりはない。
飛ばされたものなら持ち主に返すべきだろうし、捨てられたものなら私が見ていいものではない。かといって、このまま見過ごすのも忍びない。数分間、どうすべきか考えあぐねて、ポケットの中にしまう。
寮に帰ったら、布雪にそれとなく聞いてみよう。この手紙を書いた『ソウ』が見つかれば、見てしまったことを謝罪して返そう。そう思いながら、丁寧に皺を伸ばして折り畳んだ。
寮に戻ると、見覚えのある背中が寮の入り口辺りをうろちょろしているのが見えた。用事があって入りたそうにしているが、どうにも気が咎めるようだ。玄関の段差を上ったり、降りたり、不審な挙動を繰り返している。この間、迷惑をかけたばかりだから入りにくいのだろう。
「風早さんだよね。どうしたの、朱華さんに用事?」
私が話しかけると、風早琉花は飛びあがって小さな悲鳴をあげた。
「あ、よかった、です。柏李来さんを探していました」
不安そうな表情から一転、花が咲いたように明るく微笑む琉花。その首元には、先の事件でつけられた偽の噛み痕が残されている。黒ずんで肌に落ちたシミに、自然と目が吸い寄せられる。
「私に用事? 課題とかなら――」
すべてを言い切る前に、彼女に距離を詰められる。あまりの勢いに、驚きで体が硬直してしまう。ぶつかる直前で急制動をかけた琉花は、私に触れてきた。
「あのっ、私を助けて頂けませんか?」
耳の先まで赤くして、私の左手を、彼女の両手で握り締めた。もう梅雨入りという時期なのに、彼女の手は血の気が引いてひんやりとしていた。
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