『いらっしゃいませ』
「いらっしゃいませ」
聞こえてきた声に、足を止める。
そこは軒を連ねる商店が鮮やかに色づく、夕方のアーケード街だった。夕食時を前にした人々で賑わう大通りのど真ん中で、私はひとり立ち尽くしていた。突然叩き起こされ、世界に放り出されたかのような感覚だった。
急に立ち止まった迷惑者へと向けられる苛立ちの視線に、けれど私は何も返さず、キョロキョロと周囲を見渡し続ける。
普段なら会釈の一つも返すところだったが、何故だろう。他人の視線や感情よりも、この時はただ、私の足を止めたその一言が気になって仕方なかった。
『いらっしゃいませ』
それ自体は特に珍しくもない、店に来た者を歓迎する店員の常套句と言える言葉だ。
ようこそいらっしゃいました、ごゆっくりお買い物をお楽しみください。込められている意味は、大方そんなところだろうか。
言う方は毎度気持ちを込めているのかもしれない。
が、私からすれば、店に入る度に聞かされる定型文でしかなく、殊更気を引かれるものでもない。
人で賑わう商店街のそこかしこから溢れ出ては、路上を埋める生活音の一部と化しているその言葉。
何故こんなにも気になっているのか。私自身にもどうしてかわからなかった。
わずかな困惑を胸に耳をそばだて、周囲を見渡していた私の視線に、不意に飛び込んできたものがあった。
くたびれたビニール製の庇の下に、簡素な出入り口と、シャッターの空いた大きな開口部があるだけの寂しい店先。
商品を乗せたワゴンも棚も無く、幟の一つも立っていない姿は、賑わう商店街においてとても異質に思えた。
とても営業している様には見えず、違う店だったかと視線を他所へ向けようとした。その時、
「いらっしゃいませ」
それは間違いなく、薄暗い店内から聞こえてきた。そして、私に向けられたものだという強い確信があった。
その確信に引き寄せられる様に、私の足は店先へと向かっていった。
恐る恐る覗き見た入り口の奥は、灯りの一つもない薄暗さに包まれている。
しかし、暗闇に馴れてくると、明らかに異質な内装が浮かび上がってきた。
向かって正面に置かれたカウンターと、その奥にはぽっかりと暗闇を湛えた四角い口が開いている、それだけだ。棚も、ワゴンも、商品の一つすらも見当たらない。
そこにはのっぺりとした壁が取り囲む虚ろな空間が広がっているだけだった。
やはりあれは気のせいだったのだろうか。営業などしておらず、それどころか店舗ですらなかったのかもしれない。
無駄に時間を取られてしまったと溜め息をついて、出入り口の方へと振り返った。
「あれ? 」
その瞬間、私は店の外に立っていた。出入口を出ていないので、まだ店の中にいるのは確かだ。
けれど目の前には、くたびれたビニール製の庇の下に、出入り口とシャッターの開いた開口部があるだけの、あの寂しい店先があったのだ。商品を乗せたワゴンも棚も無く、幟の一つも立っていない。賑わう商店街においては異質すぎる外観が、鏡写しの様に反転した姿でそこにあった。
訳が分からない。店の内装を担当した人物は何を考えていたのだろうか。
軽くこめかみを抑えてうつむきつつ、混乱する頭を整理しようとする。が、頭痛がしてきたところで私は考えるのを止め、とにかく外へ出ようと、顔を上げた。
通りに面した大きな出入口から見えるのは、交互に行き交う人々の姿。その一人一人の後ろを追うように、ひらひらとそよぐ何かが引っ付いている。眼を凝らすと、人の頭程の大きさをした、長方形の紙のような何かに見えた。
何だ、あれは。自然と前へ出た足が、出入口へと向かっていく。通りまで後数歩というところへ来ると、その何かがよく見えた。
『¥ツニ無75濵挟』
『¥多湿ハタサ熱』
『¥ツヒ卦ナハ粗布』
そんな単語の羅列が、長方形の紙に太い黒字で書かれている、そんな風に見えた。
よく見ると,その一部は黒字の上から、更に太い赤字で書き直されてるものもあるようだ。ひらがなやカタカナ、漢字のような文字もあれば、曲がりくねった線にしか見えないものもある。
けれど、暫く見ているうちに、一つだけ読めるものがあった。
