集会所の掃除

今から二十年は昔の話だ。


まだ小学生だったある年の夏、僕は子供会で開催される夏のお泊り会への参加を数日後に控えていた。

一泊二日のお泊り会では学区の内外から子供たちが集まり、流しそうめんやバーベキューに舌鼓を打ちながら、朝から晩まで遊び倒す。まさに夏の一大イベントである。 

その為の着替えやお菓子を詰めたリュックも一週間前には用意を終えて、それを毎日背負っては、指折り数えて当日を心待ちにしていたものだ。そのような子供は僕だけではなかったし、大人も子供も一丸となって盛り上げようとする空気があった事を覚えている。


「あんた、明日のやつに参加することになったからね」


が、そうして浮かれていた気分も、母親の一言で終わりを告げた。

お泊り会の会場は近所の神社に隣接する集会所であり、開催前日に近所の子供が集まって大掃除をする事になっている。明日、つまりはこの大掃除への参加決定に、僕は酷く落胆した。

どうして掃除くらいで、と思われるだろうが、これは僕だけに限った事ではない。当時あの地区に住んでいた子供にとって、この宣告は地獄に叩き落されるのと同じだったのだから。


 子供会の活動とは勿論楽しい事ばかりではない。地域清掃やボランティアといった慈善活動への参加活動も多く、正直なところそちらは余り人気が無かったように思う。それでも振舞われるお菓子や食事を目当てに参加する子供はそれなりに居たものだ。

しかし、一つだけ子供達の誰もが参加を嫌がる活動があった。

その活動こそが、集会所の大掃除だったのである。


理由は単純で、そこに幽霊が出るからだ。


お泊り会の開催は毎年八月の第三土曜日から日曜日。その前日の金曜日に、集会所内で首を吊った男がいたらしい。勿論、僕らが生まれる前の話である。

今でいう事故物件となってしまった集会所だが、子供会のみならず町内会や老人会、そして選挙の会場にと、なくてはならない場所の為に神社がお祓いをしたそうだ。

が、何年、何十年も経って噂が残ってしまっている事から、その成果は推して知るべし。

少なくとも事件があった事は大人に聞けばわかる事実であり、一部の物好きを除いて、歴代の子供達が大掃除への参加を拒否するにはその事実だけで十分だった。

けれど、諸々の大人の事情から日程変更も難しく、かといって大人が掃除してしまっては教育的によろしくない。

それならばと取られた手段はそう、くじ引きである。簡単に言えば、僕の母はそのくじ引きに負けたのだった。

とはいえ、僕が知る限り幽霊を見たことのある人はおらず、お泊り会も中止になった話など聞いた事が無い。


だから、噂はあくまで噂でしかないと、この時はまだそう思っていた。


翌日、僕は雑巾を手に、集会所の廊下を疾走していた。学校の掃除の時間より俄然気合が入っているのは、幽霊に会いたくないその一心でだ。

集会所は縦長の構造となっており、部屋は大きく分けて三つ。手前の和室が最も広く、その奥に小さな小部屋が横に二間繋がり、東西に延びる建物の両サイドをまっすぐ伸びた廊下が走っている構造になっている。

その廊下を何度か往復して、くすみでんでいた廊下にもだいぶ光が戻っていた。

これなら後ひと拭きもすれば良いだろう。僕は仕上げとばかりに、硬く絞った雑巾を床に着け、奥へ向けて駆けていく。

突き当たりに到着し、向きを変えようと身体を反転させた時。


――ガタッ


何か聞こえた。けど、一体どこから? 

身動ぎせずに耳をすましていると、


――ガタッ


また聞こえた。先程よりもはっきりと。その音は、僕の右手にある閉ざされた襖の奥から聞こえてくるようだった。

襖の向こうには二間続く小部屋があり、中では××君という子が掃き掃除をしている筈である。なのに今は、物音ひとつ聞こえてこない。畳の上をそよぐ風の音すらも。

僕はゆっくりと立ち上がる。襖の縁に耳を付けると、ひゅうっと隙間をすり抜ける風の冷たさを感じた。


「ひっ」


思わず飛びのいた瞬間、目の前の襖が開き、黒い頭が中から飛び出してきた。

え? と驚く間もなくぶつかられ、体勢を崩す。そのまま勢いよく尻餅をつくと、目の前に星が瞬いた。

目をつぶって痛みをこらえていると、少し離れた位置から「おい、どうしたんだよ!」等と、どよめく声が聞こえてきた。


「大丈夫か? 」


暗闇の中から掛けられる声。ゆっくり瞼を開いていくと、友人の一人が背中を丸めて僕の顔を覗き込んでいる。

その顔に大丈夫だと答えた時、廊下の向こうからヒック、ヒックとしゃくり上げる声に気づいた。飛び出していった××君が泣いているらしい。

座り込んだままで横を見る。監督役の高校生にしがみ付いて××君の肩が震えていた。


「おい、どうした? 泣いていたらわかんないぞ」

「……で、出た」


出た。くぐもった涙声はただそれだけを繰り返す。


「出たって、何が」


恐る恐る誰かが問う。その声は僅かに震えていた。


「なぁ! 何が出たんだよ!」

「こら、やめろ!」


上がった叫びを高校生が制する。その声の大きさに、しゃくり上げる声もその大きさを増し、縋りつく手が再び震えだす。

目の前にある異常な状況に、僕も、誰もが何も言えずにいた。

しゃくり上げる声と、遠くで鳴く蝉の声だけが狭い廊下に響いている。


「……男が、出た」


しん、と静止した空気を揺らす小さな声。一斉に向けた視線に刺されながら、ゆっくりと上がっていく頭が見えた。


「掃除してたら、ガタッて音がして……振り向いたら、足が、揺れてて。ブランコみたいに、ぶらんぶらんって……それで、見上げたら」


見上げたら、その先には何があるのか。口をつぐんでしまった彼の見た続きを、多分僕には分かっていた。

僕だけじゃない、恐らくはその場にいた全員が。


――ガタッ


襖が開いているからだろう。音はとてもよく聞こえた。それが、何かが倒れる音だと分かる程に。


何かとはそう、例えば―――踏み台のような。


ゆっくり、ゆっくりと僕は顔を前へ向ける。あまりにぎこちなくて、ギギギ……と音が聞こえそうだった。

動きが止まると、それは見えた。


空いた襖の中で、ぶらん、ぶらんと揺れる足。


右へ左へ、大きな振り子のように弧を描いて。

僕はそのままゆっくりと、顔を上へ向けていく。

鼠色のズボンが見えた。皺くちゃのシャツが、黄ばんだ襟が。


そして、痩せた首に巻きつく太い縄が、見えた。


「うわあああああああああ!!! 」


僕は跳ねるように立ち上がり、脇目も振らずに走った。靴も履かずに外へ出ると、また走る。

気付いたら、自宅のベッドで布団をかぶって震えていた。


結局その夏は結局お泊り会には参加せず、自宅で震えながら残りの休みを消費した。

その間、謎の幽霊が家に現れたとか、三日三晩原因不明の熱に苦しむとか、そういったことは何も起こっていない。寝て起きて、宿題を済ませて、家でダラダラしていただけの実に穏やかな休暇だった。


休みが明けて最初の登校日。学校へ行くと、あの場にいなかった奴らからは臆病者と罵られたが、あの場にいた友人達は何も言わずに僕を庇ってくれた。

後々話を聞いてみた時、僕の傍にいた別の友人からは、寧ろあの時何を見たのか聞かれてしまった。何かを見て叫び出した僕を見はしたが、部屋の中には何も見えなかったのだという。

そしてお泊り会自体は何事も無く始まり、何事もなく終わっていた。欠席した僕と××君の事には特に触れられなかったそうだ。


僕らが見たものは恐怖心が生み出した幻覚だったのだろうか。

それとも、たまたま何か見間違えただけだったのかもしれない。

あれから何年か後、少子化のあおりを受けて子供会そのものが消滅し、僕自身あの土地を離れて生活している今、あの時見た者が何だったのかを今更知りたいとは思わない。



ただ、一つだけ気になるのは……もしも僕も××君と同じくあのまま顔を上げていたら、こちらを見下ろしているその顔は一体どんな表情だったのだろう。

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