それは、紙の全てに共通して書かれている『¥』のマーク。現代日本と同じく『円』と読むのであれば、紙の正体は一つしかない。
値札だ。
黒く太く、時に赤で書かれているのは、表示された価格の数々。それが人間一人一人について、ひらひらと存在を主張している。
であれば、あれは人間の価格ということになる。どうしてそんなものが見えるのか。けど私にはそれよりも、人間の値段とやらが高いのか低いのかの方が気になっていた。
文字の羅列だけでは値段そのものは分からないが、単純に考えれば、文字数が多い方が価格が高いと捉えるのが一般的だろう。
ならどういう人物であれば文字数が多いのか、見比べようと開口部に近づいていった。
文字数は少なければ一桁、多い人で十桁以上と差が大きい。それぞれに共通点があるかと思いきや、どちらも外見的な特徴にはばらつきが見られ、決まった特徴は無いように思える。
強いて言うなら、一桁の人物は皆どことなく遠くを見つめる目をしている、ということくらいか。それぞれ違う表情をしているのに、その目だけはどれも同じところを見ているようだった。
いや、どこも見ていない、というべきか。分かったのはそれだけだ。
見出だしたなどとは到底言えない、たったそれだけのことが、まるで大発見かのように眩しく思えた。
そこまで考えた時、ふと口許に違和感を覚えた。手で触れてみると、わずかに口角が上がっている。
いつの間にか、私は笑っていた。笑顔になるなんて、久しぶりのことだった。
私はいつから笑っていなかったのだろう。趣味の一つも持っていた筈だったのに、笑うほど楽しく何かに没頭するなんて、いつからしていなかったのだろうか。
最近は寝ても覚めても仕事ばかりで、寝食すら忘れていたように思う。自分の生活状況を思い出そうとして、何故かここ数ヵ月の記憶が曖昧なことに気がついた。頭の隅に残った記憶を浚おうとするも、覚えているのは誰かの罵声と嘲笑しかなく。
そこまで思い出した時、懐がヴヴヴと震えた。サイレントにしていた筈のスマホを見ると、何十件もの着信とメッセージ通知が並んでいる。
『今送ったデータ、明日までにやっとけよ。お前なら出来るだろ? 出来ると思ってるから頼んでるし、出来なかったらお前がまだそのレベルに達していないって事なんだからな』
一番新しいメッセージにはそう書かれていた。データとやらは、自宅にあるパソコンに送られている筈だ。
本来ならば私用のパソコンでの作業は禁じられているのだが、先輩社員は自分もやっているからと、こうしてよく任せられていた。大抵は翌日締め切り。けれど私なら出来る、それだけの実力があるからと。
そうだ、こんなことをして笑っている場合じゃない。笑っていたら仕事は終わらず、明日の業務に支障が出るだろう。自分の評価もまた下げられてしまう。
「帰らなきゃ」
口角を下げた口からは、たった一言だけが溢れた。
急いでスマホを仕舞い、そのまま外へ出ようとする。
が、開口部のところで何かが阻んだ。シャッターは開いていて、ガラスなどは填まっていない。なのに、見えない壁が確かにあった。
「何で……」
両手の拳で壁を叩く。ボン、ボンという鈍い音と、伝わるのは固い感触。けれど見えない壁は固く、指一本分すら外へ抜ける様子はない。
出られない。漸く実感した事実に力が抜け、その場に座り込んだ時だった。
ズズズ……。
私の背後で、何かが蠢いた。
耳に、首筋に生温い風がかかる。全身の毛が逆立ち、冷たいものが背筋を伝う。
髪の毛の先が触れる距離、その場所で、吐息が聞こえた。
「イらっシャいマせ」
「いラッしャいまセ」
「イラっしャイまセ」
頭が痛い。耳の奥でぐわんぐわんと音がする。気持ち悪い。
声は一人なのか、複数なのか、それすらもよく分からない。
恐ろしいと、その時初めて感じた。振り向けない。
「さアこッチへ……いらっしゃいませ」
ああ、やっぱり私は呼ばれてたのか。ぽっかりと口を開いた、あの暗闇の向こうから。
私の値段は幾らだったのだろう。最期に浮かんだのはそれだけだった
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